そんなの言われなくても行くしと嘯(うそぶ)いて、もちろん胸の内で、青になるのを待って、というのは行き交う車の間を縫って渡ることはできないからで、そうして幅広い車道を横切りながら何も起きてないのを確かめるように振り返り、何も起きてないのを認めて前に向き直ると、真剣な眼差しで腕組みなんかしたりして如何にも教師然とした口振りで何か訓戒を垂れてるらしいんだけど、何を言ってるのか何が言いたいのか分かるような分からないような、お経でも聞いてるみたいに意味が零れ落ちてゆき、それよりも髪を掻きあげる仕草に視線は釘づけになって、気づけばそこに手が伸びてるし指先が絡まってるしそのピンととんがった耳のほうへとさらに伸びていって、まるで何かに導かれるように、そしたら耳が間近に迫ってきたからそこに唇を押し当てて嘗めたりしゃぶったり、それから首のほうへも下りていって嘗めたりしゃぶったり、さらに下へ下へと下りてゆきながらまだ実感がなくて、でもこうして一段一段踏み締めてるからには帰っていいってことなんだろう、というかもう帰宅の途に就いてるわけで、でも彼女はなんて言ったんだろう、たしかに耳にしたはずなのに当の言葉はどこを探しても見当たらず、撲(ぶ)たれた拍子に記憶が飛んだなんてことはないはずで、というか抑も撲たれてないし、それとも撲たれたんだっけか、いや彼女に撲たれたことは一度もなかったはず、撲たれてみたいと思ったことはあるかもしれないけど、もちろんこっちが撲ったこともなくて、撲つのも撲たれるのもお断りってリコは言うかもしれないが、どっちにしても確かめる気は、下を目指してる身体を反転させてもう一度上へ彼女のとこへ暗い檻のような場所へ引き返すなんてことは、そんな気はなくて、全然ないってわけじゃないけど気になることは気になるんだけど、というのは彼女がなんて言ったのかってことだが、でもそれを知ったからってどうなるもんでもないし、心はすでに帰るモードになってるし、というより帰りたいモードか、だからどんどん下へ向かってるんだけど、静まり返って一段と廃墟めく階段を踏み締めながら実感のほうは依然踏み締められず、いやいくらかは解放の喜びに浸ってもいるけど手応えがなくて、でもいったいどこまで下りたら手応えを得られるのかどの段を踏んだらそれが得られるのか虜囚と解放との境目はいったいどこにあるのか、というかもう囚われの身じゃないんだからここはすでに自由の地で、だから自由のはずなんだけどそれが実感できなくて、それを求めて自由を求めてひたすら下へ下りてくわけで、一段下りるたびにからっぽの胃袋が悲痛な叫びをあげ、一段踏み締めるたびに胃内のコーヒーが波打って、それで重心が不安定になることはないけど足の運びは慎重になって、ゆっくりと下の段へ足を下ろすとその反響もちょっとだけ控えめになり、そしてすぐに掻き消えて余韻もなく、自由への道のりは遠く果てしないけど一歩ずつそこへ向かってはいて、だから諦めず次の足を下の段へ下ろしてくわけで、そんなわけでずいぶん時間は掛かったけどどうにか自由にはなれて、それでもまだ自由だって実感はなくて、なかったんだけど、自由なんだって言い聞かせて、もちろん自分に、でも寒い季節だったのか外はもうかなり暗くて人通りもなく、いや人通りがないのは表通りから一筋外れてるからだし、暗いのは電柱から斜め上に張り出して夜道を照らしてくれるはずの街灯がまだ灯ってないからで、でも街灯が灯ってないってことはそんなには暗くないのかもしれず、実際それほど暗くないんだけど、でも夜は刻々と迫ってきてるからそれなりに暗くはあって、アスファルトの路面は真っ黒だしそこに浮かび上がる止まれの文字が白く眩しくて眼に刺さるし、いや刺さらないけど、それを、その白いのを踏み越えることができなくて大きく左へ迂回して、でも迂回しても迂回しても新しいのが、白いのが現れて行く手を阻(はば)んで、そう白いのがその白いのが白くて粘つくのが現れて、次から次から溢れ出て、というか迸(ほとばし)って、というか先走って、そんなわけでいつもこっちが先に限界を迎えちゃうわけで、そうなると急速に萎(しぼ)んじゃってすぐには戻らないから、持続力も回復力も格段に落ちてるから、でもまあずっと立ってはいられないわけだし、というか立ちっぱなしってのは案外辛いもんで、血の気が引いて頭はぼんやりしてくるし、立ってるのか立たされてるのかそうした前後の脈絡も定かじゃなくなってくるし、とはいえもちろん彼女がオレを立たせるわけで、その口で、上のほうは薄くてシャープな印象だけど下のほうはちょっと厚ぼったくて穏やかな感じのその口で、化粧っけのないそれでいて妙に艶々してるその唇で、窄(すぼ)めたり弛めたり開いたり閉じたりさせて、時どき舌を覗かせて、眼を細め眉もちょっと歪めて真っ直ぐこっちを見据えながら、立ってなさいって、そこに立ってなさいって命ずるわけで、立ちたくて立ってるわけじゃだからないんだけどそう命じられたら従うほかなくて、でもずっとは立ってられないからいつか限界は来ちゃうわけで、もう限界だよとは言わないけど言うわけないけどでもそれとなく合図は送ったりして、絶え間なく動きつづける彼女の口のその動きを目で追い掛けながらその意味するところを考え、というか考えるより先に身体が反応して仰け反るというか屈み込むというか、世界が傾いて、最初はゆっくりとそれから急に速度を増して、そしたら目の前から彼女がいなくなり、イリュージョンでも見てるみたいにあっという間に消えちゃって、どこへ行ったのか探す暇もなく右側頭部に強い衝撃が加えられて鈍い音が頭のなかに響き渡り、でもすぐまた彼女が現れて、というか消えちゃったわけじゃないらしく、ずっとそこにいたらしく、そうして全部を見てたらしく、だからこうして彼女の両腕に抱えられてその胸元に引き寄せられてるわけだけど、間近に見る下から見上げるその表情はやはり暗くてよく見えないけど害意はないみたいで、というか何か早口で捲し立ててるけど口が動いてるのが、開いたり閉じたりしてるのが見えるだけで、いやそれさえぼんやりしてそれが、その動いてるのが口なのかどうかも定かじゃなくて、見たところただの黒い穴、というか湿った黒い穴でしかなくて、それが閉じたり開いたりするわけで、そこを出たり入ったりするわけで、そうして出てきたものが声になるんだろうけどそれはまだ遠くて、耳鳴りが邪魔して聞こえないのかも、とにかく肩を借りてまた立ちあがると不測の事態を詫びるように項垂れて言葉なく佇んでるしかなくて、そしたら白いのがまた膨らんで、スカートみたいにふわっと揺れ動いて、でもやはり風はどこか余所を通ってくらしく、壁伝いにか天井伝いにかそれは知らないが、そうしてどこかへ行くらしく、ついて来いとその背が言ってるようだからためらいながらもついてくけど、でも行くといってどこへ行くのか、もちろん彼女が行かせるとこへ行くわけで、行くしかないわけで、行くしかないわけだが、行ったあとの虚しさと言ったらそれはもう、いっちゃえいっちゃえいっちゃえ、行くけどでも、いっちゃえいっちゃえいっちゃえいっちゃえ、行くったら、いっちゃえいっちゃえいっちゃえいっちゃえいっちゃえ、としつこくそれは纏わりついて離れない。