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08

それはともかくその匂いは元もと好きなほうだからその匂いに包まれてたいって単純に思ったのに違いなく、それ以外にもないわけじゃないだろうけど理由らしい理由はそれくらいしか思いつかなくて、でもその場にその環境に一秒でも長くとどまりたいとどまっていたいって気持ちは強ちバカにできないし、特定の場所が齎すある種の感興は鬱屈した精神を上向きにさせるかもしれないし、させないかもしれないけど、させるとすればモチベーションアップにも寄与するだろうって単純な発想だけど、でも効果は期待できる気がして、そんなわけで書店というのはバイト先として最適なんじゃないか、少なくとも他に選択肢はなさそうだってことで、だから本の匂いに包まれてあることは、どこもかしこも本の匂いがしてるというか本の匂いしかしてないってのはたしかに心地よくて気持ちを和ませてくれてなんでもできる気がして、できないのは知ってるけどできる気がして、でもそんなのは最初の何回かだけですぐになんにも感じなくなって、いやなんにもってことはないけど、現に今だって深々と深呼吸してみればその濃厚な香りに得も言われぬ陶酔を感じたりするし、でもそれは意識的に感じようとするからであって、特別なフィルタを通すからであって、いつもいつもそうした意識でいられるわけじゃないからそのうちほとんど感じなくなって、やる気もだから失せちゃって、というかやる気はあるけど神経が保たなくて、本を並べたり本を整理したり本を入れ替えたりの単純作業にもだんだん飽きてくるしせっかく綺麗に並べたのをわざとかってくらいめちゃくちゃにする不心得者に腹は立つし、そんなわけで作業のいちいちが、それがどんな作業であっても、本を数センチ横にずらすだけでもあるかなきかの埃を払うだけでも困難を伴わずにはできないということになって、使えねえとか言われながら、フロアを行ったり来たりしてるうちに幾時間かが泡と消え、それはつまり上の強力な邪念がこっちに侵蝕してきてるからに違いなく、互いの波動が同調というか共鳴というか感応というかし合って、そうしたことがあり得るとしてだけど、いやあり得るとかあり得ないとかそういうことじゃなくて、影響を及ぼしてるみたいな、知らず知らず影響されちゃってるみたいな、そんなことになっちゃってるらしく、さらには上の強力な邪念の影響で自分が狙われてるってことにも気づいちゃったわけで、でもまさか自分が標的にされるなんて思ってもなくて、いやむしろ自分こそ標的にされて当然で、というのもGメンの尾行にそれは違いないからで、気配を殺してるから分からなかったけど間違いなくそうで、でもこんなとこまで追ってくるとは仕事熱心にも程がある、というかここはすでにリング外なわけで、つまり死闘を繰り広げる場じゃないはずで、それをしも仕事熱心と言っていいものか、とにかくそれを承知でマークしてるとなればこっちとしても望むところで勝負に出ないわけにはいかないけど、その前に何か一言くらい言ってやんなきゃ治まらないっていうか、一発ガツンとかましてやるみたいな、そんなわけで言うべき言葉を探してるわけだけどなかなか言うべき言葉は見つからなくて、というか抑も言うべき言葉なんてあるんだろうか、言いたくない言葉ならいくらでもあるけど、言いたくないからそれは言わないけど、言ったあとになって言うべきじゃなかったとか言わずもがなだとか言おうとしたのとは違ったとか、どうせそんなことになるのがオチだからで、だったら最初っから何も言わなきゃいいじゃんかってことで、それでも言うべきなんだろうか、だから何をだよ、なんでもいいから、なんでもって何だよ、なんでもだよ、なんでもか、なんでもだ、ホントになんでもか、諄(くど)いな、じゃあ言わせてもらうけど適切な単語を適切に並べて適切な長さの文章を適切に構成して適切な発声と適切な発音と適切な声量で淀みなく声にするといったようなことが窮めて困難な作業なために、誰にとっても困難な作業だってことじゃなくて自分にとって困難な作業だってことで、だから何かを言おうとしても一連の作業のどこかで躓いて結局何も言葉にできなくて口籠ってしまうほかなく、その分リコが喋り倒してこっちは聞き役に廻るってな具合で、でもリコにはそのほうが都合がいいみたいだし自分としてもそのほうが気が楽で、楽って言っても巧く言葉を操れない自分を思うにつけ腹立たしいというか嘆かわしいというか呪わしいというか、今にはじまったことじゃないけど、いつはじまったのかも知らないけど、いやなんとなくは分かってるけど特定はしがたいってことで、喋ることへの抵抗とそう言っていいものか、というのも何かに対して抵抗してるとか抵抗してきたとかいうわけじゃないからで、どっちかというと回避とか逃走とかそんなとこだろう、プレッシャーに弱いのか、というより身体が弱いのか、病弱ってほどじゃないけど華奢な体躯なのはたしかで、だから心より先に身体のほうが参っちゃうみたいで、しっかり踏ん張って支えてないと倒れちゃいそうで、でもそう簡単には倒れないわけで、むしろ倒れちゃったほうがいいかもしれないのに、いろんな意味で、でも立ってるわけで、千年立ちつづけてる古木並みに立ってる気がするが、実際のとこどれくらいなんだろう、一時間か二時間か、四時間ってことはないだろうけど立ちっ放しでフラフラし、お昼も食べてないから、というか食べさせてもらえなかったから、その間もずっと立ちつづけで誰からも何の指示もないから午後の授業も受けられず、頭もクラクラして、まったく放置プレイもいいとこで、でもそのときはそれが放置プレイだなんて思いもしなくて、というのもそうしたプレイに目覚めるのはもっとずっとあとになってからだから、でもそう思えたらも少し楽しめたかもしれないが、退屈で退屈で仕方がなく、でもどうすることもできなくて、言われた通り立ってることしかできなくて、その場を離れることも許しを乞うことも逃げることも抗うこともできないので、ただただ立ち尽しているだけで、教室から遠く離れてただひとり退屈を紛らす術もなく無力な自分を呪いつつ、というか今尚そうなんだけど、これからもずっとそうなんだろうけど、地面を斜めに横切る建物の影の線が、といって鉛筆で引いたような、幅のある、面積を持つ線じゃなくて、面積のない、面と面とがぶつかり合う面と面との堺を画す、隣り合うふたつの領域がぴったりと重なり合ってできる不在の線で、それがさっきより近づいてることに気づき、その線の向こう側は日に白く照らされて眩しいくらいだけど線のこっち側は暗く影になってちょっと涼しげで、その線がこっちに迫ってくるってことは涼しげな領域が影の部分が少しずつ侵されてるってことで、時間の経過とともにこっち側の領域が消えて日に晒され熱に焼かれてくわけで、でも影が動く様子はまったく確認できなくて、じっと眺めていてもそれがこっちに動いてくることはなくて、それなのに気づいたらさっきより間近に迫ってるわけで、つまり五分とか十分とか一定の時間が経ったあとで五分とか十分とか一定の時間が経つ前の線の位置と比較して確実に近づいてきてるわけで、どうしてそうなるのかわけが分からないけど、それを押しとどめることはできないし、況して押し戻すことなんかできないし、べつに押し戻したいわけじゃないけど、ただここにこうして立ってることしかできないからもうほんの一、二歩のとこにまで線が侵攻してきてるのにどうすることもできず、いやどうしたいとかこうしなきゃとかそうすべきとかそんなことは全然考えてなくて、いやいつだって考えちゃいないけど、ただ白と灰色の境目の斜めの線を見つめてるだけで、他にすることもないから眺めてるだけで、でも頭はクラクラするし力は入らないし立ってるのがやっとだし、というか立ってるって感覚さえ曖昧になって、そのうち線までが曖昧にぼやけてきて、白と灰色との境目がはっきりしなくなってひとつに溶け合い混じり合って、どっちがどっちを飲み込んだのか、どっちがどっちに飲み込まれたのか、地面は灰色でも白でもなくなって、ちょうどその中間の、両方を混ぜ合わせたような濁った色合いに落ち着いて、ざらざらした表面がさっきより、色が混ざる前より際立って、小石のひとつひとつが数えられるくらい、数えやしないけど、でもちょっとは数えたいかも、いったい世界には全部でいくつの小石があるのかって。

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