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03

それを踏みつけ跳ね飛ばしながら通過する車の走行音が排気ガスの臭いとともに背後で膨らみ、ということは追風だったわけだが、それを妙に間近に感じたから、その音と臭いを、臭いにはちょっと郷愁を誘われたけど音にはちょっと慌て、でも背後から何かが接近してきたら、そんな気配がしたとしたら、誰だって慌てるに違いなく、だからちょっと振り返ってみたんだけど、でも思いっきり真後ろは向かないで横手の様子を窺う恰好で視線だけちらっと後ろへ投げて、そしたら車はずいぶん後ろのほうを移動していてこっちに迫ってくる様子はないし追手の存在もなくて、つまりお客さまとオレを呼ぶ猫撫で声もなくて、いや猫撫で声かどうかは知らないが妙に慇懃な、それでいて有無を言わせぬ響きもあるねちっこい癇に障る声もなくて、安堵したってわけ、そんなわけでゆっくり道路を、片側一車線上下二車線の、交通量はそれほど多くないけど僅かにカーブしていて見通しが悪いのか事故はけっこうあるみたいで、情報提供を呼び掛ける立て看板なんかがあったりするし、でも提供できるような情報は自分にはなくて、なぜと言って事故を目撃したことがないからで、それに仮に目撃したとしても提供するかどうかは分からないけど、というのは情報を、目にしただろう出来事の全部を、痛ましい事故の一部始終を、というのはそうした秘密は自分だけの秘密として取っておきたいほうだから、自分ひとりで楽しみたいほうだから、でも接触しそうになったことは、つまり情報を求める立場に立たされそうになったことはあって、でもその逆はなくて、というのも車は持ってないから、それはともかく去年だったか一昨年だったか、それより前ってことはないと思うけど、寒かったような気もするけどそれほどでもなかった気もする、でも上着は着てたから少しは寒かったかも、といって薄手のジャケットだから、なんか縫製もいい加減であちこち糸がほつれてる安い労働力で作られた既製品だからそんなでもなかったかも、とにかくこっちに落ち度があったとは思えないんだけど、普通に青信号を渡ってただけだし、べつに普段から律儀に信号を守ってるわけじゃないけど、それに赤を青と見間違えることもないと思うし、というのも赤が赤いことは知ってるし青が青いことももちろん知ってるからで、つまり赤は赤く見えるし青は青く見えるってことで、そのときも青が青く見えてたから渡ったわけだし周りの状況から渡っていいと判断したわけで、そうしてもうほとんど渡り切ったとこだったか、もう一歩か二歩で横断歩道から歩道に届く距離だったと思うけど、けたたましいブレーキの音がすぐ傍でしたからびっくりして振り返ったら、先に怒ったほうが勝ちってことなのかそうしたことが罷り通ってるのか交通法規ではそうなってるのか物凄い形相で睨まれたっけ、四十代後半から五十代前半くらいの、メタボ全開みたいな、半径五十センチ以内には近づきたくないみたいな、加齢臭が伝染(うつ)るみたいな、脂ぎったおっさんに、撥ねられそうになった恐怖よりもおっさんの形相のほうが脳裡に色濃く、もちろん思いっきり睨み返してやったこっちに非がないこともその理不尽な怒りの理不尽さについても訴えながら、なんてことにはならなくて、悄々(しおしお)と先を急いだことを悔やんでるっちゃ悔やんでるけど、リコが待ってるし、というかリコを待たなきゃなんないし、といって待てを命じられたわけじゃないんだけど、でもそれが仕事みたいな、おかえりなさいませお嬢さまみたいな、だからってわけじゃないが、凱旋気分で浮かれてると足を掬われる、後ろから袈裟懸けにばらりずんみたいな、とにかく気を引き締めつつ指に食い込むその重みを何度も何度も握り直し、食い込みに食い込まれながら食い込まれまいと抗(あらが)い、そんなふうにして抗いつづけているうちに世界は閑散と静まり返って心も折れる、修復には一両日を要するかも、あるいはもっと掛かるかも、だからってわけじゃないがまずはコーヒー、何をさしおいてもそれがなくちゃはじまらなくて、いやはじまるとかはじまらないとかそういうことじゃないけど、目覚めのコーヒー食前のコーヒー食間にコーヒー食後もコーヒー三時のコーヒー外出前のコーヒーカフェでコーヒー帰宅後のコーヒー団欒のコーヒー湯上がりもコーヒー就寝前にもコーヒーって感じでコーヒーありきなわけで、そうして濃いめに入れた熱いのをふうふうしながら安吾なんかに読み耽りつつあるいは人差し指をページに挟んで緩い思考を巡らせつつ帰りを待ち、もちろんリコの、待ち倦(あぐ)ねて先にひとりでごはんってことはないけど、怒るから、怒らないまでもすごく機嫌悪くなるから、機嫌悪くならないまでももひとつ会話が弾まないから、でも小腹が空いて菓子なんかをつまむことはあるにはあって、ポテチとか、こうしたものでも冒険はできないらしくて大体いつも塩味の、たまにガーリックの、そういうとこ損してるよねってリコは言うけどそれって損してるんだろうか、損得の問題じゃないと思うけど、だから損してるとは思ってなくて、つまり損してないと思ってる以上それは損ではないんであって、要するに物事には損得で計れる事柄と損得じゃ計れない事柄とがあって、このケースはどっちかというと損得じゃ計れないほうで、そうした物事を損得でしか考えられないことのほうがむしろ問題だよ、たしかに世の中市場原理で動いてるから損得で考える癖がついても仕方ないかもだけど、と言いそうになったけどそれは控えて、油脂塗れの指でページを繰り繰り気づけば一袋空けちゃうことも、でも二袋ってことはなくて、つまりそこまで自制が利かないほど卑しくはないってことで、相応の卑しさに塗れてはいるものの、そしてそれについてはそれなり頭を抱えてはいるものの、ギリギリんとこで抑制できてるとは思ってて、それでも一袋くらいは空けちゃったりして、諄(くど)いようだけど二袋ってことはなくて、帰りが遅いからだとひとり気炎を上げるもすぐ萎(しぼ)み、そんなわけで味のついた指をシワシワになるまで舐(ねぶ)ってたりして、どうも嘗めたりしゃぶったりが好きみたい、あたしと同じじゃんってリコは言ってはくれないけど、でも嘗めたりしゃぶったりはするけど、とにかくページも皺くちゃで、安吾先生には大変申し訳ないが、いや安吾だけじゃなくて他のも大概皺くちゃで、だから傍目にはもの凄く読み込んでるふうに見えるかもしれないけど全然そうじゃないわけで、意識してやってるわけじゃないからもどかしく、でもそれはあたしのせいじゃないし、そうだけど、と呟きつつしおらしく仕度に掛かるアツシはリコに扱き使われてると言っていいが、扱き使うだなんて人聞きの悪い、ギブアンドテイクじゃん、と表向きそういうことになっていて、自分的にはどっちでも構わないからそういうことにしてる、っていうか世間一般的にもそうなのだろう、ってまたしても世間一般的か、そうやって何でも平均からの偏差で捉えようとするそのことにいったいどんな意味があるのか、世間一般的に言って、というかそれはただの口癖、いつからそうなのかは記憶にないけど気がつけばすでにそうだったし、誰だってひとつくらいは持ってるだろう他愛のない口癖、とそう言ってしまえばそれまでだが、というかただの、なんてこともない、全然どうでもいい口癖なんだけど、それが曲者っていうか、ニンニン、でござるよ。

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