友方=Hの垂れ流し ホーム

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そうして自身の楽天性に疑いを懐くうちにもまた声が聞こえてきて、振り返ると寝転んでテレビを見ている姿があり、何か言ってるようだがテレビのほうを向いてるせいか、それとも野球中継だろうか、実況のアナウンサーの声に紛れてよく聞こえない。身を乗りだして近づいても近づいただけ遠離り、とはいえ追い掛ける義理もないし、クッションソファに浅く凭れて聞くともなしに聞いてると、それぞれ違うことを言ってるふたつの声がひとつに重なって、言葉も徐々に重なってひとつの声として届き、ふたりでひとりってことか、テレビからそれは発せられているが発しているのはアナウンサーではなくて、きちんとした発声の、滑舌のよいしゃべり方じゃないからそれはすぐに分かるが、何を言ってるのかはやはり分からず、ぼそぼそと呟くようなか細い声にちょっと苛立ちながらも何が言いたいのかと問い掛けるように耳を傾けているうちに、前にも聞いたことがあるような気がしてきて、それとともに声のほうも少しずつ明瞭になってくる。なってくるのだが、届きそうで届かないというか、今一歩のところで意味が掴めず、私ってダメだなあといった呟きとともに声に背を向けるようにして空になったマグカップを洗いに立つ。軽く湿らせたスポンジたわしに洗剤を、荒れるのでほんのちょっとだけ垂らして、ニギニギして泡立たせるとやさしくカップを撫で、そしたら濯いで洗い流すが、濯ぎが不充分だと洗剤臭いコーヒーになってとても飲めたものじゃないから丹念に濯ぐ。戻るとまだぼそぼそ言っていて、でももういいやって感じで聞こうとはせず、閉ざされたカーテンの向こうを見霽(みはる)かすようにして、見えないのをいいことに、今まさに期待どおりの光景が、素敵に煌(きら)びやかな風景が、目眩く雨の世界が、どこまでも拡がっているのだとひとり悦に入り、でも現実には雨なんか降っていないわけで、それを予感させるものは、匂いも肌触りも音も、全然感じられないので、雨、降らないかなあと呟くともなしに呟けば、不満げな咳(しわぶ)きがひとつ挟まり、耳馴れた声がまたどこからともなく下りてきて、どこからともなくってのが曲者だが、とにかく声がしたわけだ。そのちょっとウザい声が、いつしか厚みのないぺらっぺらの紙みたいに、高そうな全集なんかに掛けてある半透明の、すぐに破けたりして扱いに困る、あの紙みたいになっていて、ちょっとした風でも飛んでいってしまいそうだった、事実そうだった、それが分かってしまった、とそう言っていたのではなかったか。分かったからといってどうなるものでもないが、身の処し方というのか、律し方というのか、いくらか違ってくるようで、違うといって大した違いはないのだが、ほんのちょっとした違いでも世界はまるで違って見えるのだ、とそう言っていたのではなかったか。でも誰が。

べつに誰だって構わないが、他人事とは思えなくて身につまされるようでもあり、でもやっぱ他人事なのだと斥け、でないとこっちまで落ち込んでしまいそうだから、そうして四囲に谺(こだま)する声々を悉く斥けると何をしていたのだろう、何もしていなかった。いや全然何もしてなかったわけじゃなくて、午後からの会議のセッティングを頼まれてひとり作業していて、共同作業は苦手だからひとりのほうがむしろ気は楽だが、いや自分の仕事がまだ山と残ってるから言うほど気楽じゃないが、さっさと終わらせてしまおうとそれなりに張り切ってはいた。あらかたセッティングを終えて一息ついているときと記憶するが、自分を呼ぶ声が聞こえた、ような気がした。ここには誰もいないのに、誰かいるみたいで、何となく気配のようなものを感じないでもなく、そう思って眼を凝らすとぼんやりながら像として捉えられるものがあり、べつに見たくもなかったがつい気になってさらに凝視すると、どうやら会議をしている様子で、どんよりと重たい湿った空気に包まれているのが列席の人たちの疲れ切った面持ちで分かるが、そのなかの誰かが呼んでるらしかった。どこか亡霊めく人たちの沈鬱な面持ちに気圧されてかさらなる凝視には至らず、というかこんなのに関ってる暇はないし、まだ仕事残ってるんだからともう呼び声には耳を貸さず、でもどうかすると鼓膜をそれは震わせ、ウザいような怖いような、何かそんなふうな感情の高ぶりを感じながらとにかくセッティングを終えてこの場から離れようと急ぎ、そしたら向こうも焦りを感じたのか、いっそう呼び声は高まって、執念く纏わりついてきたのでお前なんか知らないと吐き棄てると、もちろん胸の内で、それが功を奏したのか、波が引くように大人しくなったので、その隙をついて逃げてきた。いやべつに逃げたわけじゃなくて、まあ結果的に逃げたという形になったことは否めないにしても、やるべきことをやってその場を離れたわけだから、まだ仕事もあるのだし、殊更後ろ向きにならなくてもいいってことで、でもやはりちょっと後ろめたく、そうして何かを置き残してきたような思いに浸されつつ自席に戻るが、やけに静かだと思ったらもう昼で、閑散としたフロアには数えるほどしか人がいない。

どちらかというとそうした環境のほうが仕事は捗りそうだが空腹には勝てず、瀬田は寝転んでテレビばかり見ていた、と呪詛のように唱えて、というか誰かがそう唱えるのを耳にしながら、何かを振り払うようにまた席を立ち、財布を持って出てゆく、何を食べようか、昨日は何を食べたんだっけか、と思い巡らしながら。その昼食からの帰りだったか、それともこれから昼食へ行こうとしていたときだったか、あるいは全然べつの日のことだったかもしれないが、信号待ちで通りの向こうに視線を向けると、立ち並ぶ人の姿がいくつかあるその後ろに瀬田の姿を見つけ、そしてもうひとり、知らない女がその傍らに、傅(かしず)くようにいて、只ならぬ仲と直感したわけじゃないが、何となく怪しい雰囲気を醸しだしている。見ないことにしてやり過ごすこともできたのだが、そしてそのほうが賢明だろうという真っ当な判断もありながら、例の淳子かもしれない、違うかもしれないがそんなような気がして、そしたら見ないわけにはいかなくなって、こうやって迷い入ってしまうのかと得心めく思いの膨らむなか、ふたりの姿を目で追い掛け、どこへ行くのだろう、やはりどこかで食事でもするつもりか、この近所だとするとあそこか、ランチもやってるわりと安価なフレンチのレストラン、と先廻りして考えたりしながらそのあとについてゆく。板についたとは言えないもののいくらか馴れてもきてたし、見失うことはだからないだろうと少し距離を取りすぎてたのかもしれないが、それでもそれは不測の事態と言ってよく、それがなければ万事巧く行ってたかもしれないと思うと憤ろしいが、とにかく不意に背後から呼び止められて、振り返ると面接前みたいな干涸らびた顔した佐脇がこちらを見つめているのだった。その縋るような潤んだ眼差しに覚えがあり、列席のなかのひとつとそれは一致して、じゃアレはお前だったのか、まったく人騒がせな、と睨めつければ、萎縮して消え入るようだが帰る気はないらしく、行こうとすると呼び止められる。相手してる暇はないが用件だけは訊いてやるという素振りで「何?」と言えば、いくらか安堵したのか笑みを零すが答えはなく、促すように重ねて訊いても身体をくねらせるだけで何とも答えない。

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