友方=Hの垂れ流し ホーム

07

ヘトヘトになって帰宅すれば瀬田は横になってテレビを見ている、というか居眠りしているらしく、いい気なものだとその足元を跨ぎ越してクッションソファに倒れ込むとしばらくは何をする気にもなれず、まあいつだってそんなふうだが、このときはいつにも増してひどく、深く深く身体が沈み込んですぐには浮かび上がれそうになかった。ごはんはと訊かれてもだからずいぶん遠いところから呼ばれてるように感じてすぐには反応できず、何度目かの呼び掛けにやっと応じることができたくらい。応じるといって軽く頷き返しただけだが。そうして頷きはしたもののあまり食欲はなく、それでも食べなきゃ保たないと無理して食べたら気持ち悪くなり、ピザじゃなくて蕎麦にすればよかったと後悔しつつ残りは瀬田にやって、おいしそうに食べてるのを余所に速攻でシャワーを浴びて床に就いたものの、蒲団の匂いが却って入眠を妨げるのか、いざ眠ろうとしてもなかなか寝つけない。普段から寝つきはよくないが今日は飲んでないからだと思ううちにもリヴィングの気配が妙に音高く耳に響き、うるさいってほどじゃないけど、でもちょっと気障りで、それでも最初テレビの音声と思っていたそれを聞くともなしに聞いてるうちにそうじゃないらしいことに気づき、ひそひそと話す人の話し声と次第にそれを聞き分けるが、開閉するたびに粘つく唾液の、雨垂れのようにも聞こえる音に紛れてよく聞き取れない。それでも少しずつ聞き分けた言葉をひとつひとつ繋ぎ合わせ、そうして話の輪郭を掴み総合してゆくうちに理解したのは、職場の人たちが自分の悪い噂を噂しているということだった。居たたまれずに部屋を飛びだし、というかこっそり抜けだして、コンビニへ行って雑誌を立ち読みしていると背後に視線を感じ、振り返ると佐脇が見ている。そして私を呼ぶのだった。佐脇ごときが私を呼びつけるなんて十年早いと無視して店を出ると追い掛けてくる様子で、今はそれどころじゃないと走りだすと向こうも走りだし、とにかく全力で振り切ってきたが淳子さん淳子さんと呼ぶ声はどこまでも追い縋るようで、怖いような腹立たしいようなウザいようなキモいような、何かそんなふうな綯い交ぜの感情が交錯するなか最悪警察を呼ぶしかないとケータイを鷲掴み、いつでもコールできるよう構えつつ玄関へと向かった。明かりは点けずに様子を窺うと、気配はないがいるのはたしかで、そこにいるのは分かってるぞと一喝したいところだが、そうしたことは不向きなので、というか声が出るとも思えないので、覗き穴からそっと覗き見ると、瀬田が書類を示しながらこことあとここなんですが間違ってますと冷やかに、というかにこやかに言い、すぐに直すと詫びたものの直す気力はとうになく、クッションソファに頽(くずお)れるとぐったりとなって動けない。動きたくもない。夕食をどうするか訊かれて何だか気分が優れないと断り、メニューはそこの小棚にあるから悪いがひとりで済ませてくれと言いおいて早々にベッドへ逃げ込んだ。寝ようとして寝つけないのはいつものことだが、瀬田も遅くまで起きているらしく隣室から物音が洩れ聞こえ、ひそひそと話し込むそれは人の呟きのようでいつまでも耳に残り、といって不安を誘うようなものじゃなく、どちらかというと不安は緩和されるみたいで、誰かがいると思うとちょっと安心な気がしたが、安心しても眠れないものは眠れない。

疲れた面持ちで食卓に就くと、ずいぶん魘(うな)されていたと教えられるが、そういえば嫌な夢を見ていた気もすると不確かな記憶を辿るうちに不快感だけは思いだされ、それでも夢それ自体はまったく思いだせず、そのせいか内容の伴わない不快な感じだけが痼(しこ)りのように残ってしまってしばらく気分が塞いでいた。瀬田は寝転がってテレビばかり見ていた。いくらか控えめながらその笑い声が自室に響き、一見それは和やかな団欒的風景にも思えるが長く尾を引くとやはり気になり、というのも笑うタイミングが掴めないからで、何を笑ってるのか何がおかしいのかそれがさっぱり分からず、訊いてみたい気もするが訊くのはちょっとためらわれた。それとも思い切って訊いてみるか、そしたら何か分かるかもしれない、とそう思いはするものの訊くには至らず、不可解な笑いになかば耳を傾け、なかば耳を逸らし、何を捉えようとしていたのか、耳を欹(そばだ)てていたように思うが、違うかもしれない。

しばらく雨がつづいた。といって三、四日くらいなもので、しかもぱらつく程度の、降ったり止んだりのくり返しで、でも雨の予感にずっと落ち着かなくて、ほかのことが手につかないというか、手に余るというか、車間距離を見失うみたいなものか、どこか居心地が悪い。それには瀬田の存在が関係してるかもしれないが、でもそれじゃ瀬田を悪者に仕立てるだけだし、それで安心できるものでもないだろうし、そう関係づけてしまうこちらの意識の在りようを等閑に付したままじゃ狡いとも思うし、向こうには向こうの言い分もあるだろうし。べつに重荷だとか厄介だとかいうのではなくて、というのも食費だけはきちんと払ってくれるので、しかも実費よりかなり多めに。べつにいいって言ったのだがそれじゃあ気が済まないらしく、それならってことでもらうことにしたのだが、正直言うと助かった。何が正直だよ、いいように利用されてるだけじゃんかと美咲は呆れ顔で、まあたしかにそれはそうなんだけどと淳子もそれを否定はしないが、そういうのとはちょっと違うような気もするのだと曖昧に濁すと、違うって何が違うのと眉を顰(ひそ)めて詰め寄ってくる。酒が入ってるせいか絡みかたが尋常ではなく、愚痴めいたことをうっかりメールに書いてしまったのが拙かったのだが、頻繁にやりとりしてるせいか思ったことを即書いてしまう癖がついてて、今さら嘆いても仕方ないが、美咲は瀬田とも顔見知りだし隠しててもいずれ知れることだろうし、というか隠すことでもないだろうし、というか誰かに話したかったのだ。といって職場の人たちとはあまりつき合いもなく疎遠な関係だからそうした内輪のことは話せないし、話すとすればだから美咲よりほかになく、いろいろと突っ込んだ問いに臆せず答えられるのも大学以来のつきあいだからだった。で、どうなの実際のとこ、と何度目かに突っ込まれて実際も何もかわいそうだからおいてやってるだけだと答えると、かわいそうだからごはんを食べさせてやりかわいそうだから身体を提供するってことかと手厳しい。そんな言い方ないじゃん、第一そういうつもりじゃないし、じゃどういうつもりなの、だからかわいそうで、と同じところをぐるぐる廻ってキリがない。酔ってるせいでなかなか話が進まないのかというとそうでもなく、元もとそんなふうに思ってるってことなのだった。それが分かった。そのせいかどうか分からないが、現在のふたりの関係は以前のふたりの関係よりも尚一層測りがたく、元の鞘に戻ったと短絡することもだからできないし、戻りたいけど戻れないというか、いや戻りたいというのとも違うような気がする。

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