知らない女からのメールだったが、日時と場所とが簡潔に記されてるだけのひどく事務的な文章で、艶(つや)めいた内容じゃないから決定打に欠けるものの却って疑わしく、ひとつ読んでしまえばあとはいくつ読んでも同じとほかのメールも読んでみるが中身は似たり寄ったりで、見るんじゃなかったとちょっと後悔するが嫉妬めく感情はさしあたりなくて、でもとりあえず女の名だけは記憶に留めておこうと再度確認すると、どこか見覚えがあるような、でも知合いにそんな子はいないし淳子なんて名前はありふれてるからそんな気がするだけだろう、閉じたケータイを卓に戻すとしかし想像が膨らんで嫌なことばかりが脳裡を飛び交い、それもこれも全部瀬田のせいだ、帰ってきたらただじゃおかないと怒りを募らせる。雨はもう気配もなかった。こんなときこそ思いっきり雨に浸りたいが、間が悪いというか、次に降るのはいつになることか、予報士じゃないから知る由もないが、低く垂れ込めてた灰色の雲は影もないし、肌の強張りというか突っ張り具合で分かるのだが心做しか空気も乾燥してきてるようだ。そんなわけで窓辺に留まりつづけることにもやっと飽きが来たらしく、いよいよ冷蔵庫の出番と腰を浮かすが、急に立ちあがったせいか目が眩み、貧血か、いやそれよりは空腹っぽい、そういえば一日何も口にしてなかったんじゃないか、朝は食べたような気がするが昼は食べてないんじゃないか、ずっと外を眺めてたんじゃないか、雨催いの空からそれが落ちてくるのを待ち侘びながら、刻々と様変わりする空模様に一喜一憂しながら、バカみたいにと独りごち、お腹空いたと誰にともなく訴える。もちろんそれに答える声はなく、立ち眩みが治まったところでひとりキッチンへ向かうと冷蔵庫を開けるが、中には何も入ってなかった。そらそうだ、買い物にも行ってないんだから。ジャムはまだ残ってたけど、あの妖精のやつが、でもパンがもうなかった。どうしよう、これから買いに行くのは面倒だし、お腹は減ってるし、瀬田は帰ってこないし、お腹は減ってるし、ヤツはいつ帰ってくるのか、本当に帰ってくるのか、もういないヤツのことは放っといて、何しろお腹が減ってるんだからと出前を頼み、でも食べてるときに帰ってきたらちょっと気まずいなとか思いつつひとりで夕食を済ませ、風呂に入り、いつになく長湯でちょっと上せたが、まだ火照った身体をベッドに潜り込ませると冷えた蒲団が気持ちいい。瀬田は帰ってこなかった。
でもいったいどこへ行ってしまったのか。奥には抜けられそうな通路もなかったしトイレは全然べつのところだし、まさか秘密の抜け穴なんてないだろうし、いや案外あるのかもしれない、外部と通じている狭い、人ひとり通るのがやっとくらいの、壁のなかに、壁と壁のあいだに、従業員さえも知らないような、裏帳簿なんかも隠してあったりする、そんな通路があるんじゃないか、どこか壁の一部がクルッと回転したりなんかして。でもそれはちょっとあり得ないしと首を傾げると、やっぱつけてるの気づかれてた臭いねと美咲はぐるり店内を、そこらにまだ潜んでいるとでもいうように、あるいは自分たちこそつけられていはしないかとでもいうように見廻し、なんか面白くなってきたと徐ろに立ち上がると、あたしもちょっと見てくるとふたりの消えた店の奥へ入ってゆく。楽しそうに軽いステップを踏み鳴らすその後ろ姿を見送りながら、というか横目でチラッと流し見ただけだが、でも本当にどこ行っちゃったんだろう、すでに店を出てしまったというのはたしかだろうか、まだ店内のどこかに潜伏してるってことはないだろうか。美咲は見てないって言うが、まだいるとしたらどこで何をしてるのか、どこか狭い個室で、従業員の控え室か何か、中から鍵を掛けた、高い位置に小窓がひとつあるだけの、換気が不充分なためにひどくじめじめした密室で、射し込む僅かな光の帯を背に、白く輝く埃の舞うなか、身体を密着させて、ブラウスのシャツのボタンを外し、肌を露出して、喉の奥に貼りつく埃に噎せ返りながら、じっとりと汗ばんだ艶々の白く柔らかなそれに頬ずりし、隅々まで匂いを嗅いだりもして、時折近づいたりする足音や気配に鼓動を速くしたりしながら、密かな共犯関係に笑みを交わしたりしてるのか、そうしたことをするのに充分な時間はあると淳子は考える。そうとすればこんなとこでのんびり、いやのんびりってわけでもないが、コーヒーなんか飲んでる場合じゃないだろう、大しておいしくもないし、でもそうと決まったわけでもないし、というか多分にネガティブな思考の然らしむ他愛ない想像にすぎないと振り払う。
それより行ったきり戻ってこない美咲のことが心配で、店の人とトラブルになったりしてないか、どこにでもずけずけ入ってくからいかにもそれはありそうなことだし、咎められてもまったく意に介さない光景がありありと浮かびもして、様子を見に行こうかどうしようかしばらく逡巡していた。そんなとき不意に視野の端を何かが掠め、不可解なものというよりよく見知ったもののそれは影というか実体というか、見ると瀬田と女が連れだって、相前後して、瀬田が前で女が斜め後ろで、店を出るところらしく、レジの前で口を開けた財布のなかに白い指を突っ込んで、小銭を探してるのか、掻き廻している。遠目ながら一戦交えてきたというような淫らな雰囲気はふたりから読み取れないが、脇に立つ女がどことなく気怠げな匂いを放ってるっぽいのが気になって、端から疑って掛かるのもどうかと思うが、陽炎めく空気のゆらぎとしてそれが見えるようでもあり、つまりこれから戦線へ向かうってことか、とにかく美咲に知らせなきゃとケータイに掛けると、向かいの椅子の背に掛けてあるバッグのなかでそれは鳴り、戻ってくるのを待ってる暇はなさそうだととりあえずふたりのあとを追うが、特別人通りが多かったわけでもないのに、というかむしろ見通しはよかったのに、レジで足止めを食ってるあいだに逃走を図ったか、ってことは最初から計算尽くか、それらしい人影さえない。戻ると美咲が席にいて、その様子から何ごともなかったらしいことが見てとれたが、椅子に掛けながら今の出来事を伝えようとすると淳子の言葉を遮るようにヤツはいったいどこへ行ったのか、店を出たのなら気づかないはずないんだけどと不思議がり、そうじゃなくて今出てったよ、この眼で見たと教えると、言ってる意味が分からないというように眉を顰(ひそ)め、だから今の今ふたりがどこからか現れて勘定を済まして出ていったのだ、裏口でも秘密の抜け穴でもないそこの、入ってきたときと同じその入口から、とくり返すと、腑に落ちたのか腑に落ちないのか、今? と問い返す。でも見失っちゃったけどとその失態を告げると、ようやくすべてが飲み込めたというように目を瞠り、いったん腰を浮かすが諦めたようにまた腰掛けると、ダメじゃんと叱るように言って、ところであたしのコーヒーはどこと訊くのだったが、ああそうかレジ済ませたから片されちゃったんだ、しょうがないなと美咲は店員を呼んでまた注文する、不味いコーヒーを。淳子は、と訊かれて私はいいと断わると、何か言いたげに黒目がちの瞳を閉じたり開けたりするが、無理強いはしなかった。