それというのは、なぜ自分がここにいるのか分からない、抑もここがどこなのかが分からない、いや分かってはいる、分かってはいるのだが、どこか腑に落ちない、べつの世界でべつの生を生きていたのではなかったか、そんな気がしてならないのだ、と言っていたのではなかったかということ。どんな経緯でそれが話されたのかはまるで記憶にないが、あるいはこの海獣めく塊に訊いてみたらそうしたことも明瞭になるのかもしれないが、全部じゃないにしても少しくらい霧が晴れるんじゃないか、このいやらしくも晴れ渡った空みたいにとは言わないが、とそう思わないでもないが、じゃひとつ訊いてみるかというふうにはならなくて、どうでもいいことを、空模様のことかなんかを、しっとりと素肌に纏わりつく湿っぽい空気のことなんかを、その何もかも溶けだしてしまいそうな危うい心地よさを、口にしてしまう、私ってダメだなあとか苦笑しつつ。これまでもそんなことをずっとくり返してきたのに違いないが、ここらでちょっと軌道修正というわけには行かないものか、でもそのためには口籠ってちゃダメなわけだが、いざとなるとやはり口籠ってしまいそうで、いや実際口籠ってしまい、あるいは笑い声に紛れて向こうまで届かなかったり、でもそれはこの海獣めく塊が実ではなくて虚だからなのかもしれないし、都合の悪いことには一切耳を貸さないからなのかもしれないし、いや実のほうの海獣にしても都合の悪いことは聞こえないほうだったから、いずれにしても虚実ははっきりしないのだった。というか虚実を分明にしたいって気はあんまりなく、どうでもいいと思ってるわけじゃないが、どちらかというとどうでもよくて、というのもアシカだかアザラシだかの寝姿を思わせるその姿に問い掛けてみても、真面に答えが返ってこないだろうことは分かっているからで、それでも問い掛けてみたくなる瞬間がたまにあって、そうした気分が不意打ちのように迫りあがってくると思わず問い掛けてしまう、答えの返ってくるのを虚しく待ちつづけるほかにないとしても。
往々にして不発に終わるそれら問いのうちで、幸運にもというか、偶然にもというか、答えが返ってくることもなくはなくて、これもそうしたもののうちのひとつかもしれないが、記憶はたしかだし気が触れているのでもないが、たしかだなんて何を根拠にそう言えるのか分からないとはいえ、人が普通に信じている程度にはたしかだと言えるということだが、そうしたたしかさを以てしても自分が自分であることがいまいち信じられなくなって、それを狂ってると言うのなら狂ってるのかもしれないが、今あるこの自分が本来の自分なのか否か、それさえ確信が持てないというか、いや確信してはいるが一抹不安が残るのだ、とそう言っていたのではなかったか。でも誰が。誰がそんなことを言っていたというのか。そうした疑念もなくはないが、お前は誰だなんて不躾なことは訊けないし、そんなこと分かり切ってるじゃないかという思いもなくはないし、お前こそ誰だとか逆に訊かれかねないから、うやむやなままやり過ごしてしまうわけで、それが誰なのか、だからいつまで経っても確認できないのだった。確認したいのかしたくないのか、確認しようとしてるのかしてないのか、それはともかく名指すことの困難に見舞われつづけているのだった。でもいったい誰が。雨が遠退くと考えることも殺伐としてしまう、とそんなふうに思いながら、また雨のほうへと意識は流れてゆくが、窓際に横坐りになってカーペットの端のほつれたところを撫でさすりながら、ただひたすら待ちつづけてもうどれくらいになるのか、ほんの数分という気もするが数年の月日が流れ去ったようにも思え、時間の感覚というものが狂ってしまってるらしいことに今さらながら気づいたというように指折り数えてみたりもするが、たしかなことは何も言えないのだった。そうしたこともいずれ雨が教えてくれるだろうとか短絡してるわけじゃないが、根が楽天的なのか、もひとつ深刻に受け止められないというか、受け止めていないのだった。
瀬田は寝転んでテレビばかり見ていた。果して本当にそうだろうか。これまで何の疑問も懐かずにそうだと見做していたが、それをこそ疑ってみるべきじゃないのか、そうすればそこから発せられた数々の、というかいくつかの声も、意味のある言葉の連なりにしろ、意味のない呟きにしろ、吐息や笑い声にしろ、こちらに響いてくるそうした声々の、その虚実を明確にできるかもしれない、と虚なのか実なのか定かじゃない海獣めく寝姿を前にして思い、つまりはエポケーするってことか、よしっ、ここはひとつエポケーしてみるか、エポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞエポケーするぞ、とどれくらいエポケーしていただろうか。気づけば窓の外は薄暗く、それにも増して室内は暗く沈んでいて、明かりを点けてカーテンを引き、元の位置に坐すと、軽い疲労とともに達成感めくものが、何ひとつ達成したわけじゃないのに、心做しか膨らむようで、ちょっと休憩するかと再び立ってコーヒーを入れにゆく。ひとり分しか用意しないが、というのもふたり分入れたからって虚が実になるとはかぎらないし、すべてが明らかになるともかぎらないからで、そんなわけで熱いコーヒーを啜りながら再度エポケーするかどうかを考えるが、エポケーしたからといって根拠のない達成感しか得られないのならするだけ無駄というもので、でも何もしないよりはマシじゃないかとも思い、そうなのだ、何かしないではいられないのだ、何もせずにただ待ちつづけているのにはもう耐えられないのだ。でも何を。虚が実になることをか、それとも実が虚になることをか、いずれにしても量子的重ね合わせのようなどっちつかずにはもうウンザリで、一口目よりは二口目、二口目よりは三口目、と徐々に冷めてゆくコーヒーを飲みながら気持ちも冷めてゆく、というか鬱々と沈み込んでゆき、根拠のない達成感はいつしか徒労感へと変じていて、これのどこが楽天的なのか。