それはスパイスの効いたカレーで、ルーがいつも買ってるのと違うみたいだし、肉も上等なのを使ってるのか、筋もないし簡単に噛み切れるくらい柔らかく、自分が作るのよりもよほど金と時間が掛かってるっぽい、というか間違いなくそうで、それだけに深みもあっておいしい。でも金を掛ければいいってものでもないだろうし、抑もこんなことする人だったかと訝りの念が兆し、美咲の悪い影響か、何か魂胆があるんじゃないかと変に勘繰ってしまう。瀬田は黙々と食べつづけて何も言わないが、これはいつもと変わらないし、いつもと同じ食卓の風景とだから言ってよく、でもそれでいてそこに漂う空気の密度が、濃いのか薄いのか、異なるようでもあり、淳子から瀬田へ、瀬田から淳子へ、たまに発せられる言葉の、伝わり具合というのか、伝達の質というのか、違うような気もするのだ。といって意味を履き違えたりするわけじゃなくて、発せられた言葉は概ね意図した通りに伝わってるし、だから会話は会話として成立していて、そこには何の問題もない、はずなのだが、どこかしっくりこない感じで気持ちが悪い。気持ち悪い、としかし口に出しては言えないから黙って食べつづけるよりほかになく、いやおいしいとは言ったけど、よかったとそれに瀬田は答えたが、そうしたやりとりもどことなく上滑りしているというか、無内容なものに思えてならない。それでも食事は恙(つつが)なく進んで、ごちそうさま、と程なく終えることになり、まあ食べても食べなくてもいずれ食事は終わるものだが、このときは腹を晒すほど食べつづけなかったので、淳子がじゃなくて瀬田が、でも二回くらいはおかわりしたか、だからカレーは大量に残ったが、カレーは翌日のほうがおいしいとか煮込めば煮込むほどおいしいとか言うから廃棄することはなく、それはともかく胃袋の限界に挑戦といったことにはならなかったから、どことなくアシカだかアザラシだかの寝姿を思わせるなんて言ったら言いすぎか、あの愛らしい姿は拝めなかった。ちょっと期待してたのに。だからデブ専なんて言われちゃうのか、違う違うなんて言ってたけど案外そうなのかもしれない、このときちょっとそう思った。でもすぐに否定した、私のは純粋に愛らしいものを愛でる気持ちであってデブ専ではないと。決してそうではないのだと。それこそがデブ専だと美咲は言うかもしれないが、そしてそう言われたらそれ以上反論できないかもしれないが。
瀬田は寝転んでテレビばかり見ていた。その姿が今も眼に浮かび、どうかするとその気配を感じて、希薄だったり濃密だったりとその都度まちまちだが、意識がそれを捉えると凝視してしまう、雨を眺めるみたいに、飽きもせずいつまでも。といってお腹が減ればごはんを食べるし催せばトイレにも行くし眠くなったら蒲団に入るわけで、一切のことを放棄してそれに没入してしまうわけじゃだからないが、それにしてもかなりの時間をそのことに費やしているのはたしかで、そこに見る像が虚なのか実なのか、実際のところよく分からないのだが、何か自分にとって重要なものが、それが何かは分からないが、隠されてあるのだといった認識があるのだった。一方で何も隠されてなんかいないといった、極めて常識的な、そうした認識もあるにはあるが、何かあるということに期待を掛けているのだろう。雨の予感に気持ちを浮き立たせながらひたすらそれを待ちつづけているように。そういえば雨はもうずいぶん降ってなくて、どこもかしこも乾燥しきって何もかも干涸らびてしまいそうだが、いや実際肌の至るところが罅割れてきて、肌年齢は実年齢を大幅に超えてるに違いなく、こまめに保湿クリームを塗布してはいるものの大した効果もなくて、といって雨が降れば肌も潤いを取り戻すってわけじゃないだろうが、そうした期待を懐いてしまうことは避けられず、休日というと日がな一日窓際に陣取ってぼうっとしていることが多く、そうして何を待ってるんだか、何かを待っているのだった。もちろん雨を待ってることは間違いないが、それと同時にそれ以外の何かを待ってもいるのだった。雨滴が乾いたあとに雨滴の形に残された塵や煤によって一面覆い尽されている窓ガラスは曇りガラスのようになっていて、もうどれくらい拭いてないんだろうか、あるいは一度も拭いてないかもしれないが、光の加減によっては外がよく見えず、でもそんなことは気にも掛けないでもっとずっと向こうのほう、空気のひどく乾燥した抜けるように高い空で焦点は結ばれて、雨とは無縁の薄い雲の連なりを眺めていた。眺めてたといってもほんのちょっとのあいだで、というのも雨の落ちてこない空に用はないからで、といって殊更晴れ渡った空を忌み嫌ってるわけじゃなくて、ただちょっと興に乗って眺めてみたというにすぎないから、そこに何かを、雨は降りそうにないといった否定的な、絶望的とまでは言わないが、自分にとってその言葉は、雨は降らない、というその言葉は、ある程度は絶望的に響いてしまうのだが、とにかくそうした否定的な見解よりほかの何かを見出すことはないわけだ。
くさくさしてもはじまらないので雨のことは忘れて、そういつもいつも雨のことばかり考えてるわけじゃないのだ、それにそのほうが、忘れてたほうが、思い掛けず降りだしたときの嬉しさは計り知れないし、そんなわけで雨のことは意識から遠ざけて、何をしていたのだろう、何もしていなかった。でもそんなときにかぎって声が聞こえてきたりして、ハッとして振り返ると寝転んでテレビを見ている姿がそこにあり、いつ帰ってきたのだろう、快活な笑い声の響くなか、そのどこか岩場に寝そべる海獣のような姿に見入っていて、その間二言三言言葉を交わしたりもして、他愛もない、どうでもいいような会話を、でも同じようなやりとりを前にもしたような記憶があり、じゃあこれはそうしたものの再現かと耳を疑い眼を疑う。いや抑も日常のやりとりなんてどれも似たり寄ったりで、天気のこと季節のこと会社のことテレビのこと家族のこと昨日のこと明日のこと、そうした諸々について飽きもせずくり返すものじゃないのか、だとすれば激しく既視感に見舞われても何ら不思議はないわけで、むしろそうした既視感の堆積したものをこそ日常と言うのではないか、その意味ではこうして今目の当たりにしていることもそれらくり返されてきたことの再現と見做せなくもない。とはいえ似てるようでもその都度ちょっとずつ違ってはいるだろうから、その意味ではやはりそれらとはべつのことと言うべきではないのか。でもじゃあ自分は誰と話してるんだろう、ここにいるこの海獣めく塊は何なのだろう、それを訊きたいが訊けない。肝心なことは何ひとつ訊けないのだった。だから他愛もない会話を他愛もなくつづけるしかなくて、そうするうちにたしかなものを掴めればいいし掴めなくても元々だというわけで、でも何を話したのだろう、その内容もたしかな記憶として残ってはいないが、いくつかの断片的なやりとりとして覚えているものはあり、そうしたやりとりが実際に為されたのか否かはでも定かじゃなくて、それでも覚えているかぎりで似たようなやりとりの為されただろうことはたしからしいから、そうしたたしからしさを信じるなら、それはあったと言っていいのかもしれない。