友方=Hの垂れ流し ホーム

05

雨の音を聴くのが好きだった。好きというか気になるというか、降りだすとどうしようもなくそれに捉えられて、時間を忘れるくらいいつまでも窓際に坐り込んでいた。いや、実際雨は時間を吸収してしまうのか、その間時間は流れないのだ。だからいつまでだって眺めていられるし、無限とも思える無時間のなかで存分に雨を堪能することができるのだ、とそんなふうに思ったりして、気が触れたかと自身ゾッとすることも少なからずあるが、それでもやめることはできなくて、雨というと浮かれてしまうのだ。浮かれるといって陽気になるとか燥(はしゃ)ぐとかそういうことじゃなくて、日に焼けたカーペットのほつれたところを撫でさすりながらその音に耳を澄ましているだけなのだが。遠く近く強く弱く聞こえてくるその音に。木々や地面や家々の屋根や壁面に当たって弾ける、ひとつひとつはほんの小さなものでしかない粒の集合としての音の連なりに。そうして触覚と聴覚とに、加えて視覚と嗅覚もだが、それらに埋没してゆくことに何かしら慰安を感じてでもいるのか。気怠く官能的で淫らな妄想を掻き立てたりするのか。雨に打たれ雨と戯れる素裸の自分を想像したりするのか。雨の愛撫を全身で受け止めて身悶えたりするのか。それを誰かに見てほしいのか。違う、そうじゃない。それは私のことじゃない、とそう淳子は否定し、それでも私のことなのだと次いで肯定する。とはいえいずれが本当なのかは結局分からず、ただそれが私のことであれ私のことじゃないのであれ、記憶としてあるかぎり私のことと見做すよりほかにない。誰のものかなんて詮索するのは億劫だし、徒労に終わるような気もするし、実際それは誰のものでもないのかもしれないし。些か諦念めいた思いとともに自室に視線を戻すと、何だか様子が様変わりしているようで、いやこれといって違ってるわけじゃないらしいが、というかあちこち傷がある卓も、日に焼けて色褪せたカーテンも、壁に掛かったハンガーも、カバーをなくした読み掛けの文庫本も、身を凭せ掛けてるこのクッションソファも、総じて湿気に重く澱んでくたびれてはいるもののどれもこれも既知のもので、何ひとつ違いは認められないのだが、雰囲気というのか佇まいというのか趣というのか匂いというのか、どことなく異和を感じ、とはいえその異和の正体について詮索することもまた億劫で、つまりはよほど疲れてるのだ。それでも少しずつ身体の強張りは解れてくるらしく、それに伴って自身を呼ぶ声がまた耳に届くが、どうやらそれは空腹を訴えているらしく、そうかごはんまだだっけと思いだし、寝ちゃったと嘘をついて、わざとらしく瞼を擦って可愛らしさを演出したりなんかしながら、そういうとこは如才ない、あるいは本当に寝ていたのかもしれないがそう言って胡麻化すと、胡麻化し得たかどうかは分からないが、そこの小棚にと背後を指差し、違う上のほう、メニューがあるからと教えて、いくつかある店から選ばせる。

瀬田が選んだのは「桃華楼」という中華料理店だがそこはいまいちだからと斥け、じゃあこれはと示したのは「叉六」という日本蕎麦屋だがそこもちょっとと眉を顰(ひそ)め、じゃあこれと次いで「おかめ寿司」のメニューを差しだすとそこ時間掛かるんだよねと首を傾げ、そうして悉くを斥けてしまったからなかば淳子の選択だが、三軒のそれぞれ異なるチェーン店の内から選ばれたピザ屋でピザを頼んだ。Mサイズを三枚は多いだろうと訝るのを尻目に瀬田はパスタとか唐揚げとかも追加して、だから太るのだと今さらながら納得した。空腹は空腹だったがあまり食欲はなくて、卓上に置かれた品々を前にしてもその量に圧倒されて食べる前から食傷し、瀬田の旺盛な食欲を前にしてさらに食欲を奪われ、ピザを二切れほど口にしただけであとはほとんど手をつけずにビールばかり飲んでいた。飲みながら瀬田が食べるのを眺めていたが、とにかくよく食べるしよく飲む。同じ人とは思えない食べっぷり飲みっぷりだが、あるいは淳子の知っている瀬田のほうこそが、その人生のなかで特異な時期だったのかもしれない。ダイエットしてたとか家計が逼迫してたとか仕事がうまく行ってなかったとか、そんな話は聞いてないが。そういえば瀬田の過去だってほとんど知らないのだった。どこの生まれで実家はどこで両親は何をしてるのか今も健在なのか兄弟姉妹はいるのか等々全然知らない。瀬田に関して知ってることといえばせいぜい名前くらいで、そうしたことに関心を持たないというか持てない自分のほうに問題があるのかもしれないが、だから逃げられたのか、ともあれ自分のことにだって大概目を背けているのだし、そうやっていろいろ取り零してきてるのだろう、取り零しちゃいけないものまでも。といってそうした取り零しについて思い悩んでるわけじゃなくて、ただの事実確認にすぎない。誰にだって多かれ少なかれそうした取り零しはあるだろうから。とはいえ深刻さの度合いに於いて自分のが破格だってことは認識してる。

旺盛な食欲を見せた瀬田だが全部はさすがに無理だったらしく、三分の二くらいを食べたところで急にペースダウンして、それでも自分が頼んだ以上食べなきゃ拙いとでも思うのか、額に汗して食べつづけ、さしずめひとり大食い選手権といったところだが、そうしてあらかたひとりで食べ尽したもののやはりきつかったみたいで、ベルトを弛めて白い腹を晒し、横になってぐったりしているその姿はちょっと愛らしい。艶々して肌理の細かいその肌は目を見張るほどで、どうしたらそんなふうになるのかと見入ってしまう。それはともかく残ったピザの五切れを皿に移してラップして冷蔵庫へ仕舞ったのは、危うく捨てるところを明日食べるからと瀬田が止めたからだが、まだ食べる気なのかとちょっと呆れた。横になった瀬田はまたテレビを見始め、そして見ながらからからとよく笑う、とくに笑うところでもないのに。果して以前もそうだったろうか、いや記憶にある瀬田はそんなに笑いはしなかった、笑うべきところでさえ笑いはしなかったと淳子は訝り、自身の記憶を辿ってみても脳裡に浮かんでくるのは不機嫌そうにしている姿ばかりで快活な笑いのひと声たりとも聞こえてはこない。ただの記憶違いかもしれないが強ちそうとも言えず、旺盛な食欲と言いよく笑うことと言い、やはり自分の知っている瀬田とはどこか違うようだ。とはいえそうした変容は誰にもあることだろうし、太るとはそういうことなのかもしれないし、笑うと消化吸収にいいとか、いや太る太らないにかぎらず人は刻一刻と違うものになってゆくのかもしれない。どんどん細胞は入れ替わってるわけだし、どんどんものを忘れてくし。ただそれが淳子の知っている瀬田であれ、そうでないのであれ、そんなことはどっちでも構わないが、これから毎日あんな食事をされたら適わない、といってお金のことじゃなく、まあそれも多少はあるが、見てるこっちが気持ち悪くなってしまうからで、ダイエットしろとか運動しろとか言うつもりはないが食べるならどこかほかで食べてくれと言いたい。言わないけど。翻って自身の食の細いことを思い、ストレスは相応に抱えていながらこれまで過食とは無縁で、ダイエットともだから縁はなくて、いいなあ羨ましいと美咲に言われたりもするが、もしそんなことまで抱え込んでいたらとっくにどうかなってただろうから、そうしたことを背負(しょ)い込まずに済んでることは何よりだといくらか胸を撫で下ろす。そんなことをぼんやり考えてるうちにうとうとしかけ、今日はよく眠れるかもしれないと気が弛むが、油断はできない。というのもリヴィングで寛(くつろ)いでるときは無性に眠くなってもベッドに入ると途端に眠気が飛んでしまったりするからで、眠らなきゃと思う意識が却って眠りを妨げるのか、そんなわけでさらなる保険が必要とまたビールをやり始めると、すぐに酔いが廻る。

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