その後ろ姿から瀬田と気づかなかったのは見る影もなく、というのは言いすぎかもしれないが、経過を知らないだけに余計そう感じるのだろう、太ってしまっていたからだが、呆れたように眺めやる淳子の明け透けな視線を瀬田は困惑げに受け流しつつ、消え入るような、こちらはすぐにそれと分かる耳馴れた声で久しぶりと言い、それに合わせようとの意はさらさらなかったが、応ずる淳子の声も同様に消え入るようだったのは深夜だったからか。そうして妙に静まり返った自室で卓を隔ててふたり差し向かいに坐っているのだが、そのことをさして不自然にも感じていないのが不思議で、一挙に距離が縮まったということではしかしなく、というのも何がなしよそよそしい雰囲気だし会話だってちっとも弾まないからで、尤もお互いおしゃべりじゃなかったから弾んだ会話をした記憶なんてないし、そのこと自体に不審を懐くことはだからないのだが、若干の居心地の悪さに苦笑したりはして、それでも相応に懐かしさを懐きもしていたのだ。懐かしい、というのはしかし本当だろうか。ある意味では本当だろうがべつの意味では本当じゃないだろう、とそんなふうに淳子は考え、ふたりの交際期間がどれくらいだったのか改めて振り返ってみるが、つき合ってください、はい、といったような中高生にありがちの、明示的な、記述可能な出来事としての確認作業は行われなかったからその正確な期間は測りがたく、その意味でふたりの関係は甚だあやふやと言えばあやふやだったと今さらながら思う。それではふたりはつき合ってなかったのかと言えばもちろんそんなことはなくて、頻繁に会ってたし、その度に、ではないにしろセックスもしていたわけだから、淡泊だったか濃密だったかはその時どきに因るが、ごく普通に考えて交際していたと言っていい。とはいえセックスしてるからといって交際してると必ずしも言えないだろうし、セックスしてないからといって交際してないともかぎらないわけで、そして明示的な確認作業が為されない場合、互いの認識が符合しないことは往々にしてあり得ることだが、少なくとも淳子に於いては交際していたとの認識だし知人たちの間でもそうだったはずで、その期間をおおよそ二年と見做していた。それが長いのか短いのかは分からないが、順調と言えば順調な、平凡と言えば平凡な、刺激的ではないにしろ波風の立たぬ穏やかな、何事にも熱狂的に盛り上がるタイプじゃないのだ、熱狂なんかしたことないとは言わないが、実際子供のころは何にでも熱狂していたような気がするし、まあ子供なんて大概そんなものだろうが、とにかくそうした交際なり関係なりだったと総括している。
ところが不意に終わりが訪れた。といっても終わりが訪れたその瞬間に当の終わりを知ったのではなくて、事後的に終わりを見出したというのが実情で、何日も不在がつづいてようやくその事実を認めるほかなくなったってことなのだ。どういうものか終わりというものはふたりの上に同時には訪れないというか、まず一方に訪れてからもう一方へそれが波及するというようにあるズレを含んでいるものらしく、それを言ったらはじまりのほうだって用意ドンでいっしょに走りだしたわけじゃなくて、いつの間にか横に並んでいて気づいたらいっしょに走っていたのだから、いっしょになど走っていないと言われてしまえばそれまでだが、とにかくある期間を並び走っていた者が、またいつの間にか離れてゆくことになったとしても何ら不思議ではない。切れるときは簡単に切れる、雨に濡れたこよりみたいに。そんなわけで不在の事実が重く伸し掛かって、所在を確かめようとケータイに掛けても電源が入っていないのか全然繋がらないし、ふたりの共通の知人が何人かいたのでその人たちに訊いてもみたがその消息を知る者はなく、勤め先の連絡先も知らなかったからそれ以上連絡の取りようがなかった。もちろん自宅マンションへも再三訪れたがいつ行っても不在だった。そのうち居住者が替わったみたいで、知らない人が、地方から単身赴任してきたって感じの、瀬田とは似ても似つかない、肌艶の悪い、神経を病んでそうな、背の低いおっさんが、くたびれたパジャマで出てきたから慌てたが、そうなるともう捜す当てはなくて、ただ時間だけが過ぎてゆき、不在の事実が確固たるものとして膨らみ、沈殿し、それを覆すに足る事実は見出せず、つまりは終わったと見做したのだった。そら完全に終わったね、と美咲にダメ押しされたのが決定的で、ちょっとムカついたけどああそうなんだって妙に納得してしまい、とはいえ何か決定的な衝突があったわけじゃないから淳子にしてみれば腑に落ちないことだらけで、その意味では問い質したいことは山のようにあるのだが、今さら訊くのも未練たらしいし、何より負けを認めるようで不愉快でもあり、勝ち負けの問題じゃないだろうが、でも逃げられた時点で決定的に負けてると美咲は容赦なく、とにかくそれから一年ほどが経っていて、それだけの時間が経過すれば自ずと傷も癒えるものか、訊かねば済まないというような、そうした切迫したものはさしあたりない。いやちょっとくらいはあるかもしれないが、自然な流れで話頭がそちらへ傾くなり向こうが水を向けるなりしたら、得たりや応と訊いてみるかもしれないが、敢えてこちらから問うことはないと思う。
それなりに思うところはあるものの過去に拘泥しているということはなく、部屋にあった瀬田の荷物にしてもだから整理処分してしまっていて、まあ大したものはなかったけど、衣類とか細々した日用品くらい、いくらか申し訳なさそうにそれを告げると、そうなんだと素っ気なく答えたのみで気に掛ける様子もない。そういえばいつだって瀬田はそんなふうで、感情の起伏に欠ける淡泊な反応をしか返さなかったから、腹の内で何を考えてるのかさっぱり分からないのだった。不意に訪ねてきたその理由についても何も言わないし、その間何をしていたのかも語らないし。だから淳子も敢えて問うことはせず、とりあえず飲もうと晩酌のつづきをふたりで始めたのだが、杯を重ねてゆくうちにそれまであった蟠(わだかま)りも薄れてゆくようで、少しずつ距離も縮まり、それで再会を祝すような恰好になったのだった。祝すようなものでもないと思ったが、まあ祝すと言ってもグラスを鳴らす程度のことだし、場が白けるのを嫌ったということもあっただろう、その場は瀬田に合わせておいた。グラスの響きはどこかしら艶(つや)めいてふたりのあいだをいくらか和ませはしたらしく、酒宴は尚もつづいて深更に及び、とはいえ朝まではさすがにきついということで、仕事もあるし、床に就いたのは二時半ごろだったろうか、それでも宴が長引けばその分酒量も増すわけで、常にも増して酔っていることを、トイレに立った際、鏡面に映る自身の赤ら顔の虚ろな眼差しに改めて認めた。そしたら急に酔いが廻ったのか、往路は何でもなかったのに復路で足が縺れ、それを見ていたのだろう、つと立った瀬田が音もなく身を寄せてきて、微かな風を頬に感じたのは覚えてる、ただの酒臭い吐息だったかもしれないが、そしてその肩を借りてベッドまで、ずいぶん長い道のりだったような気もするが、行ったのだった。昼近くに起きだしたがリヴィングで眠る瀬田の姿を見て一瞬息を呑んだのは、前夜のことをすっかり失念していたからで、でもすぐに思いだしてそうだったっけと独りごち、その声に瀬田が目醒めると互いに挨拶を交わすが、どことなく表情は固い。