食事を終えても瀬田が席を立つ様子はなく、誰かと待ち合わせているのかと疑うが、そういったふうでもないし、ただの時間潰しか、あるいはお腹が減っただけか。いつもならすぐ横になって小一時間はゴロゴロしてるところだとその寝姿を思い浮かべてたら、何ニヤニヤしてんの、と美咲が怪訝な面持ちで割り込んできて、なんでもない、それよりほら見て、何かごそごそやってる、と促すと、ケータイが鳴ったらしく、取りだしてしばらく誰かと話しているが、通話を終えるとすぐに席を立ち、店を出てゆく。ほら行くよ、グズグズしない、と美咲に急っ突かれてあとを追うと、すぐ近くにあるべつの喫茶店に入ってゆき、そこに女がいた。親密な感じでもないが知らない仲でもなさそうで、二言三言会話を交わすとふたり連れだって奥へ行き、いつまで経っても戻ってこない。トイレにしては長すぎると訝り、ちょっと見てくると言いおいてふたりの消えた奥へ行ってみると、地下へ下りる狭い階段があり、従業員専用といった札もなく、ほかに通路もないからそこを下りたのだとその階段を下りてゆく。どれくらい下りたか分からないが、いつか店の喧噪も届かなくなって、静まり返ったなかに自身の靴音だけが響き渡り、換気のためか下から吹き上げてくるひんやりと冷たい空気が外気のようで素肌に心地よく、と思ったら下の階にいる。照明はあるものの全体に薄暗いそこは細長い通路で、両側に並ぶ扉もだから薄ぼんやりして見定めがたく、そのどこかに消えたのかふたりの姿はない。空調の音か何かが微かに聞こえ、時折それが高くなったり低くなったりしているが、風の音にも人の声のようにもそれは聞こえた。各扉の向こうからも何かが蠢くような気配があり、湿っぽい空気がその隙間から漏れ出ているような、そこで淫らな行為が行われていると思わせるそうした艶(なまめ)いた匂いとともに、陽炎めく空間のゆらぎとして見えるような気もする。
しばらく聞き耳を立てるように特定の気配を、瀬田と女が淫らなことをしている、そうした気配を嗅ぎとろうとしていたが、そんなことできるはずもなく、犬じゃあるまいし、とにかく人の嗅覚の限界をまざまざと知らされてこれ以上の追跡はもう無理かと引き返そうとして、そしたらどこからか呼ぶ声がして、こっち、とそれは言ってるようだが無闇に従っていいものかためらい、やっぱ戻ろうと思った矢先に早くと促す声とともに背を押され、見ると瀬田がぴたりと身体を寄せていて、背に当てた手とは反対の手で前方を示す。もう逃げられないと観念して、いや完全に観念しちゃったわけでもなくて、それなりに抵抗は示しながら、指し示すほうへ歩きだしたもののどこへ連れてかれるのかと内心怖かった。女はどこへ行ったのか、それが訊きたいが訊けない。そのうち空調の音に紛れるようにして微かながら雨音が聞こえてきて、つい耳を傾けてしまうが、そうするとほかのことに気が廻らず、その雨音が、それだけが、聞こえてくる音のすべてになって、というか世界のすべてになって、雨の中を歩いているような、自身雨となって舞っているような、そうした錯覚に捉えられ、雨が身体に染み込んでくるのか、身体が雨に溶けだしてゆくのか、気持ちが変に浮き立ってくる。大した降りじゃなかったから傘も差さず、急ぎもせず、慌てると転ぶからだが、濡れて帰ったときのことなんかを思い出したりしていた。というか雨の視点でそれを見ていた。といって一粒の雨じゃなくて、全体としての雨の視点で、そんなものがあるとしての話だが。背に軽い圧迫を感じるとともにそこに置かれた手の温もりを改めて意識するが、それは背中から腰のほうへ下りてゆき、尻の手前で止まると再度軽い圧迫を加え、そして目の前に扉が現れる、変哲もない、うちのマンションの部屋のとよく似てる扉が、でもどこか安っぽい感じで、作り物めいてるというか、書き割りっぽい。その扉と自身のあいだに丸っこくて白い手が割り込み、瀬田のだ、ノブを廻すと、鍵は掛かってないのか、扉は開き、促されるまま入ってゆくと雨が降っていたが、窓ガラスを流れ落ちる雨滴にもそれは明らかで、というかその前に、ドアを開けた瞬間に匂いが色濃く立ち上ったからすぐにピンときたが、この目で確かめてほらやっぱり降ってるじゃんとこれは声になり、思ったより大きな声で自分でもちょっと驚いたが、瀬田は曖昧に頷いただけで、不機嫌そうな面持ちを崩さず、こちらを窺うような、それでいて関心なさそうな、ちょっと距離を置いた態度で窓にも近づかない。逆にこちらは窓のほうへ吸い寄せられて、雨を眺め、雨を感じることに無関心ではいられず、私ってそんなだったっけかと思わないでもないが、たしかにそんなだったんだと一方で思いもし、窓を開けたいが開けると吹き込んでくるだろうからそれは控え、窓際に坐り込んで飽きもせず眺めているのだった、なんてこともない外の景色を、周囲の物を滲ませ、悉く灰色に塗り込めて自他の境界をなくしてしまうそれを、眺めずにはいられないのだった。それは私を魅了して已まないのだった。
瀬田は寝転んでテレビを見ていた。音量を絞ってるからなのか部屋は静かで、そのため雨の音がよく聞こえる。途切れることもなくいつまでもそれは聞こえていて、この先もずっと聞こえつづけるに違いないとそう思い、いやそんなはずはないと思い直すが、それでも聞こえつづけるに違いない、誰が何と言ってもそうなのだとひとり気炎を上げ、殊更同意を得ようとかしたわけじゃないが瀬田のほうを窺うと、そこに瀬田の姿はなかった。トイレにでも行ったのか、でもテレビが消えていて、どうりで静かなわけだと頷くが、瀬田はどこへ行ったのか。どこへ行こうと知ったことじゃないが、いると思ってたのがいないとなるとやはり気になり、というのも端的に消えたという捉え方をしてしまうからで、その痕跡を探すような目つきで一室に視線を走らせると、卓上に置かれたケータイに目が止まる。瀬田のだ。ここにあるってことは出掛けてないということか、でもいる気配はないし、置いていったのか忘れたのか、それはともかく瀬田は不在でケータイはここにある。雨はまだ降っていたがもうずいぶん小降りになったようで、窓ガラスを流れ落ちる雨滴の数も少なく、何秒かに一回、一筋流れ落ちるくらいか、落ちるたびに目で追ってしまう。ついさっきまでクリアに聞こえた雨音もだから何だか頼りなく、いや頼りないのはこっちのほうで、ひとり取り残されたみたいで心細いというか、急に酔いが覚めたように不安が兆してくる。瀬田はどこへ行ってしまったのか。