友方=Hの垂れ流し ホーム

03

そのまま瀬田は部屋に居着いてしまった。行くところもなく帰るところもないというその言葉を間に受けたわけじゃないが、無碍に追いだすこともできなくて、迷惑さえ掛けなければしばらく置いてやっても構わないくらいに考えていた。不思議といえば不思議だが当然といえば当然のようにも思え、そしてこれもまた当然のように肌を合わせてしまうが、元より焦がれるような思いがあったわけじゃない。そうした思いよりは懐かしさが先に立つのか、昔よく着てたお気に入りの服が押入れの奥から出てきたみたいな、もう着ないとは思うけど捨てるには忍びないみたいな、今一歩踏み込めないといった感じでしばらく距離を保っていて、そのうちにしかしどちらからともなく手を伸ばし、試しに袖を通してみようってとこか、触れ合ううちに熱が入り、それでも最初はどことなくぎこちなさを感じ、それは向こうもそうなのらしく、はじめて愛撫を交わす中学生とでも言おうか、互いに戸惑っていたが、すぐにしっくりと馴染んできて、記憶にある形と目の前に晒されてある形とを照らし合わせでもするように、出っ張りという出っ張りに、窪みという窪みに、指を滑らせ舌を這わせてゆき、そうして約一年のブランクが嘘のように貪り合い、互いにツボを刺激し合うようにして上り詰め、まるで自分用に誂えたみたいに馴染むとまでは言わないが、ぴったりと重なり合って、やはり相性はいいようだと改めて思いつつ気分よく眠りに就き、爽快な朝を迎えた。朝といえば憂鬱なことが多いからそれだけで何か得した気分で、常と変わらない自室もどこか華やいでいるように感じられるが、相変わらず大した会話もなく、今日の夕食をどうするかといったことを話したくらいか、それでも気まずさぎこちなさを意識することはもうあまりなかった。夜は基本外食だがうちで作ることもあるにはあって、つまみに毛が生えた程度のものだが、しかも週に一回くらいなもので、作るという考えはだから淳子になく、いや作ってもよかったのだが無理しなくてもいいと瀬田が言うので外で食べるかデリバリーにするかということになり、ただ外でとなると待ち合わせ等々どうするかということもあるし、そうした細々したことを打ち合わせる時間もなかったからデリバリーで済ませることにしたのだった。あんまりおいしいとこないんだけど已むを得ない。

朝はコーヒーだけという瀬田の習慣を淳子は記憶していたが、そしてそうした習慣が一年やそこらで変わることはなかろうとも思ったが、一応訊いてみたところやはりコーヒーだけでいいってことで、瀬田の分と合わせて二杯分を入れるが、入れたつもりがいつもの癖で一杯分にしてしまったらしく、カップに注いでいて足りないことに気づいた。とりあえず先に入れたのを瀬田にやって自分の分を再度入れるが、その二度手間にちょっと苛立ち、それを振り払うようにして次いで自身の朝食の仕度に掛かる。仕度といってトーストとヨーグルトとサプリだからすぐに用意でき、トーストにはフェルベールのコンフィチュールを塗るが、これはちょっと前までマーガリンだったのをトランス脂肪酸が気になって、テレビでその特集をやってたのをたまたま目にして、その危険性を煽る、いかにもテレビ的な、過剰な演出もどうかと思うが、見てたら何だか怖くなって、それでやめたという話をしたら美咲がくれたもので、高いんじゃないのと遠慮がちに言えばどうせ貰いものだし高いったってジャムだから、っていうか彼女ジャムの妖精なんだってね、はい妖精のジャムと二壜を渡されたが、それを持つ手が、潤いのない自身のそれに較べて、妙に艶々していたのを思いだす。といってそれを食べれば自分も同じように艶々になって、ゆくゆくは妖精になるのだとか短絡してるわけじゃなくて、実際艶々になってないし、それどころか日増しにカサカサになってる気がして、それなりにケアはしてるんだけど効果ないみたい、とにかくそのふたつが、美咲の艶々な手と妖精のジャムとが、なぜか妙な観念連合で結びついてしまっているのだった。それはさておき当の二壜の、それぞれ違う素材のコンフィチュールのうちの一方、フランボワーズとチョコレートのやつは一昨日くらいになくなって、もう一方のルバーブといちごのやつをトーストに、ホテルブレッドみたいなふわふわのじゃなくて水と塩だけで捏ねたような、噛み応えのある、噛めば噛むほど味がする、八枚切りのやつに塗り広げ、ヨーグルトにも一掬い加える。そうして黙々と朝食を済ませるとあまりゆっくりもしてられないから後片づけは瀬田に任せ、といってこちらから頼んだわけじゃなくて向こうがやると言ったので、一宿一飯の恩義ってか、そんなこと気にする柄でもなかろうに、とはいえ断わる理由はないし、というかむしろ助かるし、じゃあお願いってことでひとり瀬田を残して淳子は仕事に出掛けた。午後には瀬田も出掛けるらしかったが、どこへかは言わなかったし訊かなかった。

比較的気分よくうちを出られたことを端的に喜びながら、その気分がどこまで持続するものか、仕事にもプラスに作用するのか、それとも通勤でチャラになってしまうのか、そうした気分を損なうような不測の事態が起こりはしないだろうか、余計な仕事を抱え込んじゃったりしないだろうか等々考えているうちに早くも下降気味になり、混雑する車輌で身動き取れないなか、思考も身動き取れなくなってゆくのをどうすることもできない。まあいつものことだからさして驚きもしないが。強固に築きあげられたネガティブ回路から脱する手立てなどもはやなく、そうした自身の性向には抗えないとなかば諦めていて、そのせいかどうかは分からないがPCに向かってただひたすらデータを打ち込むことにはもうかなりうんざりで、といって辞めたいとかそういうことではないが、いやそういうことなのかもしれないが。とはいえ単調な事務仕事自体が嫌なわけじゃなく、必要以上に人と関わり合うことがないだけにむしろ性に合ってるとは思うが、このところ仕事に対して前向きになれなくなっている。元もとそんなふうだが最近特にそれが顕著になってるっていうか、そう感じてるってことで、鬱っぽい気もするが違うかもしれず、でも不眠がつづいてるしどうかすると気鬱になるし他者への不信感も募るしと楽観はできず、無理してるつもりはないが常にストレスは感じていて、まあストレスくらい誰にだってあるだろうが、とにかく何とか仕事をこなして帰宅の途に就くその頃にはもうかなり参っている。まず物が手に馴染まない、すべてに於いて距離感が狂う、目測との何らかのズレが生じる、時に小さく、時に大きく、果ては自身の身体が、それとも意識のほうか、稀薄になる、夢の中のように曖昧で不確かなものになる、それから砂でできた足場が崩れ去ってゆくような、そうした危うさに浸される、そしてそれが高じると眩暈や吐き気に襲われるが、まだそこまでは行ってないらしく歩くのに支障はない。とはいえよほど注意してないと転ぶ。尤も普段からそんなふうで、歩き方が変なのか注意散漫なのか段差のないところで躓(つまず)いたりして、見ていて危なっかしいと人に言われもする。参ってるときはそれが顕著になるのだろう、だからゆっくり歩くことを心掛けるが、そう心掛けていても転ぶときは転ぶ。派手に転んで血を流すことが、かすり傷程度だけど、年に一度くらいあって、でもそんなときにかぎって新しいストッキングだったりするからやり切れない。あるいは医師の診察を受けたほうがいいのかもしれないが、肉体のほうじゃなくて精神のほう、でもそれもちょっと怖くて、診断されず病名も告げられないうちは病気じゃないと言うつもりはないが、そうした意識の働いてしまうことは避けられず、何となく大丈夫な気がしてしまう。もちろん何の根拠もないからいずれ不安はぶり返し、そんなふうにして安堵と不安を振り子のように行ったり来たりなわけで、しかもその振れ幅は日々拡大してゆくようなのだ。いつか破綻するときが来るとは思いながらそれへの対処を先送りしているという状況で、猶予があるのかないのか、それこそ医師の領分だろうが、せめてそれくらい分かればいいのだがと重い足どりがさらにも重くなり、前へ進んでるのか進んでないのか、それさえ不確かになってくる。

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