そういえば瀬田はよくいなくなるというか、気づけば視野の内にいないってことがよくあって、目先の興味関心に抗えないのか、子供並みの心性と言っていいが、あるいは立ち止まり、あるいは道を逸れ、そのくせ同行者への配慮は全然ないから目を離すとすぐにはぐれてしまう。とはいえ大人だから迷子にはならないし、大概どこからともなくまた現れるのだが、傍迷惑なことには変わりない。あるいはこれもそうしたことの類いと言えなくもなく、そうとすればそのうち帰ってくるだろうから気にすることもないわけだ。それにこっちも雨に夢中だったから多少の非はあって、記憶に定かじゃないが、夕飯までには帰ってくると言ってたような気が、黙って出掛けてしまうことのほうが圧倒的に多いのだが、そんな気がしないでもない。そうとすれば仕度しなきゃならないわけで、もうそんな時間だろう、でも何を作るつもりだったのか、あり合わせのもので済まそうとかしてたのか、それとも本腰入れて作ろうとしてたんだっけか、本腰といっても高が知れてるが、どっちにしても冷蔵庫を開ければ分かるだろう、何があるのか、そして何がないのか、全部はっきりする、そうに違いない。まずは冷蔵庫、すべてはそれからだ、とそんなふうに思いながらしかし腰は上がらず、尻がカーペットに貼りついてしまい、まだまだ雨を眺めていたいというかに視線は窓のほうへ流れて、もう降ってるのか止んでるのかも分からない外に目を凝らし耳を澄ますのだったが、猥雑な環境音が聞こえるだけで雨音は聞こえない。雨まで瀬田は持っていってしまったのか、まさかそんなことはないだろうが、そんなふうに思えて仕方なく、瀬田の周りにだけ雨が降っている様を想像して心細さに怒りがちょっと混じる。さらには自在に雨を操り、雨を纏い、雨を連れ歩く雨師とでもいうようなものを思い、いや雨師というよりはむしろ雨恋だろう、雨乞いじゃなくて、恋してるなんて言うと面映ゆいが、とにかくそういうものがあるなら自分にこそ相応しいはずと嫉妬する。ありもしないもので嫉妬すること自体バカげてるが。
もう雨は止んでしまったのか、見ることも聴くこともできなくなって、あとはその余韻に浸るくらいしかすることがなくなり、窓を開けて微かに残るその香を、湿りを帯びたその肌合いを、楽しむほかないが、外の空気はもうずいぶん冷たくて、確実に秋は深まってるらしい。とはいえいつまでも窓を開け放しておくわけにはいかないから、ほどほどに味わって閉めるとまたカーペットにへたり込む。忽ち尻の熱が奪われてゆく。それにしても瀬田はどこへ行ってしまったのか、ケータイも持たずに。そうやって電波の届かないとこへ非難しようとでもしてるのか。そうとすればその気持ちは分からないでもない。というのもケータイを持つってことは、リードに繋がれた犬みたいに常に何者かの監視下にあるってことで息が詰まるだろうから。何より私がそうだから。ケータイはだから持ち歩きたくないのだが、なければないで困るから仕方なく所持してる。だからあんまり使わない。それはともかくケータイだけが人を縛るものじゃないだろうから、そんなことくらいで自由になれるとは思ってないが、自由になったような気分を味わうくらいならできるかもしれないとは思う。この世界に飛び交うあらゆる電波と無縁な自分を想像してみるのはちょっといい気分かもしれないし。とはいえそれは飽くまでこっちの想像で、瀬田が何を考えてるかなんて分かるはずもない。そんなことおくびにも出さない人だし。
それよりも今は冷蔵庫だ、これから自分が何を為すべきか、為そうとしてたのか、あの白く輝く箱はそれを見極める端緒となるはずで、そしてそれが事の左右を決するのだ、いや抑もそこから世界は形成されてゆくのではないか、過去も、未来も、時間も、空間も、何もかも。そんなことないのは分かってるが、そんなことあるのだと思い、そしてそう思うことに満足し、それじゃひとつ世界を紡ぐ神秘の箱の中身を拝見するとしようかと腰を浮かし掛けるが、まだまだそれは先のことらしく、尻はまたカーペットへ押しつけられて、でも雨はもう感じられないしほかにすることといって何もないのに、何をためらってるんだろう。あるいは何かを待っているのか、こうして瀬田の帰りを待っているように。でもそれよりほかに何を待つことがあるんだろう、あれちょっと待って。抑も瀬田の帰りを待ってるってこと自体どうなんだろう、待ってるのか私は、瀬田の帰りを、貞淑な妻にでもなったつもりで、お帰りなさい、お風呂にする、ごはんにする、それとも、とか何とかコントみたいなことをしようとでもいうのか。あれおかしいぞ、なんか変だ。べつにその帰りを待ってたわけじゃなかったはずだ。どこでおかしくなったのか。おそらく雨を眺めてるあいだに何かが、しかも決定的に変わってしまったみたいだが、何がどう変わってしまったのかは分からない。でも変わってしまったことはたしからしい。それが事実なら、事実は事実として受け止めるべきだろうが、じゃあ受け止めたとしてそのあとどうすればいいのか。それこそあの白くて大きな触ると冷たい箱に、時どき変な唸り声を上げたりもする四角い箱に、縋るしかないんじゃないか、世界を紡ぎだす装置としてのそれにこの身を託すしか術はない、とそんなふうに思い、もっと早くにそうすべきだったと自身の優柔不断を悔やみ、では今度こそと片膝を立てるが腰でも抜けたのか、うまく力が入らない。まだそのときじゃないってことなのか。まあ焦ったって仕方ないし、立てないものは立てないと諦めて、雑誌でも読みながら時間を潰そうと卓のほうを眺めやるとケータイが目に止まる。瀬田のだ。メタルブラックが何かに反射してきらきらしてる。当人はいないのにケータイだけがここにあり、そしてそれがあることによって何か匂い立つものがあるようだ。当の持ち主が不在なのにもかかわらず。というかむしろ不在だからこそか、つまりはそういうことなのか、それが狙いか。気になると言えば気になるし、鬱陶しいと言えば鬱陶しく、といってきらきらするメタルブラックがじゃなくて、その存在そのものが。ただのケータイにすぎないんだけど、ただのケータイじゃなくて、といって内部に盗聴器が仕掛けられているとかそういうことじゃなくて、その物とその存在とが釣り合ってないというか、物に対して存在がちょっと肥大してるみたいな、そんな感じで、気を逸らそうと卓の下から雑誌を取って眺めるともなく眺めていたが、手にしているのは雑誌じゃなくてケータイだった。そして何となく弄(いじく)ってるうちに着信メールを開いてしまう。とはいえそうした何となくの裏側に悪心めいたものが潜んでないとは言えず、いやそうしたものの裏には必ずと言っていいくらい邪(よこしま)な感情が貼りついてるだろうから、本当のところ何となく開いたわけじゃないんだろうが、とにかく開いてしまったらもう見ずにはいられず、いけないと思いながら眼は文字を追っている。