何か秘密めかしてそんなようなことを言っていた弥生の言葉がふと思いだされるのは、もう幾日も雨が降りつづいているからだろうか。部屋中の何もかもが湿気を含んでふやけてしまい、鬱々たる密林のごとき不快感に眉を顰めて何に対してか分からぬながら罵らずにはいられない。それでも一向不快がることなく涼しい顔で横坐りに坐っていた弥生の端麗な姿がおぼろげながら浮かんでくるのは、いつまでも降り止まぬ雨のせいに違いない。そうではないと諒解しつつもそう思わずにいられない瀬田の眼には、日に焼けたカーペットの端のほつれたところを撫でさすりながら午後いっぱいを窓際に陣取って雨を眺める弥生の姿がありありと浮かぶのだった。
それはしかし本当にあったことなのだろうかと瀬田が思うのは、くり返しくり返し再生したせいで摩滅し劣化した磁気テープのように、元々の情報とはかけ離れたものへとそれが変質してしまっているのではないかとの思いが日増しに強くなるからなのだ。というのもなかば以上薄ぼやけてしまった諸々の記憶に対してそれだけが異様にくっきりしているというかくっきりしすぎているからで、記憶としてあまりに鮮明でできすぎているそれはどこか昼ドラの舞台セットめいて却って嘘臭く感じられるのだ。端的に降りつづく雨に誘発せられたのだろうとはいえ、もう六年にもなる古い記憶がなぜ急にそんなにも気になるのか、そんなどうでもいいような一場景など普通もっと茫洋としていて捕らえどころがないのではないかと瀬田は疑い、そうとすれば少しずつ都合のいいように改変されているに違いなく、だから本当はそんな記憶などありはしないのだと結論づけてはみるものの間違いなくそうだと断定することもできないのは、たしかそんなような場景を幾度か夢に見たことがあって、夢が現実の直接的投影だと短絡することはできないにしても何らかの残滓を含んでいることは確かだろうし、何だかんだ言ってもそれが本当にあったことかもしれないからだ。
とはいえ記憶というものが思いだされた現在において常に更新される体のものとすればそれがセットだろうと何だろうと構わないわけで、その伝でゆけばいかなる記憶も詐称とは言い得ず、いやむしろセットを現実と言い切る厚顔さこそが必要なわけだが、斯かる臆面のなさを持ち合わせていないらしい瀬田は折に触れ立ち止まってしまうのだった。それでも雨の日というと妙にソワソワしてそれ本来のものを取り戻すことができるかもしれないとの淡い期待を懐いてしまい、端的に気圧の変化が齎す偏頭痛に少しく瀬田は奥歯を軋らせもするが、それが淡い期待を減衰せしめるということはなく、いくらか興に乗って冷蔵庫の前に立ってみると別段常と変わらぬ佇まいで広がりも縮まりもしないそこは過不足のない現実空間にほかならず、何か突拍子もない啓示とともに、あるいは眩い光の横溢とともに異次元の扉が、今、開かれるとかいうような三文ファンタジーめいた展開は願い下げだが、いやその実密かにそのようなアホらしい展開をそのアホらしさゆえに希求しているのかもしれないと青ざめた口元を弛めつつ尚も綿埃だらけの汚れた空間を凝視するが、冷蔵庫の発する低い唸りよりほかにこれといって瀬田の気を惹くものは認められない。いや、瀬田ひとりならそれで充分間に合うがふたりとなるとさすがに小さいと買い換えたのだからかれこれ六年以上使いつづけているわけで、しかも中古だからそれなりガタは来ていて、製氷皿の氷はその中心まで凍ることがなかったしひとりでに扉が開いてしまって中のものがダメになることもごく稀にだがあったし、何より夜中に奇怪な音を発して瀬田を目醒めさせることが度々あったからその手のことにはもう馴れきってしまっていて殊更不審に思わぬだけなのかもしれず、あるいはここはすでに異界なのかもしれない。異次元の扉は、すでに、開かれてしまったのかもしれない。
醒めた苦笑とともに力なく瀬田は頭(かぶり)を振ると冷蔵庫の扉に乾いた指先で触れ、その感触を確かめるように撫であげ撫でおろしながらこれが現実というものだとひとり納得するが、その一方で弥生と自分との決定的な隔たりに気づかされもし、何もないそこに何かを見てしまった弥生と何をも見ることのできない瀬田との、どうでもいいようだがどうにも越えがたい隔たりとしてそれは満々たる大洋のように拡がっているのだと月並みな感慨に耽ったりするのだった。どことも知れぬその果てしない拡がりに眩暈したかに瀬田は小刻みに首を振ると、尚つづく冷蔵庫の低い唸りに耳傾けたりなどしないですぐにその場を離れた。
弥生はどこへ行ってしまったのだったか。いや、どこへも行かなかったのではなかったか。ひねもす窓際でそうしていたように今も尚ほんの少し拡がった冷蔵庫の前に坐しているのではないだろうかとそんな愚にもつかぬことを意識の隅に据えながら、鬱々たる雨のなかを瀬田は傘を差して出勤しては帰宅するということをくり返す。風が出ているせいか駅までの二〇分でスーツの裾は雨に濡れ、根づいたように重くなった足を引きずって改札を抜けながらこうして今日もまた労役に向かうほかないのだと瀬田は嘆息し、程よく暖房された混雑する車輌の充満する人いきれに吐き気すら覚えながら窓の向こうに覗ける降る雨を眺め、あるいはこの雨のなかへ弥生は溶解してしまったのだと言ってみる。そのように仮定してみるとそれが事柄の中心を射抜いているとは凡そ言い得ないにしろ決定的と思われた隔たりが少しは縮まるような気がし、何よりそれは瀬田にとって諒解しやすく、現実のいかなる場所とも無縁なものとして、いやいかなる場所にも偏在するものとして、弥生というものは在るととりあえず結論づけると、それが気休めにすぎないと分かっていても車窓を叩きつけては滴り流れる雨の一粒一粒が何か好もしいもののように思えてくるのだったが、そんなふうに短絡してしまうのも前日のアルコールがまだ残っているからだろう、時折漏らす自身のおくびにそれを嗅ぎとった瀬田は眉を顰める。