死体。瀬田の眼がまず捉えたのはその二文字で、文章劈頭ということはもとよりほかの文字より若干筆圧が高いから目についたのでもあろうが、強く押しつけられた鉛筆で文字の形に窪んだ紙はそこだけ文字を縁取るように薄い影を作っていて、それ自体書き手の高ぶりを表しているようでもあり、読み手の感心を惹こうとする意図の表れのようでもあり、いずれにしても注意が要ると瀬田は気を引き締める。とはいえそのあまりにも唐突な書きだしにはやはりいくらか怯んでその先へ視線を送るのを瀬田はためらい、用紙を摘む右手親指から手首を経てそれを包むシャツの擦り切れた袖口へ、次いでテーブルの稜線を辿ってここへ越してきたときに誤ってテレビをぶつけてできた三センチほどの縦長の深い傷からカーペットへ視線を流し、さらに窓へ至ってその向こうの沛然たる雨へと逃れるが、それを眼にした途端それまで遮断されていた轟音が耳を聾してガラスに当たる雨滴の乱打とも相俟って耳鳴りめいた音の包囲に眉を顰め、再度室内に視線を戻せば手元にはA四コピー用紙が握られてあり、握る手を動かせばカサコソと紙が鳴る。湿った薄暗い自室に乾いた紙の音が心地よく響く。端的に卑俗な好奇心に駆られてチラチラと斜め読むうちに投げだす機を瀬田は逸し、結局最後まで眼を通してしまったのだが、今ごろはもう腐乱しているだろう死体と手紙にはあり、さらには湯之塚という男の死体だと書かれているが、その男が何者なのか瀬田は知らないし知りたくもない。手紙は死体の存在を示しているもののその殺害を告げるものではないらしく、少なくともそのような記述は見られないのだが、記述のないことが行為のないことを必ずしも保証するわけではないから可能性としてそれは充分にあり得ることだし、第一発見者がまず疑われるのは定石でもあるからそのようにして瀬田は疑うこともできたはずで、実際斯かる疑念を懐きもしたのだが、記述にあるとおりただ死体を発見しただけなのらしいとそう判断した。個人的なつき合いがないから牧野という人物を知悉しているわけではないが、少なくとも同じ会社に勤める先輩後輩という関係が瀬田をして疑念から遠ざけたのらしい。ただ、なぜそれを自分に教えるのかそれが瀬田には分からないし、そんなことを告げられても迷惑なだけで、ほとんど嫌がらせに近いとちょっと不快にさえ思いながら恐いもの見たさというのか何とはなしに気になってしまうのもたしかで、それでも不幸の手紙とか呪いの手紙とかいった幼稚なわりに後味悪いものではないだけマシというもので、いや、これもある種の不幸の手紙かと瀬田は首を傾げる。それでも瀬田に対してどうしろとかどうしてほしいとかいった要望なり脅しなりが記されているわけでもないから牧野が何をしようとしたのかその文面から推し量ることは難しく、それが何か巧妙な計算のようにも思えてくるが記されている事柄自体が事実か否かも定かじゃないし、それどころか全然信憑性がないと言ってよく、そうとすれば殊更意味などないのかもしれず、いや意味などないに違いない。手にした紙から眼を逸らすと「無意味だ」と瀬田は呟き、次いでカサコソと紙を響かせる。激しい雨音のなかでそれは不思議とよく響いた。
文末には死体の遺棄されている場所が簡略な地図とともに記されていて、先のコーヒーのシミが当該場所を指示するものらしく、その下に上向きの矢印とともにココという語が見られ、奥多摩の山中らしいが詳細は分からず、手持ちの地図で調べるというような七面倒臭いことをするまでもなくやはりフィクションなのだと瀬田は結論し、デスク下で反古に埋もれていたことからしても戯れに書き留められたものと考えるのが妥当な判断で、抑も渡されなかったわけだからあれこれ詮索しても益はなく、置き土産としてはそれなりに楽しめたのだからそれで良しとしようとひとり頷くと、元のとおり折り目に合わせて用紙を三つ折りにし、指跡のついた封筒に納めようとするが出すときには何の抵抗もなかったそれがうまく納まらず、あるいは皺を伸ばしたせいかもしれないと瀬田はそれを手のなかで握り潰すと無理やりに突っ込むが、封筒は不細工に膨れあがって巨大な稲荷寿司のようで、掌を押さえつけて均すも元のようにはならなかった。
降りつづく雨にどこへともなく流されてしまう塵埃のようにいつしかその存在さえ忘れてしまった、などということにはしかしならず、妙に気になって仕方がなかった。常からその手のものに関心があったわけではないし、現実のものとなると尚さら関わりあいにはなりたくないと至極真っ当な見解を楯に瀬田はそれを意識から遠ざけようとするのだが、仕舞い込んだことで却って想像力が掻き立てられるのかどうかすると間近にそれがあって降り止まぬ雨のように常に瀬田を囲繞しているのだった。それと軌を一にして妙なメールが送られてくるようになり、牧野からのそれはメールだが、差出人が牧野となっているだけで牧野本人のはずはないわけだから誰かのいたずらに違いなく、三文ミステリにも劣る筋書きと苦笑するが一片の気味悪さが残るし、それを見越して送信をくり返す相手の顔が見えぬだけに気味悪さも累積的に増大し、不意に思いだしては舌打ちするのだった。ウイルスが仕込んである可能性だって否定できないから受信するたびに速攻削除していたが、日に幾度もくり返しているうちに操作が雑になり誤って開いてしまい、見ると地図に記されていた場所へ来いとの督促らしいのだが、苛立たしげな牧野の口調を模した文体で来いよと告げるそれは脅迫と言ってよく、書面の存在どころか書かれていた内容まで把握しているところからして書面を書いた当の人物の可能性大で、つまりそれは書面を書いたのが牧野ではないということを意味し、あるいは土岐の仕業ではないかと瀬田は考えるがそれには何の根拠もなく、端的に牧野を騙り得る人物として土岐よりほかには思いつかないというにすぎない。抑も瀬田が時間に遅れたのは道が混んでいたからだしその死と渋滞とは直接に関係しないわけだから非難される筋合いのものではないはずで、それについて後ろめたい思いがないわけではないものの面と向かって言われるならまだしも人の名を騙ってネチネチやられたのでは不愉快窮まりなく、報復とは言わないまでも何か一言言ってやらねばこちらも気が済まないといつになく瀬田は息巻き、あるいは地図の場所へ赴けば何か分かるかもしれないがそれでは向こうの思う壺だし来いと言われたからって奥多摩くんだりまで行くことはなく、そんな気もさらさらないし行ったところで何もないに決まっている。
どうせバカを見るのがオチだとフロントガラスに砕ける雨を瀬田は睨めつけるが、すぐに焦点はヘッドライトに浮かびあがる濡れた路面を走る前方車に合わせられ、車間距離を取るため速度を落とす。たしか夜勤でビルの常駐警備へ向かう途中と瀬田は記憶するが、助手席に坐る梶木が常と異なるどこか神妙な面持ちで口数も少ないのがちょっと気に掛かり、間を繋ぐ言葉をしかし見出せずに黙したまま尚幾許か沈黙がつづいて瀬田の運転をそれはぎこちなくさせ、雨続きで気が滅入ると独りごちる梶木に同意するかに瀬田は頷くが、「自殺じゃないかって思うんだ、牧野」と不意に言いだしたのにはすぐに反応できず、ますます運転がぎこちなくなる。瀬田のほうへは顔を向けず、どこか前方の一点に視線を固定しながら憶測で判断してはいけないがそんな気がしてならないと、語り掛けるというよりは独語するように梶木は呟き、死ぬ理由などどうにでも捻りだせるものだし理由なんかなくたって死ぬときゃ死ぬさと腕組みして顎を引くが、少しの沈黙のあと腰を浮かして座席の座りを直すかに身じろぐと組んでいた腕をほどき、ドアのほうへ上体を傾がせつついくらか険しさの薄れた眼を瀬田へ向けて辛気臭い話をしたと顎をさする。煙草を取りだし銜えるが火はつけず、自嘲的な笑みを小鼻の辺りに滲ませつつ「何言ってんだろ、オレ」と呟く梶木はどこか不確かで、いや不確かなのはむしろ瀬田のほうで、渋滞を抜けてスムースに車が流れだれしても思惟はまだ渋滞の直中(ただなか)にあり、気づけば前方車が間近に迫っている。ギリギリで接触を免れるが瀬田がスピードを出しすぎていたわけではなく、前方車の走行が不安定で車線を越えて左右に蛇行していたりするからなのだった。クラクションを鳴らすが効果なく、危険を察知した瀬田は追い抜こうとするが邪魔をするように大きく蛇行して前に出ることができない。