見ればそれは牧野の車と同じトヨタのMR-Sで、幌をしていないから雨は止んだらしいが、そのひどく危なっかしい運転に瀬田は気を揉み、車が左に振れたところで右側へ回り込み、一気に抜きに掛かる。追い抜きざま運転席を覗くとドライバーはなかばハンドルに突っ伏すように前屈みになっている。その頭越しに助手席に坐る人を認めるがドライバーの異変にはまるで無関心らしく、姿勢正しく前を向いている。その超然たる居住まいは今起きている事態をもないものと見做すかのようだ。
クラクションを鳴らして注意を促すとそれに気づいたのかドライバーがゆっくりと頭を擡げる。周囲を窺うように首を巡らすが瀬田の車に気づく様子はなく、また突っ伏してしまう。今一度クラクションを鳴らすとまたゆっくりと頭を擡げ、今度はしかし瀬田のほうへ首を振り向けた。牧野に似ていた。いや、間違いなくそれは牧野だった。
その虚ろな眼差しや弛んだ口元は端的に酔いを示している。瀬田のほうを見てはいるが、焦点が合っているようではない。そのうち擡げた頭が右に傾いでドアに当たり、そのままそこに凭れる恰好になる。寝違えたように首が曲がっている。ハンドルの上に置かれていた手がそこから離れて垂れ下がり、それに伴い車体が右に大きくカーブして瀬田の車のほうへ迫ってくる。アクセルを踏み、前へ出る。その後方を牧野の車が中央分離帯のほうへと流れてゆく。
車体が分離帯に接触するとその衝撃に驚いたのか牧野はハンドルを切るが、左へではなく右へ回したらしく不快な接触音とともに車は分離帯の縁石に乗り上げる。さらにそこを乗り越えてゆく。その際何かが空に投げだされるのを瀬田は視野の端に認めた。衝突した弾みに外れたホイールだったが、それが瀬田の車のすぐ脇に落ちてきたから焦ってハンドル操作を誤り、危うく事故を起こし掛ける。体勢を立て直すと対向車線を走行するMR-Sに併走して尚も事の成り行きを見守りつづける。中央分離帯を挟んで向こう側に牧野の乗る車が走り、こちら側に瀬田の車が並ぶ。
位置関係が替わったため助手席がよく見えるが、そこに坐る女は微笑んでいた。少なくとも置かれた状況に恐怖し、パニクっているようには見えない。ごく普通の笑みだ。しかもよく見知っている笑み。ずっとそれに見蕩れていた懐かしい笑み。今はもう眼にすることのない笑み。雨を眺めているときに見せるそれと同じ笑みだと瀬田は思う。その笑みをたたえている顔をさらによく見ようとギリギリまで車を近づけて目を凝らすと、女が瀬田のほうへ顔を向けた。話し掛けでもするように何ごとか口にするのだが声は届かない。何を言っているのかその口元を凝視するも理解するには至らない。誰に向けてというのでもなく、ひとり呟いているといった様子で女は尚も口をパクパクさせている。
車は尚も蛇行しながら速度を上げ、いつ事故を起こしても不思議ではなかった。そう思う傍からけたたましいクラクションの響きとともに対向車線前方からトラックが走ってくる。ついに来たと瀬田が視線を向ける間もなく凄まじい轟音とともに二台は正面から衝突した。四散した破片が屋根やボンネットに落ちてきて、煤けたような痕跡がそこに残る。見る間に背後に遠離ってゆく二台をしばらく瀬田は眼で追う。前を向き、ミラー越しに尚も窺う。閃光が走る。車体の爆発する音がそれにつづき、爆発による衝撃が瀬田の車にも微かな振動となって伝わる。
車体が視界から消えても炎上する車体から立ち上る猛煙が見え、狼煙(のろし)のように真っ直ぐ伸びるそれから瀬田は眼を離せない。そのうちミラーが煙に翳り、車内に漂うその煙を辿ってゆくと煙草の火先へ至り、少しく険しい表情をした梶木の口にそれが挟まれているのを瀬田は認めるが、今にも灰が落ちそうで、そう指摘するとゆっくりとしかし素早くそれを灰皿へ落とした梶木は、煙草をまた口へ持っていって立て続けに三、四口吸ってから火を消し、そうして何か考えるふうに俯くが顔を上げたときには次の一本に火がついていた。深々と吸い込んだ煙を吐いてから「タバコ、やめようと思ってる」と梶木は呟き、言う傍からまた吸って吐くが、その言葉は瀬田も幾度か耳にしていたし今も梶木は平然と吸いつづけていて、しかも眼前に翳した煙草への愛おしむような眼差しがそれを否定しているのは明らかだから適当に相槌を返すと、どことなく深刻な面持ちで「どう思う」と問うてきたから言葉に詰まり、それでも今どき喫煙者は肩身が狭いから却ってストレスが溜まったりするし、その反動で喫煙量が増えるかもしれず、やめられるのならやめてしまったほうがいいと尤もらしいことを返せば「いや牧野のこと」とさっき頓挫した話のことなのらしく、それにはしかし尚さら言葉なく、溜息めいた呟きが漏れるのみだった。とはいえ梶木の自殺説には賛同しがたく、そうかといって単純事故説も今ひとつ諾いがたいと瀬田は考え、その落としどころを見出すことは尚さら困難に思えたが、考えたって仕方がないというように「そんなの牧野に聞かなきゃ」分かりっこないと当たり障りのないところへ落とせば、それはそうに違いないがと言うものの納得した様子ではなく、考え込むときに梶木はそうなるらしいのだが早いペースで煙草を吸いだし、見る間に一本を灰にする。深い溜息とともに「やめられないよな」と梶木が慨嘆すると、端からやめる気などないくせにと内心毒づきつつやはりやめたほうがいいと瀬田は勧め、そこでしかし会話は途絶えてしまって煙を逃がすために細く開けた窓から入り込むやけに冷たい空気に頭は冴えてくるものの運転のほうはまたぎこちなくなり、それでも高速へ入るとスムースな車の流れに伴う疾走感とも相俟っていくらかぎこちなさも和らぎ、さすがに遊山に行くというような爽快さとは縁遠いものの相応に意気込んではいて、遅くとも日が暮れる前には着くだろうと計算してそのあとの道程を勘案するに、正味一時間くらいがリミットでそれ以上は掛けられないだろうが、それだけあれば充分とも思え、とにかく用が済んだらすぐ帰ると決めて綿密とは行かぬまでも相応にシミュレーションをくり返しながら瀬田は車を走らせるが、何も摂らずに出てきたため途中サービスエリアで食事する。