天丼定食一〇五〇円と山菜そば定食八五〇円を頼み、丼から食みだすほどにも巨大だがそのほとんどが衣のエビを、というか衣を頬張りながらテーブル向かいでスルスルとそばを啜る弥生の箸使いをしばらく瀬田は眺めていたが、手にした二本を交差させるように持つその持ち方がおかしいと指摘すると、今まさに口元へ運ばれようとしていた湯気立つそばを弥生はつゆへと戻し、そのなかを泳がせるように箸で掻き廻してから引き上げると瀬田のほうへそれを翳し、交差する箸を動かしてみせながら「そう? ずっとこうだけど」と平然たる構えで、直したほうがよくないかと自身の握りを見せながら瀬田は持ち方を教えようとするがチラと一瞥しただけで弥生は関心を示さず、「掴めるしちゃんと」いいよこれでと交差させた箸で器用にそばを掬いあげてはスルスルと啜り、ぜんまいやらわらびやらなめこやらを交差箸で次々摘んでは口へ運ぶが、ふと食べる手を止めると瀬田の丼に眼をやり、いや上下するその手元を追いながらその持ち方だって少し変だと箸で指す。あからさまにそう言われると自分の持ち方が正しいという確信は揺らいでしまうが、弥生の交差箸に較べればずっとマシしでいくら何でもその持ち方はないとそこまで言うつもりはなかったのだが勢いで出てしまい、何か引っ込みがつかなくなって尚も弥生に迫れば、少しく冷めた視線で瀬田を見遣りつつ弥生はそばを啜り、その冷やかな態度にためらいは薄れて直したほうがいい、いや直すべきだとちょっと強腰に出ると、煙ったそうに眉根を寄せて「そんなの、どうでもいいよ」ご飯がおいしければそれで充分ではないかと相手にせず、汁椀を手前へ引き寄せながら定食についていた煮物の皿をとても食べきれないから半分取ってと瀬田のほうへ差しだし、見るとなかば汁に漬かって汁色に茶色く染まったじゃがいもがいかにもほっこりとおいしそうで、箸で突き刺し一口に頬張るとほとんど抵抗なく舌の上で崩れてゆく。赤出しのみそ汁を啜り、ようやっと身の部分に辿り着いたエビとともに瀬田は飯を掻き込んだ。
五〇円の値上がりに六年の歳月を思うものの味的には可もなく不可もなく、その変化していないところがむしろ瀬田には懐かしく、さして急ぐ必要はないからもう少し味わっていたいのだが、全体咀嚼回数が少なく汁で流し込んでしまうため五分かそこらで食べ終えてしまい、その分唾液の分泌も少ないから衣ばかりの天ぷらが胃に重く、全然学習していない自分に腹が立つが、尚一、二時間高速を走らせるうちにはいくらか消化が進んで胃の負担も軽くなる。高速を降りて地図を参照しながら走ること四〇分ほどだろうか、車はいつか舗装された路面から振動が尻へ直に伝わるほどの砂利道を走行していて、書割めいた樹林が前方から後方へと流れてゆくのを瀬田は視野のうちに捉えながら徐々に暗さを増してゆく森の奥へと入ってゆき、もうすぐだと思うと気が急くが、そんなときにかぎって道を間違えたりすると慎重に車を走らせ、チラと腕の時計を見て間に合いそうかと訊いてくる梶木にギリギリ間に合うと答えると常にない乱暴な運転で現場へ向かい、時間には間に合うが気持ちの整理のつかぬまま勤務につくことになる。とはいえ梶木は切り替えが早く、勤務につけば常の状態で、それに対して瀬田のほうは低調な滑りだしからいつまでも調子が出ず、どうにか奮い立たせようと仮眠から戻った梶木と交代で仮眠室へ向かうなか、一足ごとに床を強く踏み締めて靴音を響かせる歩き方になり、なかば無意識だったが自身の靴音を耳にしてそれに気づくと意識的に響かせ歩き、人気のないビルの通路をそんなふうに歩くのを瀬田は好んでいるが常にそうしているわけではなく、日中はあらゆる音に掻き消されてしまうその甲高い響きに包まれると落ち着くというか、精神的に安定するような気がするのだった。
アルファ波が出ていると言ったら梶木に鼻で笑われたが瀬田は信じて疑わず、殊更自分を権威主義的とは思わぬながら獄舎を巡回する看守の気分に浸れるからか巡回警備は密かな楽しみで、その楽しみがあればこそこれまで仕事をつづけてこられたようなものなのだが、警備というものが何なのか実をいうと瀬田にはよく分からないのだった。何から何を守っているのかさえ判然とせず、ただそこにいるだけだった。いったいそれだけで何かを果たしていることになるのだろうかとの疑念がずっと瀬田の内にあり、始末に負えないゴミ屑同然の自分がそこにいたところで益することは何もないはずではないかとそう瀬田は思うのだ。そんなことを思ううちにも高揚した気分は萎えしぼみ、高らかに響き渡っていた靴音も次第に低く鈍くなってそのうち耳に届かなくなり、代わって雨音が辺り一帯を囲繞してそれよりほかには何も聞こえなくなるが、篠突くほどの降りというわけではなく、パラパラと小雨程度の雨粒の落ちる仄暗いところをひとり歩きつつ首を巡らして木々の向こうを差し覗くが、全体白っぽく霞んでいて視界も悪く、路肩に停めた車のほうを顧みるともうその影も見えないから早くも迷ってしまったような気がして瀬田は足を止め、幾度もした位置確認をまたくり返す。舗装されていない砂利道をさらに二〇分ほど走らせた辺りからダケカンバの疎林が広がっていて、林道のような杣道のような足場の悪い道を瀬田は傘を差して歩いているのだったが、朝のうちは雲の切れ目から日が差していたし予報でも降らないと言っていたのに急に雲行きが怪しくなってここへ着いた途端降りだしたのだった。今さら戻るのも癪だと車に常備の傘があるのを幸い地図の場所と思しい道を探すことにし、案外すぐにそれらしき枝道を見つけた瀬田は勢い込んで歩いてゆくが程もなく草深い薮に行く手を阻まれ、軽装で来たことを悔やむがもう戻る気はないと雨のなか道なき道を進む。とはいえ地面がひどく泥濘んでいて歩きにくいどころではなく、気を弛めると足を取られそうだから歩調はゆっくりで、傘も邪魔なだけでほとんど役に立たないから結局畳んで杖代わりにし、そうして雨のなか草叢を掻き分け進んでゆくと樹間からの景がふと眼に留まり、どこかで見たような光景だと一瞬瀬田は思うもののただ足を前へ出して一歩を進めることにだけ集中せざるを得ないから景色に眼を向けている余裕もなく、小首を傾げつつも先を急ぐ。少し開けた場所へ出て一息つくと閉じていた傘を差し、警戒的な視線を四囲へ走らせつつ地図を広げ見るが、雨のせいで目印となるものの見当もつかず、いやそれ以前に地図が簡略すぎて全然当てにならないから今自分がどこにいるのかも分からず、つまり瀬田は迷ってしまい、帰る方向すら判別つかない状態になってかなり焦る。