それから三、四〇分ほど闇雲に歩き廻るが雨と泥濘と視界の悪さとで距離的にはさして稼げず、それでも建物らしきものの屋根が草間に見え隠れしているのを見出したのでゆっくりとそちらのほうへ瀬田は歩いてゆくが、徐々に傾斜がきつくなって直線コースは無理と判断し、右手に迂回する恰好で四、五〇メートルほど進んでゆくうちに当の建物を見失ってしまい、それでも大して逸れてはいないはずと目算で見当をつけて瀬田は突き進むがどこまで行っても目当てのものは現れず、建物と見えたのは錯覚だったのかと嘆息するとともに足の動きも鈍り、休息の必要を感じてどこか腰掛ける場所はないかと思った矢先、不意に視界が開けた。何かの作業小屋らしいが今はもう使用されていないのか草木に覆われ朽ち果てている建物が眼前にあり、周囲の景観と位置関係からしてそこが目的の場所らしく、つまりその小屋のなかに例のものが遺棄されているということなのらしいと瀬田は見当をつけるが、いかにもな佇まいなために却って嘘臭く思えてしまうのは否めず、今一度小屋のぐるりを見廻してその視野のうちに建物らしい建物もないことを確かめると安堵とも落胆ともつかぬ溜息を瀬田は漏らし、傘の柄を握り直して空をふり仰ぐ。ここまで来ても瀬田はまだ迷っていた。ここに踏み入ってしまったら最後、取り返しのつかないことになってしまうのではないかという不安が兆したからで、確実に拡がってゆくその不安を抱えてどれくらい佇んでいたのかしれないが、やはり見るべきではないと考え、いや、端的に怖れをなしたと言っていいがそこへ踏み込むことを断念し、踵を返すとスタスタ早足で来た道を、ひどい泥濘を歩いて戻り、徐々に遠退く雨音を耳にしながらそれを圧する自身の靴音の響きにちょっと陶然となり、その余韻も聞き漏らすまいとしばらく待って気息を整えてからノブに手を掛けドアを開けると定時巡回に出ているのかそこに梶木の姿はなかった。椅子に掛けて待つうちにも雨音の残滓というのか時折耳内に反響する猥雑な音があり、耳鳴りというのでもないノイジーな響きはそのあとずっと尾を引いて、勤務に支障はないながらもいまいち調子が出ないのだった。
しばらくして梶木が戻ってくるが遅れたことを叱責するでもなく、それでいてどこか重たげな空気を纏っているから却って瀬田は恐縮し、自身の不調が尚さら意識されもしてちょっと饒舌になると牽制するかに梶木はそれを制し、腕を組み、すぐにふり解くがまた組んで、困惑したような笑みとともにその置きどころが掴めぬといった様子で牧野が事故に遭ったとき店にいたという話だが「そうなのか?」と訊くのだったが、耳が早い梶木に隠しても無意味と掻い摘んで経緯を説明すると、納得したように頷いているが眉間に寄せた浅からぬ皺に疑念は見てとれるから、言い訳めくのを承知のうえで尚饒舌に瀬田は細部を語るのだった。一通り話し終えると少しく喉の渇きを瀬田は覚え、茶を入れてくると湯飲みのひとつを梶木へ手渡し、自身も一口啜って喉を潤すが静まり返った一室にそれは妙に大きく響いたから二口目は音を立てぬようにして啜り込み、そうして二人で茶を啜りながら互いに口を開く端緒を掴みかねていた。茶を啜る音に紛れて微かに雨音が聞こえるようだが気のせいかもしれず、いや、たしかに聞こえると耳を澄ますと却ってそれは遠退くようで、不確かなその手応えに瀬田はちょっと戸惑うが梶木も同様耳を澄ますような素振りで虚空を眺めているからいくらか安堵し、それでも尚幾許か外の様子に気を奪われていたらしく、湯飲みを卓へ置いた梶木が身じろぎしつつ吐息を漏らすのに何の兆候も見出せず、右手で制服の襟を弄くりながら「自分のせいだとか思ってんのか」それで鬱いでんのかと直截に問われて端的に怯んだ。とはいえ梶木はちょっと深刻な眼差しで返答を待っているようだからはぐらかすのもどうかとそこまで深く思い詰めているわけではないが何となく嫌な心持ちではあると答えると、そうかと頷き、尚も襟を弄くりながら「だったらいいけど」あまり思い詰めると牧野のようにもなりかねないと瀬田のほうへ向けていた視線を逸らすが、ためらいがちにまたそれを戻しながら牧野よりも瀬田のほうが「不意にね、消えちゃいそうな気するんだよな」と心配そうに呟く。梶木に言われるまでもなく自身の希薄さを瀬田は心得ているが、改めてそう言われてみればあれが牧野ではなく自分の身に起きたとしてもおかしくはなく、いやむしろ自分にこそ起きるはずのものではないかとさえ思え、そんなはずはないのに牧野が身代わりのように思えてくるのだった。いや実際牧野が身代わりなのだった。本来あれは瀬田が蒙るべきはずのものなのだと何げにそう呟けば、梶木はひどく恐縮した様子でまた余計なことを言った気にすんな忘れろと瀬田の肩にそのごつい手を置き、「オレも調子狂ってるな」と苦笑する。
夜勤を終えて瀬田は帰途につくが外は霧のような雨で、肌にまとわりつくその生ぬるい感触が不快なのはもとより視界を遮られて歩きにくく、そのせいでもなかろうが耳の奥で何かがまた鳴りだしたからよほど疲れているのだと早く帰って眠るべく瀬田は駆け足になるが、水溜まりを避けようとして濡れた路面に足を滑らせて転けそうになり、それでも速度を弛めず雨のなかを駆けてゆき、以前顛倒して腰を強打したことのあるアパートの外階段も構わず一息で駆けあがる。中へ入ると生乾きの洗濯物の臭いに瞬間眉を顰めた瀬田は素早く視線を走らせるが、そこに目当てのものはなく、代わりに男がひとりいて、土間の隅に腰掛けて落ち着かなげに煙草を吹かしているその足元には幾本もの吸い殻が散乱し、そこへ向けられた瀬田の視線を追うように自身の足元を見下ろした男は光沢のある白いスーツに胸元を大きく開(はだ)けた黒いシャツとそこから覗く光りものといった装いからしてヤクザな商売なのが丸分かりだが「もう来ないかと思ったよ」と泣きそうな顔をしてみせる。その芝居掛かった素振りが脅しめいていて瀬田を怯ませるが、男は煙草を靴先で揉み消しながらここからさらに奥深いところ、と言ってもほんのすぐそこだけどと付言しつつその奥深いところに例のものがあると説明すると「じゃ行きますか」と同意も求めず歩きだす。呆気にとられて茫然と佇む瀬田を男は振り返り見ると殊更ドスを効かせるふうでもなく至極穏やかに「行きましょう」と重ね、それでも尚返答せずに佇立している瀬田を訝ってか少し考えるふうに俯きながら足元の煙草を蹴散らしたりしている男は小柄ながら体格がよく武闘派めいているが、よくよく見ると細面の二枚目で涼しげな目元に色気があると瀬田は観察する。臆したのかというような嘲りの視線を投げながら「だってそのために来たんでしょ、違うの?」と男は薄ら笑いを浮かべるが、その面差しはどこか土岐に似ていた。そう思ったのはしかし一瞬だけで、次の瞬間にはもう土岐とは似ても似つかぬ眼つきの悪い悪人顔に変貌していて、それもしかしすぐに消えてさっきまでの穏やかで目元の涼しげな二枚目に戻っている。