行くの行かないのと物言いこそ穏やかながら挑発的に問い掛ける二枚目に帰る旨瀬田は告げると、呆気にとられている二枚目を尻目に小屋を出てゆくが、こんな怪しいヤツについて行ったらヤバイことになるに決まっているしただの嫌がらせ程度で済むとも到底思えないからで、泥濘のなか飛沫を上げて猛然と歩くその決然たる態度に慌てたのか「おいおい冗談は止してくれよ」とちょっと戯けたポーズで瀬田の前に立ち開った目元の涼しげな二枚目はここまで来て帰るなんてどうかしていると引き留めに掛かるが、ここへ来ただけでも充分莫迦げているのにこれ以上莫迦げたことに付き合ってられるかと瀬田は二枚目を押し退けて来た道を引き返す。背後で二枚目が頓狂な声をあげたかと思うと「ずっと待ってたオレの身にもなってくれよ」と泣き言を言って縋りついてきて、芝居染みた泣き顔で「ずっと待ってたんだぜ」をくり返すから意表を突かれて少しく怯んだ瀬田はオレが待たせたわけじゃないと言い掛けるが相手にしないほうがいいと呑み込み、二枚目を振り払うと逃げるように草叢のなかへ入ってゆく。それでも二枚目は怯むことなく追い縋ってきて雨のなかこの悪路を戻るのは大変だろうと宥めに掛かり、遠廻りになるがこっちのほうが道は平坦だし危険もずっと少ないと言葉巧みに瀬田を誘う。たしかに復路の困難を思うと気は萎えるが、そうかと言ってヤクザの言葉も信用はできないと瀬田は警戒を解かず、泥濘に足を取られながらも二枚目を振り切ろうと歩みを速める。
二枚目に気を取られていたせいか瀬田は泥濘に足を滑らせてしまい、そのまま後ろへ転倒して強か腰を打ちつけ、苦痛に呻いてしばらく立ちあがることもできずにいると、駆け寄ってきた白いスーツに助け起こされ、そのまま白スーツに凭れ掛かる恰好になるが大丈夫だと制して二枚目の手を借りずにひとりで瀬田は立ちあがると再び歩きだし、足取りはしかし一転して鈍ってしまって二枚目を振り払うどころではなかった。二枚目は瀬田の横に並び立つとちょっと嬉しそうな面持ちで空を仰ぎ見ながら雨足も強くなってきているからひとりでは危険だし日が落ちたら尚さらだとそれこそ魑魅魍魎の類いが現れるとでもいうように忠告し、魑魅魍魎はべつとしても危険なことはたしかだろうからその忠告を尤もだと内心瀬田は思うものの諾々とその意に従うこともためらわれ、腰は大したことはないがせめて雨さえ止んでくれたらと恨みがましく暗い空を見上げ、次いで行く手を阻む草叢と泥濘を見やって深い吐息をひとつ漏らすと白いスーツのほうへと視線を向けるが、瀬田のその値踏みするような視線に二枚目は臆することもなく、却って瀬田のほうが怯んで眼を逸らす。しばらくして立ち止まった瀬田が二枚目のほうを見つめて小さく頷くと、二枚目も頷き返し、次いでひらりと身を翻すとにんまりと相好を崩して「こっちですこっち」と雨のなか先へ立って歩く。泥濘を物ともしないその軽やかな足取りに瀬田は遅れそうになるが一足一足慎重に運びながらそのあとについてゆき、朽ち果てた小屋の脇を抜けると舗装こそされていないものの踏み固められた道があり、そこをさらにしばらく行くとさっきの小屋と似たり寄ったりの、それでもいくらか真面に立っている、と言って廃屋には変わりないプレハブが見えてきて、二枚目はそれを指差すと「ほらあすこ」と涼しげな笑みを向け、スイと滑るように駆けてゆくが、ワイヤーアクションでも見るかのようなその滑らかな移動に驚嘆する、というか水飛沫も上がらないから雨の幕の向こうに展開される光景を瀬田はどこか幻のように感じる。
開け放したままの、というより蝶番が壊れていて閉じることかできぬらしい入口から中へ入ると手探りで二枚目は明かりをつけ、衣服の雨滴を軽く払っているが見たところさして濡れてもいない。傘を差さしていない二枚目が濡れていないのに傘を差していた瀬田のほうはずぶ濡れで裾も泥に塗れている。外を窺い見ると今や雨は沛然たる様相で、そのなかを濡れずにいることなどできそうにないから全体どういう仕掛けかと問いただそうと振り返ると、そこに白いスーツはなく、息を呑んで瀬田は辺りを窺うが気配もないし雨音に圧せられて尚さら分からず、泥の堆積した土間へ天井から落ちてくる結露した水滴の形作る不可思議な模様を見つめながら茫然と佇んでいると「おい」と呼ぶ声がどこか遠くのほうから聞こえ、右手の廊下からそれは聞こえてくるが、首を伸ばして窺うと奥から白いスーツが手招きしている様子で、明かりの加減かしかしユラユラと陽炎めいてちょっと気味が悪い。一瞬ためらったのち瀬田は土足のまま上がるが一足進むごとに軋みを上げる床が今にも抜けそうで、及び腰の瀬田の様子を二枚目は可笑しそうに見つめているが、瀬田の足元を指さしてそこ脆(もろ)いから気をつけろと注意し、その指示に従って瀬田は廊下を歩き、その横に並び立つと二枚目は顎で扉を指して入るよう促すが閉じられた扉を前にして瀬田は少しくためらい、反転して窓の外の降る雨を見上げた。そうしていつまでも雨を眺めている弥生の後ろ姿をいつまでも瀬田は眺めているが、ふとその視線の先にあるものを追いながら何が見えるのかと訊かでものことを訊けば、振り返ることなく「雨」と返ってくる。ガラスには弥生と自身の姿が闇のなかに浮かびあがるように映しだされていて、心持ち顎をあげて空を見る弥生はどこか遠い眼差しをしているが、瀬田の視線に気づいたらしくガラス越しに眼が合い、塗りつぶされたように黒い瞳はしかしまだどこか遠くを眺めている様子で、ふたつの視線はだから出会いながらもすれ違ってしまうのだった。それでも闇に溶け込んだその黒い瞳が瞬間光に照らしだされたように瀬田は思い、眼を凝らすと「雨」と声に出さず弥生が言うのが見てとれ、自身も同様「雨」と口のなかで唱えてみるが弥生の言うそれとはどこか舌触りが異なるようなのだった。
「面白い?」と徐ろに瀬田は訊いてみる。
「ていうか不思議」と弥生は答える。
今ひとつ理解できず茫然と佇む瀬田に、雨が不思議なのではなく雨を眺めてしまう自分が不思議なのだと弥生は補足し、その先の言葉を瀬田は待つがただ飽くことなく雨を眺めるだけでそれきり弥生は何も発せず、その後ろ姿をやはり飽くことなく瀬田は眺めていたが、いくらか左に傾いだその背中に「どうしたの、入らないの? そのために来たんでしょ、違うの?」と鼓舞する白いスーツの二枚目は冷やかな視線を瀬田に向け、ガラス越しにそれを受けた瀬田は振り返って扉へ再度向かうと、たしかにそのためにこそ来たのだと中へ入ってゆく。