そこへつかつかと歩み寄ってきたのは牧野よりさらに二年先輩の梶木で、「なんだ二日酔いか」シャキッとしろ若いんだからと瀬田の背を小突き、いや若くなんかないと苦笑する瀬田の掠れた声に被せるようにそれより聞いたかとこの妙な雰囲気の出所について知っていそうな素振りを示したからシフト変更のことかと話を向けると「牧野がさ」と神妙な面持ちのうちにも昂揚した気分の窺えるテンションで「死んだんだってよ」と告げる。前日の電話の声からしてあり得そうにない展開だと訝しげに見遣る瀬田に交通事故だと梶木はいくらか声を潜め、それには返す言葉もなく茫然と梶木を見つめるのみだった。そんな瀬田にはお構いなしに酒気帯び運転で車線を食みだした牧野の車が中央分離帯を乗り越えて尚幾百メートルを蛇行しながら走行するも対向車線を走行中の四トントラックと正面衝突したと何度もくり返されたのか淀みなく説明をはじめ、車は大破しドライバーはふたりとも即死らしいと見てきたように詳しいが、昨日の今日でそこまで詳細な情報をいったいどこから入手し得たのかと揶揄するようにそれは逆じゃないのか、トラックのほうこそ酒気帯び運転で巻き添えを食ったのは牧野のほうではないのかと異議を唱えたのは牧野と私的に懇意だった土岐で、抑も飲みに行くのが目的で出掛けたのなら車は使わないだろうと物凄い剣幕だが、それに対してまたかと呆れたような顔を梶木がしてみせたのはすでに一悶着あったことを意味するが、情報ソースに自信があるのかそれに間違いはないと梶木も譲らない。土岐ひとりだけが憤懣やる方ないといった様子で息巻いているが誰も相手にしないのは、土岐以外の者が情報の信憑性を疑わず、というかどちらが巻き添えだろうと関係ない様子で突然の訃報に戸惑っているだけだからで、瀬田もそのひとりなのだが若干皆と異なるのは、店にいた連中はおくとしてこの中で恐らく最後に牧野と話をしたのが瀬田だろうからで、しかも事故が起きたのは店を出た直後らしいから瀬田が時間に間に合っていれば牧野が帰ることもなく、必然事故も起きなかったと考えられ、それを自分のせいとまで悲観することはないもののいくらか蟠りは残るし皆の視線に非難の色が込められているような気がしてならず、あからさまに指摘する者こそいないが却ってそれが瀬田にそのことを意識させずにはおかず、ジワジワと箍を締めつけられるような居心地の悪さを感じていた。
牧野のデスク周りの整理は瀬田が行ったのだが、内心いくら後ろ暗い思いがあるとはいえそんなことを率先して引き受ける瀬田ではないから自ら買って出たわけではもちろんなく、単に命じられたから行ったまでだし下っ端だから事務員が社用で外出してしまって手の空いている者は瀬田しかいないのだと言われてしまえば否も応もなく引き受けざるを得ず、土岐にでもやらせれば喜んで引き受けようものをなぜ自分がとそれでもしばらく不愉快で、程なく事務員は戻ってきたものの交代を命じられることもなく、ブツブツとひとり文句を垂れながら作業したのだったが、そこで瀬田は妙なものを発見して驚く。いや、別段驚くには値しないのだが場合が場合だけに勘繰ってしまうのだ。デスク下の奥に押し込められてあった恐らく私物だろう百貨店の紙袋に反古と一緒くたになっていたそれは自身の名の記された茶封筒で、鉛筆書きの雑な宛名は全体掠れて読みにくいもののたしかに瀬田と書かれてあり、事故前日の誘いもそうだがこれまで牧野と仕事以外で接することなどほとんどなかった瀬田にとってそれは思いも掛けないことで、なぜ牧野がと首を傾げざるを得ない。いくらか気にはなったものの死者へ義理立てする気などないから見なかったことにすればよかったのだが、いやむしろ一旦遺族の許へ返すのが筋道としては正しいはずだし、そのような迂回路を経るとはいえ再び瀬田の許へとそれは回送されるだろうから何も今横から掠めとるような真似をしなくともいいわけで、そう判断しながらしかし瀬田はそれをポケットへ滑り込ませていた。何やら曰くありげな茶封筒というアイテムに対するそれは卑俗な好奇心にすぎないが、万引きした中学生のように妙なスリルを味わいつつじんわりと汗ばんだ掌の感触がそれを拭い去った後も尚しばらく残っていて、折に触れてよぎる心地よい罪悪感に瀬田は浸るのだった。
勢いで持ってきてしまったがやはり拙かったかと生乾きのTシャツの腋にドライヤーを当てながらテーブルにおいた封筒からしばらく瀬田は眼を離せなかったが、Tシャツが乾いてもそれを読むには至らず、かといって今さら返すこともためらわれたから自身の手癖の悪さを笑うほかなかった。Tシャツは丁寧に畳んで仕舞うが封筒は無造作にテーブルに放置され、眼に留めるたびに誰何されでもしたかに硬直してしまうが、そんなふうに逡巡しているうちに三日がすぎ、その間ずっと雨は降りつづいて一時晴れ間を覗かせることもあったが小止みになったり強まったりしながら憂鬱と倦怠の種を振り撒いていて、最後の一歩を踏みだせないのを瀬田はそのせいにしていたがやはりその日も朝から雨で、夜勤から帰宅した瀬田は濡れてよく滑るアパートの外階段を覚束ぬ足取りで上がると疲れのあらわな顔を空へ振り向け、見るともなしに降る雨を眺めつつ鍵を開けると外にも増して湿っぽい自室に溜息を漏らす。帰り掛けコンビニで買った菓子パン三個のうちグラニュー糖のたっぷり塗されたメロンパン一個を食べてから床に就くが、二時間ほどうつらうつらしただけでまた起きだし、一向に乾かない洗濯物のぶら下がる湿った自室の窓際で茫と雨を眺めていたが、こうして弥生もひねもす雨を眺めていたのだとその姿を思いだして一頻り感傷に浸るうちようやく寝入り、一旦止み掛けた雨が再度勢いを盛り返した午後も遅い刻限と記憶するが、激しく窓を叩く雨音に瀬田は眼を醒ました。短いながら深い眠りにいくらか疲労も回復したらしく、低脂肪牛乳とともに残りの焼きそばパンと餡ドーナツを食べながら見るともなしにそれを見ていたが、食べ終えて自由になった右手がふとそこへ伸び、表を見て裏を見てまた表へ返しとするうち指に付着した油脂でほんの少し黒ずみ、表側の親指と裏側の人差し指とで両側から挟み込む形に転写されたその黒ずみをしばらく瀬田は眺めていたが、また一段と強くなった雨音を背にしながら尚注視するうち徐ろに封を切っていた。三つ折りされたA四コピー用紙が一枚出てきた。ほかにはないかと口を広げて中を覗くがそれきりだった。いくらか黄ばんでいるそれを広げ見ると下端の辺りが少し皺寄っていて山や谷の折れ目がいくつも交錯しているのがジオラマめいて見え、用紙の裏側から右掌をその交錯する折れ目に宛った瀬田は用紙上端を左手で押さえ、二度三度擦って均すが完全に平らにはならず、それでも読むのに支障のないほどには平らになる。裏返すと用紙を分断するようにふたつある折り目の下のほうのそれから三センチほど下がった辺り、用紙右端からは四センチ辺りのところにコーヒーか何かのシミがひとつついている。上のほうの折り目のすぐ上辺りから最初の行がはじまっているが下のほうの折り目に達する前に行は終わっていて左右の余白も三、四センチほどあり、全体の文字数もそう多くはないから大したことは書いてなさそうで、万引きの成果がこれでは冴えないなと吐息を漏らすとともに最初の文字に瀬田は焦点を合わせる。