友方=Hの垂れ流し ホーム

03

苛立たしげな舌打ちとともに徐ろに動きだしたのはしかし空腹のためで、テーブルから下ろした両の足を泥水へ浸すと重心を前方へ移動させて立ちあがり、右足を軸に左足を踏みだして病者の足取りでキッチンへ向かうとあり合わせの材料を適当に見繕って消費期限を疾うにすぎているドライカレーの素でドライカレーのようなものを拵えるが、手馴れているようでも手際は決してよくはなく、具材の大半はフライパンから零れ落ちてレンジ周りに花を添える。皿に盛りつけソファに着くが見るからに不味そうにでき上がったそれを食べる気は忽ち失せ、溜息とともにテーブルに置いてしばらく矯めつ眇めつするも眺めているだけで空腹が癒えることはあり得ないから再度手に取り、ただ空腹を紛らすために食べる。少量ずつ匙で掬っては口へ運び、ゆっくりと咀嚼するがやけにボソボソしていて嚥下できず、ペットボトルの烏龍茶で流し込むようにして胃に納め、苦行のあとのようなひどく困憊した面持ちで瀬田は皿を片づけるとまた元のようにソファに深く沈み込む。湿った重たい空気が足下を撫で、視野の端で洗濯物が微かにゆらめいているが、Tシャツの影に隠れて靴下が見えなくなったところでその動きは止まり、次の瞬間何かに引っ張られるようにしてそれは床に落ちるが途中収納ボックスに角が当たって真ん中からくの字に折れ曲がり、金属のぶつかり合う硬質な響きに一室は静まり返る。

組み敷くように衣類の上に覆い被さっているステン製ピンチハンガーを見据えながら瀬田は舌打ちすると、徐ろにサンダルを突っ掛けて部屋を出る。その道のプロに掛かればものの三十秒で開けられてしまうだろうシリンダー錠を施錠し、次いで施錠されているのを幾度も確認し、憂鬱げな吐息とともに外階段をミシミシ軋ませて降りると疲れた足取りで雨のなか川沿いの道を歩き、ふたつ目の橋を渡って向こう岸へ行き、その次の橋をまた渡ってこちらへ戻りなどしながら四、五百メートルほど下流へ下り、二件目に眼にしたコンビニへ寄ってマンガ雑誌を立ち読みし、五〇〇ミリリットルの低脂肪牛乳一パックと四個入りのシュークリームを買って帰る。牛乳は冷蔵庫にシュークリームは胃に納め、プラマークのついた包装ケースを生ゴミ用のゴミ袋へ構わず入れる。口内に残るねっとりしたカスタードの甘いヴァニラの香りに浸っていくらか落ち着きを取りもどした瀬田は、その余韻を借って午後一杯を持ちこたえようとするがすぐに萎んで長続きせず、たかだかシュークリーム四個くらいでどうにかなると短絡したのが抑もの間違いなのだが、期待した分だけ凹みも大きく、今日はもう何をする気も起きないだろうと不貞腐れて横になれば何もすることがなく何をすればいいのか分からないというどん詰まり感が徐々に高じてくるのだった。時間はひどくゆっくりと進み、それが無限に引き延ばされてゆくなか瀬田は身じろぎもせずじっと耐えている。そんなことにはもう馴れきっているはずなのに直面するとやはり相応に打ち拉がれてもうお終いだと幾度も呟き、そうして幾度も呟きを漏らしつつお終いのその先にいったい何があるのかとふとその先へと思惟を伸ばしてみるがどこまで行っても何もなく、その何もないということにうんざりして「お終いだ」と一段と暗い呟きを呟くと、窓の向こうに覗ける薄暗い雲間のそのさらに向こうを眇(すが)め見るが、フィルム傷のような細い雨の線が視界にチラつくだけで何が見えるわけでもなく、それでも尚その向こうを覗き見ようとする瀬田の気を殺ぐように電話が鳴る。受話器を取ろうと半身を捻ったところでそれはしかし切れてしまった。十分ほどして再度掛かってくるが一瞥しただけで無視しているといつまでも鳴り止まず、仕方なく受話器を取って耳に宛えば少しく権高な調子で「オレだけど」と告げたのは先輩の牧野だが、社用以外で瀬田に掛けてくることはあまりなかったから何だろうとちょっと畏まれば、酔いによる陽気さとはいくらか異なる妙なテンションで「今飲んでんだけどさ」来ないか来いよと有無を言わせぬ口調で言う。社用じゃないのかと気を弛めて気安さに紛らせつついくらか投げやりに「どこです?」と瀬田が問えば知ってるだろと少し苛立った様子で、知らないととぼけると行きつけのスナックの名を牧野は二度告げて来いよと重ね、それでも返答を曖昧に濁していると再度来てくれといくらか懇願するような口調でくぐもった声が誘う。もとより瀬田はどこそこで飲んでるから来いというような突然の誘いに気軽に出向く人づき合いのいいタイプではなかったし、牧野もそれは承知しているはずだからなぜ今日にかぎって来い来いと執念く誘うのかそれが解せないが、大方財布の中身の乏しいのに気づいて思いついた知人に片っ端から誘いをかけるも断られるか都合がつかぬかして誰も引っ掛からなかったといったところだろうと、ひどく子供染みた甘え声の聞こえてくる受話器から少しく耳を遠ざけながらそう瀬田は推測し、あまり気乗りがしなかったので体よく断った。人の意を忖度する気などしかしまるでないらしい牧野は受話器の向こうから何度でも出てこいと言い、はじめのうちは婉曲にあしらっているも酔っ払いにはもひとつ効果なく、そのうち面倒臭くなってきていい加減な受け答えをしていると常にない怨めしそうな声色で懇願するに至り、その再三の誘いに根負けした恰好でつい行くと答えてしまうがそう答えてから後悔し、それでも行くと言ってしまった以上行かざるを得ず、ほかにすることもないのだからと自身に言い聞かせるようにして瀬田は出掛けたのだった。

タクシーで赴くが道が混んでいたせいで常なら三十分もあれば行けるところを五十分近くも掛かってしまい、嫌味のひとつも言われそうだといくらか慌てて乗り込むがそこに牧野の姿はなく、訊けばもう帰ったとのことだがそのまま踵を返すのも野暮ったいと瀬田はひとり杯を傾けることにした。呑むうちにしかし腹が立ってきて、無理やり呼びだしておいて先に帰るとはけしからん連絡くらいできるだろうとひとり息巻いていると女将に窘められ、たしかに腹を立ててもはじまらぬとそのまま腰を据えて呑みつづければ、べつに来たくて来たわけではないのだが牧野がいようといまいとそんなことはどうでもよく、いやむしろいないほうが好都合だし部屋にひとりでいたら鬱々と沈み込んでいただけだろうから、それから脱することはできないまでも気分よく眠りにつくことはできるかもしれないとそんなことを思ううちに牧野のことなど忘れてしまい、加えて翌日遅番だったこともあって深酒が過ぎ、いまいち酒の抜け切らぬまま瀬田は出勤したのだった。そのせいか事務所内の様子が常と異なるように思え、いやこれといっていつもと変わりはないのだがシフトにちょっとした狂いが生じたとかでどことなく騒然としているのが肌で感じられ、それにしては妙な雰囲気でたかがシフト変更くらいでいったいなぜそれほど騒いでいるのか、何かボロ儲けの話でも舞い込んできたのか、でなければ経営不振で傾いちゃったのか、零細だからあり得なくもない話で、再就職した会社が半年で潰れるてなことになったら笑うなと他人事のように考えながらそれとなく窺っていた。

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17

戻る 上へ  


コピーライト