友方=Hの垂れ流し ホーム

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一頻り観察して何か得るところがあったのか否か瀬田には分からないがその面持ちからどことなく疑念が晴れたようにも見受けられ、とはいえ関わりたくないから無視していると氷上を滑るような摺り足めく変な歩き方で瀬田のほうへ向かってきて、それでいて瀬田自身よく引っ掛けて躓く電源コードに足を取られることもないから不思議だが、その不可思議な動きに気を取られているうちに息の掛かるほどにも間近に接近していて、思わず身を引く瀬田の肩に湯之塚は手を掛け引き寄せるとひとつ頼まれてほしいことがありましてと低姿勢に切りだすが、ヤクザの頼みごとなど訊くまでもなく諾えぬからとにかく首を横に振れば湯之塚は同じ問いを同じ調子でくり返す。一度首を突っ込んでしまったら抜けだすことはやはり難しいのか。ズルズルと深みに填ってしまうほかないのか。終わるというのはつまりそういうことなのか。止め処もなく巡る思惟に終止符を打つかに詳しいことは言えないが来てもらえれば分かると湯之塚は微笑み掛け、穏やかな物言いのうちにも脅しめいたニュアンスの垣間見えるその態度に瀬田は怯み、急にそんなことを言われても困る「これから仕事だし」と拒絶すると「いやそれでしたらご心配なく」こちらが便宜を図るからとその組織力を誇示するように言い、それは尚困ると悲痛に瀬田が訴えると困りましたねと考え込むふうだが誘いに応じるわけにはいかぬから「仕事、ありますから」と冷淡に告げてその意志の変わらぬことを示すと、ゆったりと構えている湯之塚は窓の外を窺いながら瀬田のほうを見るような見ないような素振りで余裕の笑みを浮かべている。瞬間その笑みが翳ったと見えたのは外からの淡い光によるものかもしれぬが「いやね」と少しく言い澱みながらも瀬田のほうへ向き直るその顔からはたしかに笑みが消えていて、捕らえどころのない無表情になったかと思うと「いやね」と再度言ってまたちょっと口元が弛むがすぐに元の無表情に戻り、「いやね」と三度言って頭を掻きながら仕事は辞めたと聞いているが違うのかとそう湯之塚は言い、何を根拠にそんなことを言うのか分からぬが違うと答える瀬田の声はしかしどこか頼りない。そうですかと吐息混じりに呟くと、瀬田の不審げな視線を気にしてというよりはそのような素振りを仄見せながらたしかに急なことだからすぐには回答できなかろうと納得したように頷くと日を改めて出直すと告げ、何かあったらここへ連絡をくれと名刺をおいて帰っていったが、何があったとしても瀬田から連絡することはないだろうから名刺はその日のうちに捨ててしまった。はずの名刺を名刺入れに発見したのはそれから七日だか十日だかがすぎたころと思しく、うっかり拾って入れてしまったかと抜きだしてまた拾ってしまわぬよう細かく千切ったうえに燃やして捨てた。はずの名刺を名刺入れに発見することはだからもうなかった。

それから二ヶ月が過ぎても一度も姿を見せないし連絡もなく、もう来ないのかもしれないが忘れた頃に不意に現れるかもしれず、いやもう来ないだろうと瀬田は思い、いややはり来るに違いないとまた考えを翻し、でも来ないのだろうなといつまでも降り止まぬ雨を聴きながら生乾きのTシャツの腋に執拗にドライヤーを宛うが、丁寧に畳んで仕舞うともうほかにすることもなく、漫然と空腹になるのを待っているうちに寝てしまい、目醒めるといつものように窓際に陣取って外を眺める弥生の姿があり、浅く掛けたソファから瀬田はそれを眺めているが、いつから雨が降っているのか、そしていつまで降りつづけるのか、そんな愚にもつかぬことをぼんやりと考えながら弥生を眺めていると、瀬田の視線に気づいたかして弥生は首を九十度廻転させると心持ち眉を上に持ち上げながら「ん?」と鼻に掛かった艶めく声を出し、同じような問いを幾度したかしれないがこのときもやはり面白いのかとかそんなふうなことを瀬田が問えば、婉然たる微笑のうちに弥生はまた首を九十度廻して雨を見つめ、そうして何か呟くようだが雨音に紛れて瀬田の耳にまでは届かず、外からの薄い光に浮かびあがるなかばシルエットと化した弥生の姿を瀬田は見つめながら重ねて問うことをしないのは、その答えをすでに知っていると思うからだが、それにもかかわらず当の答えを瀬田は思いだせないのだった。

冷蔵庫の前で展開されるあらゆる事象についてぼんやりと思いを巡らせながら、それら互いに矛盾する事象が有機的に結びついたり離れたりするのをなかば楽しみつつなかば憤りつつなかば他人事のようになかば我事のように享受し、そのうちどれがあったことでどれがなかったことなのか瀬田にはもう判別することが困難だが、雨音に囲繞された自室の一メートル四方ほどのその狭くて広い空間が、それこそが自身の求めて已まないものなのに違いないと瀬田は思い、どうにかしてそこに自身の居場所を確保せんと試みるが入り込む余地はなさそうで、先客がすでにあって隙間もないとかそういうことではしかしなく、端から瀬田には無縁の領域といった趣でそれは確固たる世界を構築しているのらしく、そう思うのは端的に瀬田の浅慮にすぎぬかもしれないのだが自分にはもう為す術もないと項垂れるのだった。茫然と立ち尽くしたまま幾時間が過ぎるが感覚がバカになっているのか時間の経過をうまく把握できず、明るさというのか暗さというのかどっちつかずの淡い光のなかで敷居の僅かな出っ張りに微妙な均衡でぶら下がっているステン製ピンチハンガーに吊り下げられたTシャツの腋に瀬田は触れ、まだ湿っているそれをピンチから外すとその生乾きの腋に執拗にドライヤーを宛い、丁寧に畳んで仕舞うともうほかにすることもなく、漫然と空腹になるのを待っているうちに寝てしまうが夢のない眠りを眠って目醒めればまだ雨が降っていて、いったいいつまで降りつづけるのか、雨とは永遠の謂いではないかとそう瀬田は思いながら再び眠りに落ち、次に目醒めると部屋が妙に静かで、半身を起こして窺うにそれまでずっとしていた憂鬱な音が止んでいるということに気づき、そのせいか自身の立てる音が際立って聞こえるのを瀬田は訝しく思いながら物憂げに立ちあがると左足を軸に右足を踏みだして病者の足取りでカーペットの端のほつれたところまで行き、そこを丁度跨ぐようにして立つと一気にカーテンを引き開け、そうして窓の外を窺えばそこは目眩むほどの陽射しに溢れていて、今まで遮蔽されていた光のすべてが一遍に解放され照射されたとでもいうような大量の光を真面に受けて瀬田は何も見えなくなり、本当に何も見えないのだった。

そしてそれが私の死ぬ理由です。おそらく。

─了─

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