程なく蟹炒飯と餃子が届けられると香ばしい香りが一室に溢れたからさすがにそれを前にしては気まずかろうと思えば食事時に訪ねたことを詫びこそすれ帰る様子は微塵もなく、気にせず召し上がれと言われて食べぬわけにもいかないが、味もよく分からぬまま流し込めばもっとよく噛んで食べなければダメだとだしぬけに注意され、そんなことを言われるのは何年ぶりかと一瞬咀嚼が止まり、途端に異物めく口内のものをしばし持て余していたが相手の威圧的な視線にゴクリと喉を鳴らすと、噛めと言われても無意識に嚥下してしまうし唾液と混ざりあったペースト状の食物は何だか気持ち悪いのだと不平を漏らすが、弥生の食べているのを眺めるのは好きだから先に食べ終わっても退屈はしないと付言すれば、呆れたというように肩を竦める弥生だがそれでも根気よく注意しつづけたその甲斐はなく、大した時間稼ぎにもならないことを今さらながら悔やんでも仕方ない。その間湯之塚は窓際に立って外の様子を窺っていたが瀬田が食器を念入りに洗って戻ると室内に向き直り、といって座に着くわけでもなく探るように冷蔵庫の辺りを見つめて考え込むふうで、何を企んでいるのか知らぬがどうせ碌なことではないだろうから見ぬ振りすれば、誇示するように尚も見つめて已まないから長くなりそうだと瀬田は溜息をつく。それを合図のようにして瀬田のほうへ向き直るとひとつ訊いてもいいかと湯之塚は控えめに挙手するが、尚思案顔でなかなか切りださないから最後通牒かと瀬田の血の気は失せ、それを見てどことなく嬉しそうに頷く湯之塚は冷酷非道な殺人鬼とも見えて今にも懐から刃物が飛びだしそうだが、人の身を案ずる柔和な人物とも見えてモゾモゾと身じろぐ姿はその涼やかな顔立ちとも相俟って何とはなしに親しみを感じもし、斯かる混乱に陥りながら湯之塚の言葉を待つ瀬田にあの冷蔵庫はいつどこで手に入れたのかと湯之塚はそれを指差し、その指の指し示す先にあるものを探しあぐねるかに視線を泳がせる瀬田はなかば痴呆的な無表情で凝固したまま何も答えられず、その瀬田の反応というか無反応をニヤけた顔つきで湯之塚は見つめるが徐ろに居住まいを正すと不躾な質問をしたと詫びる。壊れ掛かった中古冷蔵庫に関心を示す湯之塚への不審は募るが瀬田自身の疑念なり関心なりとどこか通底しているようにも思えたからだろうか、直前まで感じていた湯之塚との無限とも思える隔たりがいくらか縮まったような気がし、それでも緩急を心得たそのやり口に一方ならぬ脅威を感じてはいて、少しずつ壁が崩されてゆくような、何かそんなふうな不安を瀬田は懐きはじめていた。
雨音がずっとしているのは降っているからだがそれが少し変だと気づき、いや、気づくというよりはうすうす感じていたことを今になって漸く認めたと言うべきだが妙に間近に聞こえるそれは屋外からのものとも思えず、どうかすると耳のなかで鳴っているようにも聞こえるから気圧の具合で耳まで変になったと声にならぬ吐息を瀬田が漏らすと直止みますよと湯之塚が答え、だといいけどと投げやりに呟く瀬田に止みますと湯之塚は断じるからなぜそう断言できるのかが分からず、とはいえそう言われるとそんな気がしないでもなく、いったいどれほど降りつづいているか知らないがこの異常とも言える雨続きに終わりがあるというならすぐにも終わってほしいところだと瀬田は思う。終わらせるのは簡単だがあまり唐突でも具合が悪いだろうしそれなりに準備も要るのだと湯之塚が水を差し、世界はそんなに単純にはできていないと諭すような口振りだが、何だか嫌な前振りだと不審げな眼差しを瀬田が向けると涼やかな笑みがそれを迎え、とにかく雨は直止みますと真っ直ぐに見つめてくるその眼差しをしかしどう解すればいいのか瀬田には分からず、どうもこうも見ての通り何も裏はないし恋する乙女のように真っ正直だと湯之塚は臆面もないが、恋する乙女が真っ正直かどうかは知らぬがそれを鵜呑みになどできるわけがない。
雨のせいで外からの光はあまりないものの窓際のカーペットのほつれたところを丁度跨ぐ恰好でこちらを向いて立つ湯之塚はなかば淡い光に包まれ、心地持ち右足に重心を置いて両手を前後に揺らしながら家捜しでもするように部屋のぐるりを見廻しているが、衣擦れの音と雨音とが不協和的に響いて瀬田の神経をそれは刺し、その反応を窺いつつ尚も何かを探す様子の湯之塚だが徐ろに頷くとキッチンのほうへ行き、小声に呟いては冷蔵庫の扉を開閉させながら何やら様子を窺うのだったが、人の生活を覗き見る厚かましい態度に瀬田は不快を示したもののそれが向こうの手かもしれないとしばらく成りゆきを見守っていた。何か発見したのか湯之塚は不思議そうに首を傾げると瀬田を手招いて「ほらここです、この辺り」と冷蔵庫の前を指し示し、何か匂わないかと言うのだが人んちの匂いは嗅ぎ分けられても自分ちの匂いには気づかぬものだから何の匂いも瀬田には感じられず、それに得てしてヤクザは根拠のない言い掛かりをつけるものだから迂闊に話に乗ったらまた何か酷い目に遭うと警戒を強くすると、それを察したのかしてそれ以上突っ込んだことは聞いてこないが微かに花の匂いがするというようなことを呟いて尚幾許か観察していた。