雨足が強くなったらしくその音が一室に満ちたため語尾はなかば掻き消されるが、そちらのほうへと意識が振り向けられたらしく雨が降っていると言い、次いでその様子が眼に見えるようだと重ねるのに瀬田が曖昧な返答を返すとちょっと不服そうに首を捻り、徐ろにキッチンのほうへ行ってほらここ、この位置が尤もよくそれを感じられると冷蔵庫の前辺りに立って何かに耳を澄ませる仕草をしてみせるが、巧く調子を合わせることもできずにただ茫と突っ立って瀬田は見ていた、まるで宇宙と交感でもするかのような弥生の姿を。いや、実際宇宙と交感していたのかもしれず、そうではないと断言できる保証はどこにもないのだからそうなのだとここは見做しておいたほうがよくはないかと瀬田は考えるものの、そう見做すことをためらってしまうそれが自分と弥生との違いなのだとある種の諦念とともに理解する。とにかく切れ切れな記憶のうちで弥生に関するそれが最も新しいものなのだが、その最後のところがいまいちよく思いだせず、急に舞台が暗転するような感じでザックリ削ぎ落とされていて巧いこと次のシーンと繋がらず、そのため全体リアリティーに欠ける半端な作り物のように感じるのだった。いや、実際作り物に違いないのだが何もかもが雨のなかに溶解して自身の理解の及ばぬところへ行ってしまい、どうにも腑に落ちないと瀬田はその穴を埋めるべくあれこれ手を尽くすが悉く失敗に終わって修復の不可能を今さらながら痛感し、そんな昔のことはもうどうだっていいではないかと思う一方でそれこそが重要なのだとも瀬田は思うのだ。雨が止まないのも洗濯物が全然乾かないのもそこで何かが変わってしまったからなのらしいと生乾きのTシャツの腋にドライヤーを当てながら瀬田は思いもするのだが、瀬田にはその変容が変容として理解されていないから今も尚こうしてドライヤーを使うほかなく、雨のなか出勤しては帰宅するということをくり返すほかないのだと折に触れ思うのだった。とはいえそんなことを言うつもりは全然なかったのだが洗い浚いぶちまけていて、寝惚けているのか大分箍が弛んでいると反省するものの一旦喋りだしたらそう簡単には留め得ず、さらには神妙な面持ちで耳を傾ける牧野の聞き役として誠実な対応に口は軽くなる一方でずいぶん長いこと喋りつづけていたらしく、そのうち話し疲れて寝てしまったらしいが目醒めれば牧野の姿はなく、ソファで寝てしまったからだろう体の節々が傷み、いまいちアルコールも抜けていないから常にも増して電車の揺れが堪え、線路の継ぎ目を車輪が通過する際の振動が頭蓋にまで響くようだし幾度も隣の男にぶち当たってそのたび半身を預ける恰好になるしで降りるまでに瀬田はかなりの体力を消耗してしまうが、その間ずっと前夜のことを反芻していたのは要らぬことまで喋ってしまったような気がしたからで、弥生に関係した事柄にそれはほかならないが牧野に知られたからとて困ることもないとは思うものの気掛かりといえば気掛かりなのだった。
何が気掛かりといって牧野が弥生のことに言及したということほど気掛かりなことはなく、ほかにも気になる点はいくつかあるがそれに最も瀬田は気を揉み、自身の告白めいた話を受けてのことだから疑問がないわけではないが、それでも検討には値するとそれについて瀬田は考える。というより否応なしにそれへと思惟は向かってしまい、弥生さんには気の毒なことをしたとたしか牧野は言っていたが、そのあとを濁して言わないからその思わせぶりがひどく気になり、いったい弥生に何をしたというのか事と次第によっては只では済まないとちょっと凄んでみせると、べつに何もしてはいないが巻き添えを食わせて済まないとは思っていると畏まった面持ちになり、それにちょっと頼まれたことがあってねと次いで牧野は卑屈な笑みを浮かべるが、頼まれごととは何かと問えば「それは言えない」と口を閉ざし、ただ瀬田のことを気に掛けているようではあったと言うのだった。とはいえ牧野が弥生と顔見知りだということが抑もあり得ず、可能性としてそれがゼロでないことは認めるとしても実際的にはあり得ないわけで、斯かるご都合主義を認めるわけにはだからいかないと瀬田は車窓の向こうに紗幕のように拡がる雨を睨めつけ、つまりこれは夢の領域の出来事にほかならず、端的に巻き添えとの言葉がそれを示しているとそう瀬田は考え、そのように見做すことでしかしまたべつの可能性も開けてくると次いでそれへ向けて思惟を拡げるが、キリもなく拡がるようで手に負えぬとすぐ投げた。あとはもう雨を見るでもなく揺れに抗うでもなく朝のラッシュの責め苦に耐えているだけだった、モヤモヤした重苦しい温気に吐き気を催しつつ。そうして気がつけば降りつづく雨をまた眺めているがもう幾度も反芻したことを瀬田はいつまでも反芻して已まず、それはいつまでも雨が降りつづけるからに違いないとすべてを雨のせいにして尚も反芻しつづけ、弥生もこうして何かを反芻していたのだろうかと飽きもせず同じことを考えるが深く考えているのでは全然なく、ただ漠然と意識しているだけなのだがどうにもそれから逃れられず、だからそれは雨のせいだと深い溜息とともに首を巡らしてキッチンのほうを窺えば何だか冷蔵庫の前辺りが常と異なる雰囲気で、朝から妙に落ち着かないのもそのせいかもしれないがそんなことはもう幾度も経験済みのことだからさして期待することもなく、それでもやはりいくらかは期待して冷蔵庫の前に瀬田は躄り寄ってゆくが、やはりそこは常と変わらぬ佇まいのあり触れた空間にすぎないのだった。
その日もだから雨だった。いや、朝のうち少し日差しが覗いたようだがすぐに翳って午後には降りだし、瀬田が起きたときにはすでに雨音に支配されていて、それでも常なら雨の降るのをぼんやり眺めて一日は終わるのだがこのときばかりはなぜかそれが疎ましく、薄暗い一室に逼塞するように縮こまってどこにも身の置きどころがないような居心地の悪さを噛みしめていた。というか噛みきれずに足掻いていた。いや、足掻くことにさえなかば飽いて足掻く素振りにそれはすぎなかった。たしか部屋の明かりをつけたころと瀬田は記憶するが耳を聾するほどの轟音が響き、雨足が強くなったらしいが居心地悪いのは空腹のせいだと夕飯の買いだしに出掛けようとしていた矢先のことだからその雨のなかを出掛ける気は忽ち失せてしまい、何か取って済まそうと上げた腰をまた下ろすと、寿司かそばかで十分ほど悩むが最終的にそのいずれをも排して中華と決め、気が変わらぬうちにと受話器を取って蟹炒飯と餃子を頼むと、電話してから五分も経たぬうちにチャイムが鳴ったから慌て、とはいえ早いに越したことはないと財布を掴むとドアの向こうに立っていたのは出前の人ではなく湯之塚だった。その予期せぬ来訪に瀬田は戸惑い、口封じにでも来たのか、露見したら命はないと言っていたそれを実行するために来たのかと考えるがどこから露見したのかが分からず、というのも瀬田は誰にも何も話していないからだがヤクザならそれをでっち上げるくらいはやりかねないとちょっと身構えると、何か凄むような勢いでぐいと顔を近づけてきた湯之塚は「先日のお礼に伺いました」とにこやかに挨拶し、迷惑なのは承知しているがそれではこちらの気が済まないのだと畏まって深々頭を下げたりするから却って気味が悪く、それでも礼と聞いていくらか瀬田は安堵し、しかしすぐに果たして礼だけで引き取ってくれるのかと疑念が兆してそう易々と引き下がる手合いとも思えぬと警戒すると、案の定きちんと挨拶したいから上がらせてもらえないかと菓子折りらしい紙袋をチラつかせて低姿勢ながら威圧的に迫るそれはもうヤクザの手口にほかならず、礼など要らぬから帰ってくれとキッパリ断ることはしかし難しく、それを言わせぬ凄みが湯之塚にはあるのだった。しかも涼しげな笑みを満面に浮かべてのことだから尚さらで、恐怖に竦みあがるとはこのことかと改めて瀬田は思うのだった。