床を踏み抜くこともなく入口まで戻った瀬田は一旦そこで立ち止まり、ゆっくりと土間へ降りながら開け放たれたままの扉の向こうに眼を凝らす。暗い闇の向こうに人の気配を感じたからで、警戒しつつ扉のほうへ近づく瀬田の前に至極穏やかな笑みとともに現れたのは白スーツの二枚目で、安堵とも驚きともつかぬ力ない声を瀬田が漏らすと、二枚目は表のほうを顧みつつ外はもうかなり暗いし道なき道を明かりもなしに行くのは危険窮まりないとその暴挙を窘(たしな)め、況してこの辺りの地盤は脆いらしいから地滑りや土砂崩れの危険もないとは言えないと真しやかに言う。風が出てきたらしく開け放たれた扉が苦しげに軋み、その背後で木立の葉擦れが騒がしく、さらに建物全体が嫌な音を立てはじめ、そうなると二枚目の諫言に一層真実味が増してくるようだしさっきまでの決意も忽ち揺らいでしまうが、尚残る二枚目への疑心からまだ瀬田は帰るつもりでいて、ただその前にひとつ訊いておきたいことがあると恐々問えば、よくぞ訊いてくれたというような満面の笑みで「オレ? オレは湯之塚だ」と廊下の奥を顎で示しつつあいつに殺されたことになってる湯之塚だと目元の涼しげな二枚目は言い、次いで殺害の経緯について問われもしないのに喋りだす。
酒の席で何かえらく憤慨した様子で誰彼構わず当たり散らしているヤツがいると気づいたが奥のボックスで飲んでいたせいで様子を窺いつつも放置していて、それがいつまで経っても静かにならないし女将も手を拱(こまね)いている様子で縋るような視線をこちらへ送るふうだったから、日頃から世話になっていることもあり出ていって丁重に注意したのだが逆ギレされ、こちらは穏便に済ませたかったが向こうが引き下がらず、店もほかの客もひどく迷惑していたから表へ連れだして「教え諭したわけよ、いろいろとね」それなのに何だかんだと難癖をつけてくる質の悪さにいい加減腹が立ち、ちょっと脅しを掛ければ大人しくなるだろうと痛めつけたら決死の形相で反撃してきたからこちらも油断できなくなり、しかも思いのほか豪腕で組み敷かれそうになったから本気にならざるを得ず、揉み合ううちにそういうことになってしまったのだと二枚目はちょっと肩を竦める。それはいつのことだと瀬田が問えば事故に遭ったというその日のことだと二枚目は言い、行き掛かり上のことで他意はなかったし降り掛かってきた火の粉を払っただけだから「まあ、正当防衛でしょう」と妙に人懐こい笑みを浮かべるが、そんなことが同意できるはずもなく、些か常軌を逸したしかしヤクザな商売としてはそれが正道なのかもしれぬ二枚目の挙措に瀬田はむっつりと黙り込んだまま警戒を強めてゆくが、湯之塚と名乗るその男は瀬田の警戒など知らぬげに無防備な身ごなしである種のヤクザに特有のヤクザらしからぬ邪気なさげな笑みとともにゆっくりと近づいてくる。風が鳴り建物が悲鳴をあげるなかで男の迫力は弥増しに増してゆき、それを目の前にして言葉を失った瀬田はもはや脱する機を逸してしまったかもしれないと覚悟というよりは諦念とともに湯之塚を見つめ返すと、柔和な笑みで応えつつ湯之塚は瀬田の横に並び立ち、ピッタリと身を寄せてその肩に腕を廻し、馴れ馴れしく撫でさすりながらちょっと手伝ってくれないかと言う。人手が足りなくて困っていたところだからお宅が来てくれて「ホント、助かったよ」とひどく嬉しそうに相好を崩す湯之塚は最初から選択の余地を与える気などないらしく、茫然と佇む瀬田の顔を間近に覗き込むと手間は取らせないから心配しなさんなと肩をひとつ叩くが、諾否が問題とされぬそれは命令にほかならず、そうかといって斯かる状況下でそれに従う義理はないと突っ跳ねるだけの潔さを求めることは誰にとっても困難なことで、当然のごとく瀬田もそれから免れることができずに俯いたまま視線を逸らして否とも応とも答え得なかった。沈黙=快諾とでもいうかにこれから取り掛かる作業の概要を口早に告げる湯之塚のその口元を瀬田はぼんやりと見つめながら告げられたその内容を自身の口の中で反芻するとともにその意味するところを理解するに至るが、いや、そんなまどろこしい手続きを要せずとも湯之塚が最初に手伝ってくれと言った時点ですでにその予感はあったはずだが、そうであってほしくないとの強烈な思いが事柄の理解を妨げていたのでもあるらしく、だしぬけに現れた禍々しい物の怪か何かのように瀬田は面食らってしまうのだった。
とはいえ死体遺棄の片棒を担ぐなどできない相談で、その恐ろしさに首を横に振れば心底驚いたという面持ちで違う違うと湯之塚は瀬田にも増して首を打ち振り、死体遺棄だなんて人聞きの悪い「埋葬だよ、ま・い・そ・う」と戯けるが、法的に認められぬそれを死体遺棄というのではないかとそんな常識を持ちだして論(あげつら)ったところで通じる手合いとも思えぬから物憂げな溜息をひとつ漏らしただけで瀬田が反論を控えると、同意とそれを見做すかに笑ましげに頷いてその翻意を封じるかに湯之塚は滔々と弁じ立てるのだった。とりあえず人目を避けるためにここへ運び込んだのだが廃屋といっても人跡未踏の僻地ではないのだから万全を期す意味でもきちんと始末せねばならず、抑も瀬田が時間に間に合ってさえいればこんなことにはならずに済んだわけだから少しくらい協力したって罰は当たらないと妙な理屈を捏ねるが、瀬田が不快に顔を顰めるとお宅を非難するつもりはないと湯之塚は低姿勢になり、とはいえ言葉や態度の端々にそれはあきらかだった。
退路を断たれた感が強く意識されるなか瀬田はそのまま湯之塚に背押されて軋む廊下をまた死臭漂う一室へ戻った、というか連れ戻され、そこにはさっきと同じ恰好で仰向けに転がっているそれがまだあるが、積み重ねられた事務机が吹き込む風に軋んでいて、それらが倒れてくれば確実に下敷きになる位置にそれはあるのだが湯之塚は気に掛ける様子もなく、まだまだ遊びたりないとでもいうようにそれを足蹴にしつつ「ホトケさん粗末にしちゃ罰当たるよ、手篤く葬ってやんなきゃね」と無邪気に笑っているが、地獄行きよりほかにあるはずもないヤクザが今さら何をしたって無意味だと言ったところで仕方なく、その言葉を呑み込んだ瀬田は湯之塚からも死体からも距離を置くようにドア前から離れず、結露した壁面にはしかし触れないように立っている。湯之塚の説明によれば防水のためビニールシートに包(くる)んでガムテでしっかりと固定し、車のトランクに積み込むということだが、作業はたったそれだけのことで切り刻んだりするわけでも血糊を掃除するわけでもなかったからいくらか瀬田は安堵する。車を停めてある場所までちょっと距離があるらしく、そこまでずっと上り勾配だし「あの雨でしょ、さすがにひとりじゃ手に負えなくてね」と困惑顔の湯之塚はずっと雨の止むのを待っていたということだが、止みそうにないし腐敗してくるしで「ホント助かったよ」と頻りと頭を下げ、とはいえ感謝されるほどのことはしていないし感謝されたくもないし、何よりこれ以上関わりあいにもなりたくないからさっさと済ませてしまいたいと少しく苛立ちをあらわにすると、搬送作業はやはり夜陰に乗じて行うのがいいだろうから深夜になるまで待つよう言われ、それでは話が違うとごねると一旦引き受けた以上は責任持って果たしてくれなきゃ困ると湯之塚はちょっと凄んでみせる。それでも汚れ仕事までさせるわけにはいかないからと気さくさを装いつつほとんどひとりで湯之塚は梱包を済ませ、万事手際よく作業して瀬田の出る幕はないが、そのほうがむしろよかった。手慣れたこととでもいうかに終始機嫌よく鼻歌など口ずさんでいる湯之塚は緊張した様子もなく、斯かる無警戒に瀬田の緊張は弥増すばかりだがチラチラと瀬田のほうを窺う様子はそれを楽しんでもいるかのようだった。