尚しばらく瀬田はその場に立ち尽していたが解放されたという確かな手応えはなく、何か悪さをして立たされた子供のようにもういいと声の掛かるのを待つかに何かを待ちつづけ、それからどれほどの時間が経過したか定かじゃないが恐怖ではなく寒さで震えているのに気づいて歩きだす端緒を掴み、ようやく自身の車へ瀬田は乗り込んだが本当に解放されたのだという実感はやはりなく、というのも瀬田が車から降りる直前にこのことはくれぐれもご内密にと人差し指を口に当てた湯之塚がもしバレたら命の保証はできなくなるとヤクザらしく脅しを掛けることも忘れてはいなかったからだ。あのやばい荷物はどこかべつの山中に棄てるのか海中深く沈めるのかそれは知らぬが、その辺は抜かりなくプロの手際で葬り去るに違いなかろうから瀬田が気に病むことではなかったが、それがいつ自分に降り掛かってこないともかぎらないしその可能性は否定し得ず、そうとすればすべてを終わったこととして済ますことは到底できなかろうはずで、ではどうすれば終わりが訪れるのだろうかと夜の高速を直走りながら考えるが答えは出ない。終わりはない。終わりなどないのだった。
とはいえ長時間雨に当たっていたせいで熱を出し、それでも七度くらいなら騙し騙しやり過ごすこともできようが九度近くにもなると立っているだけで眩暈がし、已むなく二日ほど自室の蒲団で縮こまっていたが、そう何日も休んではいられないと薬で熱を下げて出勤すれば、病みあがりのうえに夜勤だったからひどく堪えたし熱も下がらず、持ち直すまでの幾日かの勤務状態はひどいもので茫と雨を眺めるどころではなく、意識朦朧たる状態だったから事故を起こさなかったのが不思議なくらいだ。いや、それは瀬田が知らぬだけなのかもしれず、牧野のことにしても本当のところ何があったのかまるで分からないのだから事故のひとつやふたつ起こして当然だろうと瀬田は思い、そうとすればあり得べき事態に備えて心構えをしておくに越したことはないと考え得る惨事を思い描くが、あまりに途轍もない大惨事を思い描いてしまって却ってひどく落ち込んでしまい、あるいはこんなふうにして弥生もフェイドアウトしてしまったのだろうかとふと考え、そのあとにつづけと思うわけではないもののいずれはそこへ流されてゆくのかもしれぬと漠然とながら考え、とはいえそれを待ち望んでいるのかいないのか瀬田自身にも判然としないのだった。そんなふうにしてなし崩しに落ち込んでゆきながら時折それに抗うかに無理にも強く靴音を響かせて離脱を試みもするがその響きに陶然となることも最早なく、却って耳障りなばかりか頭蓋をも締めつけるようで、看守というより囚人になってしまったように無人の廊下を項垂れ歩くことしかできず、そうなると靴音は濁ってしまってノイズ混じりの不快な響きをしか発しないし勢いを増す雨音に掻き消されもし、これでは囚人どころか亡霊だと鏡面に映った自身の姿を見て笑うに笑えないが、あるいは本当に亡霊になってしまったのかもしれないと瀬田は思い、そうとすれば死んだのは牧野ではなく瀬田にほかならず、夜な夜な無人のビルを彷徨っているという月並みな怪談話に堕してしまうがそれを一笑に付すこともできないのは、巡回しているのか彷徨っているのか自身にも見極められなくなっているからなのだった。瀬田が思う以上に周囲はそれを危険視し、いつまでも鬱ぎ込んでいたら仕事に差し障ると梶木に叱責されもするが、それから離脱することの困難を思うと投げやりにもなり、いや、投げやりなのは元からだがその深度において断然増していて、離脱する意志は日毎に薄れてゆくようだったが、いずれにしろゴミはゴミらしく廃棄されるべきだと常から自身をそのように規定してきた瀬田にしてみればいよいよその時が来たのだと何の感慨もなく思うだけだった。そうして雨を見ていた。
窓の外を細かい雨が降っている。右上から左下へと走る斜めの線となって雨は落ちてくる。その雨を瀬田は見ている。雨に濡れたビル壁面の黒を背景に白い筋となって浮かびあがる雨を瀬田は見ている。風はなく辺りはひっそりとして降る雨の音よりほかには何も聞こえない。いや、低く唸る冷蔵庫のモーターの音が雨音に紛れるようにあり、不意に唸りだすかと思えば不意に鳴り止むその不規則な、しかしそれ自身においては作動と停止のくり返しにすぎぬ制御された動作に何かしら不可思議な様相を瀬田は感じ、弥生の言っていたそれが雨と冷蔵庫との秘めやかな関係なのだろうかとその秘密の一端を垣間見たような気がし、とはいえそれは何ら実感の伴わぬ想像にすぎず、そんなありもせぬ関係を仮構してそれに託(かこつ)けるように自身の鬱屈やら煩悶やらを押し込めてやりすごそうとしているだけなのだった。いずれ破綻すると分かっていても安きに流れる己のダメさ加減をある種の余裕とともに嗤っていられたのはもうずいぶんと前のことで、今はそんな余裕も余裕振ってみせる自尊心も残ってはいないらしく栓を抜かれたバスタブから湯が流れてゆくように恰もそれが自明であるかのように瀬田は堕ちてゆき、とはいえ端的に堕落しているだけでそれに酔い痴れているわけでも本当に堕ちゆくところまで堕ちてゆきたいとすべてを投げてしまったわけでもなく、いや、実はそうなのかもしれないがその自覚は瀬田になく、それでもすべてにおいてやる気のない鬱状態なのに変わりはないし無心に雨を眺めることにすら何かしら後ろめたい思いがつき纏うのだった。
斯かるネガティブ思考の深みに填ってしまうのもアルコールのせいとばかりは言えないがそれが拍車を掛けていることはたしかで、それほど飲んだわけではないにしろ頬の火照りと動悸の激しさから相応に酔いは廻ってもいて、以前に較べて廻りが早いというか分解能の衰えていることを改めて実感した瀬田は帰ろうかどうか思案するが、ふと隣に人の動く気配を感じ、仄暗い間接照明の加減でよくは見定められぬながら猫背の背中が貧乏たらしくいくらかこちらを向いているそれはたしかに牧野に違いなく、訝しげに見つめる瀬田の視線に同様な訝しい眼つきを返すとまだ宵の口だと言うかに手にしたグラスを一息に呷るが、見たところ幽霊染みた蒼白な顔色というのでもないし禍々しい雰囲気を醸しだしているわけでもなく至って普通の装いだったから瀬田はさして驚きもせず、とはいえそれが凡そ現実からかけ離れた存在なのには変わりないから瀬田の視線は何かを捉えることを頑なに拒むかに目の前のグラスに固定されて動かない。干されたグラスにはいつの間にか泡立つ琥珀色の液体が満ちていて、それを呷る牧野の動きはさっきと変わらず、再びコースターに戻し置かれたグラスにはやはり泡立つ液体が琥珀色に輝き、巻き戻しと再生をくり返すビデオというか何度でも決定的瞬間を流すそれはテレビのようで同じ場面を見せられているように瀬田は感じるが、なかば酔いのせいと見做しながらもループ状に閉じた時間を演出してみせる牧野の尋常とも思えぬ意図をそこに読みとって背筋に悪寒が走る。