友方=Hの垂れ流し ホーム

戻る  次ページ

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16

16

二度読み返して削除した佐脇のメールの内容がどのようなものだったかを思い返そうとするが巧くゆかず、端的にそれは主旨の不明瞭によるのだが、殊更気に掛けることでもないと削除したのだから思い返さないでもいいわけで、それなのに斯かる些細なことどうでもよいことがむしろ気になるらしく、通勤の折に仕事の合間に食後の寛ぎの際に深々と湯船に浸かっているときに不意と過ぎったりするから何か重要な情報でも隠されてあるのかと、そんなことはあり得ないのにそう考えてしまい、何より佐脇にそのような巧妙な仕掛けを仕込むだけのスキルはないと思われ、それとも見くびりすぎていたのだろうか、あるいは不在の間にそうしたスキルを身につけた可能性も否定できないが何と言っても佐脇は佐脇にしかすぎず、佐脇ごときに何ができるのか、頭(こうべ)を垂れて詫びることくらいがせいぜいではないかとそう弥生は思い、その姿を想像してほんの少し気が紛れるが、全体佐脇は何を詫びていたのだろうか、詫びるからには何か相応の不始末を仕出かしたことはたしからしいが、あるいはただ叱られたいだけなのかもしれず、換言すれば叱ってやりたい弥生のツボを刺戟するそれは佐脇なりの配慮とも見做せ、そうとすれば大いに叱ってやらねばならないし叱ってやりたいし叱ってやるに違いなく、どう叱ってやろうかと思案するうちネガティヴになっていた気分がいくらか上向きに修正され、常の低空飛行へ僅かながら復してきているとも実感され、予断は許さぬながらも胸を撫で下ろし、それで仕事が捗るわけじゃないが、いやむしろ滞り、どうにか片づけて会社をあとにしたときにはすでに三十分近く遅れていて、それでも遅れる旨メールはしたし常の佐脇なら間違っても帰ることはないだろうから慌てずにゆこう、いっそ焦らしに焦らしてやろうと思いつつ気は逸り、都合四十分ほどの遅れだろうか、ゆっくりと、早足に、探り当て、席に着くと、目の前で、眉を顰めて不貞腐れたように遅いよと佐脇は零し、遅いなどと文句を垂れるなんて十年早いといった言葉はしかしなく、無視してじっと見据えれば、殊更変わった様子はなく、いやどことなく憮然としたその面持ちに尊大さが滲出しているらしくも見え、いや、そうではなく、ほんのわずか身を低くしているのは弥生のほうで、陰翳の際立つ互いの顔が仄暗い間接照明に斜交いに浮かびあがるが、交差する視線は微妙にズレて重なり合わず、そのズレに限界を感じてととりあえずは見做せるが実際のところはどうだか、ただの口実にすぎないとも言えるわけだが、とにかく裏返るのは私ではなくお前だと弥生は佐脇を裏返しに掛かり、戸惑いを隠せぬ佐脇の胸ぐらを掴んで自身のほうへ引き寄せると、引き攣った笑みで何か誤解していると佐脇は弁明するが、それでも裏返してやるのだと構えていると本気だと知って怖じ気づいたのかわけも分からず詫びを乞い、謝れば許してもらえると思っているその根性がムカつくのだと容赦なく裏返してやるが、裏返すのに一秒もかからず、速さが問題ではなかろうが自身の手捌きに少しく満足し、まだ事態を十全に理解していない様子の佐脇は惚けたように坐り込んで尚も詫びを呟いていて、額に汗を滲ませ、焦点の定まらぬ視線は卓上を泳ぎ、弥生のほうを見ることはしかしなく、そんな佐脇に一瞥をくれると何か一言言おうとするが言うべきことは何もなく、つまり自身の行為によってすでに言い尽されているというわけで、蔑みとも憐れみともつかぬ笑みが口の端に浮かび、いや蔑みでも憐れみでもそれはあるらしく、伝票を掴みとるとそのまま席を離れるが、それにも気づかぬ様子でひとりブツブツと呟く佐脇は不意に何かを思いだしたように立ちあがり、警戒するような視線を四囲に巡らすと力なく頽れ、またブツブツと呟き、店内の低いざわめきのなかそれが際立って聞こえるがもう関係ないとばかりに店をあとにしてゴミゴミした雑踏のなかを掻き分けてゆくが、常なら気にも留めない四囲を行き交うものが妙に眼につき、ざっと一瞥しただけなのだが裏返っているヤツとそうでないヤツとを容易に見分けられ、べつにそれを見分けられたからとてどうということはないが裏返っているヤツが予想以上に多いのにはちょっと驚き、そのことに妙な感慨を覚えなくもないがそれだけあり触れたことだとも言えるわけで、そうとすれば特筆すべき事柄でもないのだと変に納得してしまうが、晴れやかさとはどこか無縁の、それでいて胸の透くような思いとでも言えばいいのか、何かそんなふうな感慨を懐きながら、さてこれからどうしようかとケータイを取りだすが、余ほど電波状況が悪いのかどこへ掛けても繋がらないから仕方なく帰途に就くことにし、買い物して帰ろうかとも思ったがやめにしたのは歩いていたら右頬に雨滴が一粒落ちてきたからで、指先で拭いとるとさらに一粒落ち、それを拭ってもまた一粒落ち、つと振り仰いだ上方からはさらにいくつもの雨滴が弥生目掛けて落ちてきたからもう拭うことはやめて、ポツリポツリ落ちてくる小粒な雨に打たれながらターミナルへ向かって歩いてゆくが、脇の側溝が前にも増して勢いよく流れているのを見てとるとそっちのほうへ引き寄せられそうになり、危ないと反対側へ逃れてもやはり側溝で、道幅は充分な広さがあるものの増水した川のような勢いにいくらか腰が引け、そうして濡れた路面に気をつけながら慎重な足どりで石畳を踏み締めてゆくが前あった屋根はなくなっていて、撤去されたのか、あるいは前のとはべつの通りかもしれず、雨はだから避けられないが大した降りじゃないから苦にならないし程もなく上がったからその心配もなくなり、といってひとつの心配が解消されてもまたべつの心配が降り注がれるのは道理で、雨に代わって次には風が行く手を遮り、台風並みの強風ではないもののそこそこの激しさで吹き荒れるから歩行はひどく困難で、いや強ち風のせいとばかりは言えず、地に足の着かないフワフワした感覚のうちにしばらく前から囚われてもいたからで、そうした内的な不安定と外的な不安定とに交々気を揉みながら歩いていたわけだが、不意に突風が吹き、足許から突き上げるようなその強烈な一吹きに煽られた弥生は二、三歩よろめき、バランスを崩したところを第二波が襲ってきて濡れた路面に足を滑らせ、薄暗い空を流れゆく雲が視野一杯に拡がったかと思うと不意に視界が閉ざされて呼吸が困難になり、つまり側溝へ落ちたのらしく、しばらく藻掻き苦しむがすぐに水面へ浮かび上がったので呼吸はできるようになり、水を飲まなかったのが幸いだがどうしようと焦り、とにかく岸へ上がらねばと泳ごうとするが思うように泳げず、流れが速いこともあるが水の粘度が高いらしくて真面に水を掻くことができないからで、鉛のように重い水を懸命に掻いてもみるが着衣のこともあって尚さら泳ぎは困難を極め、元もと泳ぎに堪能ではなく、泳げないわけではないが息継ぎが巧くできないので二五メートルが精一杯だから下手に抵抗しても体力を消耗するだけだと弥生は流れに身を任せるが、さてどこへ流されてゆくのか、とそうした不安もないではないが同じように突風にやられたのだろう、流れにプカプカ浮いている人らがいて、弥生同様流されるに任せているらしく鷹揚に構えているから殊更騒ぎ立てることでもないのかもしれず、つまりこの一連の出来事それ自体があり触れたことなのだ日常なのだ月水金は燃えるゴミの日というのと同様日々にくり返されることなのだ毎週土曜はカレー曜日というのに等しいのだと納得し、納得しながらもしかしどこか腑に落ちず、腑に落ちぬながらもやはり納得してしまい、それでもなんだか腑に落ちないといった具合に循環しつづけ、流れに逆らわず身を任せているようにそうした循環にもなかば身を任せて納得したり腑に落ちなかったりを交々抱えながら改めて流されてゆく人らに視線を巡らせれば、皆どこか虚ろな表情をしているがよくよく見ると裏返されたヤツばかりで、どこに出しても恥ずかしくない表と違って裏というのは安定を欠き、それのため風に飛ばされやすくなるのかもしれないが、そうとすればやはり自分も裏返されていたのかとそのことに思い至り、そうして濁流をかなりの速度で流されながらどうやって家へ帰ったものか思案するが、このまま流されてターミナルへ行ったとしてバスに乗る方途が分からず、明日も仕事なのに帰れなかったらどうしよう、丸尾は無事帰れただろうか、それとも自分と同じように流されているのだろうか、泳ぎは達者だろうか溺れちゃいないだろうか、いや人のことより自分のことだと比較的冷静に考えているつもりだが思考はとりとめもなく巡り、巡り巡ってどことも知れぬところへ流されてしまうのだろうか、漂着したそこは誰もいない廃墟の街で、日も射さぬ薄闇のなかウロウロと彷徨ううちに出会すのは異形のゾンビばかりで、つまりは自身もその仲間というわけで、そうしてもはや甘いヴァニラの香りとは無縁の腐敗臭を放ちながら朽ち腐れてゆくのだろうか、それでもウロウロと廃墟を彷徨い歩くのだろうか、流れは徐々に速くなってゆくようだからそう簡単には岸に上がれまいとなかば諦念に浸されるが、そうした諦念の捉える空は寒々しいというか、空虚に拡がりゆくばかりで星もなく、斯かる単調な眺めにはうんざりだが、薄暗いばかりで星のないそこにキラキラと煌めく光の粒があり、風に飛ばされているのか自ら飛んでいるのか判然としないが紙吹雪めいた細かな粒々の輝く様子は相変わらず綺麗で、昼とも夜ともつかぬ灰色の天蓋に拡がるその煌びやかな明滅に見蕩れてしまうが、そうした綺麗さとは裏腹に何か物騒なことをそれらは叫んでいて、いや物騒といってヤクザの脅しほどにも肝を冷やすものではないが、その実それ以上に決定的な死刑宣告なのかもしれないのだが、表向きただ裏返してやったと叫んでいるだけだから聞き流すこともでき、いや聞き流しているつもりがいつしか耳はそれを追い、意味のよく分からぬ外国語をヒアリングでもするような具合に集中してしまうが、裏返してやった裏返してやったという驚喜の、というよりは狂気めく叫びは風に乗って四方から、いやずいぶんと近いところから聞こえると訝れば流されている人らが叫んでいるらしく、いいように踊らされているとなかば嘲笑気味に眺めやれば同様な視線が返ってきて、それで当の自分もそれを叫んでいることに気づき、人のことは笑えぬと自嘲的な笑みを洩らすが尚叫びを叫びつづけ、そうすることが必然でもあるかのように皆で合唱しているのだったが、合唱とは言うものの互いに息を合わせているわけではなく各自勝手に叫んでいるだけで、それなのにリズムなりテンポなりは僅かなズレを含みつつも不思議と一致しているから何か外的な作用を疑い、だからそんなふうに叫ぶことが心地いいわけでは全然なく、いや少しくらいは爽快と言えるかもしれないが、半分叫ばされているようなものだからウザいというのが正直なところで、それでも抵抗する意思は懐く傍から摘みとられてしまい、ウザいと思いつつも声高に叫んでいて、灰色の空に鳴り響くそれはやはりどこか不気味だが、例えばスポーツに汗を流す類いの爽やかな気分とでもいうようなものが、その不気味さに寄り添うようにあるような気が、すると言えばするし、しないと言えばしないのだが、ふと匂い立つようで、濃厚なヴァニラの香りのうちにそれはしかし忽ち紛れてしまって見極めがたく、さらには腐敗臭まで漂いはじめたために嗅ぎ分けることは尚さら困難を極め、そんなあるんだかないんだか分からぬものにはだから見切りをつけて不快を催すものに意識は向かい、そうして濃厚なヴァニラのうちに潜む腐敗臭の元を、波に揉まれながらも探るうち、探るといってただクンクンと鼻をヒクつかせる程度にしかすぎないが、その因って来たる源泉へと、腐敗している当のものへと、辿りゆくうち、あるいは自身の発する臭いなのではないかと疑念が兆し、確信めいたものは何もないがなかば水面下にある体から水に溶け込むこともなくそれは周囲に撒き散らされていて、アレもその臭いに誘われてくるのかもしれないとそう弥生は思い、そうなのかと見上げた空には靄掛かった幕のように犇めき飛ぶ姿があでやかで、それがどこか陶然とした様子にも窺えるところからやはりそうなのだと改めて思いなし、そうとすれば自身はすでに屍となり果てているということになるが、いつからそうなのかとさらなる疑念が膨らみ、ではあのとき眼にしたものも幻でも何でもなく自身の記憶の投影にすぎなかったのかとそれはしかし話が前後していると否定し、自身が屍なのかそうでないのかそれからしばらく考え込むが決定的な証拠は見出せず、それはそれで悩みの種だが濁流に流されているという今一方の、より差し迫ったととりあえずは見做してよさそうな状況についても顧慮せねばならず、相変わらず裏返してやったと叫びながら視線を河面へと向ければ落ちたときに較べて左右の岸が遠離っていて、しかもその距離は縮まるどころか拡がる一方で、端的にそれは溝の幅が拡がっているからなのらしく、いや、らしくというか、ごく普通に考えればそうとしか考えられないしそのように認識してもいるのだが、その一方で自身の体が縮んでゆくような錯覚に捉えられもし、そうしていつか一センチほどにも縮小した体が水面を離れ、アブクから湧いて出たヤツらのように、軽やかにか鈍重にか楽しげにか呪わしげにかしれないが、できれば軽やか且つ楽しげでありたいが、灰色の空をキラキラと煌めきながら飛んでゆくのだといったような、それ自体あり得ぬ、いやあり得ぬと断言することがなぜできるのか、その可能性だって否定はできないと、あり得るかもしれない空想に浸され、だからかどうか分からないが前にも増して声高に裏返してやったと叫んでいて、なかば掠れたその声は今や激流と化した波の音にほとんど掻き消されて自身の耳にも届かぬくらいだが、側溝というよりはだからもう河と言ってよく、このままゆくと海まで流されてしまうと思うと暢気に叫んでいる場合でもないのだが、いや暢気なわけでもないのだが裏返してやったことはたしかなのだから、あるいはその記憶自体が捏造されたものだといった疑念がないではないが、自身のうちに自身のものとしてすでにあるそれを疑うことは困難で、叫ぶことにはだからそれなり意味があり、とはいえ飽くまでそれなりであって十全ではなく、勝鬨めいた叫びをあげるほどのことでもだからないだろう、皆と合唱しながらそう弥生は思い、その意味ではこれは無意味な叫びにすぎず、それでもそれをやめることはなく、それが自由意思においてそうなのか否かは判然としないが、意味と無意味との間で裏返してやったと声を張り上げながら弥生は流されてゆく、濃厚なヴァニラに包まれて、自身は腐敗臭を発しながら。流れはまた一段と速くなる。そのとき、

─了─

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16

戻る 上へ  次ページ


コピーライト