友方=Hの垂れ流し ホーム

05

固く結ばれた薄い唇に何らか決意めいたものが表出している佐脇は威儀を正して僅かに顎を引くが、そうすると頬や眼の下に薄いながら影が差していくらか険しい表情になり、それが常の佐脇なら下僕めいた情けない上目遣いにしかならないのに眼前の佐脇には威厳すら感じられ、それにより彼我の立場も歴然と画されるがなんでそうなるかなあと思いつつ仄かな期待とともにその言葉を待てば、改まった口調で仰々しく佐脇は何か言うようだが、距離の近さに反してその声が遠くのほうから聞こえてくるせいか肩透かしというか端的に期待を逸らされ、命はすでに発せられたのにそれを聞くことができないというもどかしさに弥生は身悶えしつつ斯かる半端な状態に人を置いてその反応を楽しむかの佐脇の口許を見据え、これはつまり常の弥生の身振りを批判的に反復しているのだ、あるいはそのよう期待をなかば懐いていたかもしれぬ弥生の期待に率直に応えているのだと、そんなふうに理解しながら尚発せられているもののこちらには届かぬその言葉を捉えようと懸命に耳を傾けるが、どこか遠雷めくその響きは意味を齎すどころか鼻腔に雨の匂いを生じさせ、次いで微かながら雨音を捉えさせもし、それはここにありながらここにないような、自身の足場さえ不確かになってしまうような錯聴として意識され、端的に胡散臭さとして弥生はそれを斥けようとするが胸奥に依然燻る期待の残滓が再燃するらしく、その真面目な話し振りに耳を傾けているうちに少しずつ距離も縮まるようで、茫洋と漂っていた響きも徐々に定かな輪郭を現して理解の及ぶものとなり、そうして言語化された内容はしかし弥生を困惑させ、というか何を意味しているのか今ひとつ把握しにくく、しばし反芻するもその意味するところを掴み損ねてしまう弥生は問い返すように疑念の眼差しを佐脇に向ける。それに応える形でか、一向に理解しない弥生に業を煮やしてか、次なる陥穽への撒き餌としてか、あるいは単なる気紛れか、一挙に距離は縮まってその発する声が耳内に届いて遠雷と見紛う音声だったものが意味を為す語の連なりへと昇華し、つまり待ちに待った雨を得て弥生は夢中になったわけだが佐脇のそれは雨というよりゲル状の半固形物といった体で浸透性に欠け、やはりまだ全的に届いたとは言いがたく、というのも常々裏返したいと思っていたがこんな機会も稀だから今裏返してもいいかと佐脇は問うたからで、その意を解せられずに弥生が沈思していると答えを待たずに佐脇は弥生を裏返しに掛かり、そうしてそれまで内側にあったものがすべて表へ露わにされてしまったのだった。

弥生は裏返されてしまった。常から下僕のように従わせていた佐脇に、手もなく、あっという間に。そのこと自体に戸惑いを隠せぬながらも有り体に言えば風通しが良くなって隅に溜まった塵や埃が払われる心地よさに少しく陶然となり、佐脇にしても単なる興味本位で人の裏側を覗き見ようという雰囲気ではなく、そうした下世話な欲求が皆無というわけではなかろうが、少なくとも人並みにあるだろう邪なものに全的に寄り掛かっての行為ではなさそうで、とはいえそれがいかに真っ当且つ正当な理由に基づくものであっても自身の赤裸な裏側をおいそれと垣間見せる弥生ではないから常ならもっと抵抗しているはずだしむしろ佐脇をこそ裏返してやりたいと反撃に出るところだが、こんなにも簡単に裏返されてしまうとは自身思いもよらず、そしてそれが思ったほど不快でもないし不要なものが拭い去られて却って身軽になったほどで、身軽になどなりたくないと難詰することもできたはずなのに斯かる身軽さを受け入れてしまったのは自身裏返されることをどこかで望んでいて、そうした欲求があるだろうことは想像に難くないが、そうとすれば佐脇に対して暗黙のうちに命じていたとしても不思議じゃなく、斯かる命令なき命令に佐脇は応えたのだと弥生は認識するに至り、そしてそのような佐脇の行為を咎め立てするつもりも今のところなく、それを佐脇への信頼性と言って言えないことはないが釈然としない思いも尚残り、そうした懸念が燻りつづけるのを持て余しているうちにも時は過ぎてカーテン越しに差し込む光もある強さで佐脇を照らしだすが、そうして照らしだされた佐脇はやはり常のような頼りなさに被覆されていてさっきまでの主人面は影もなく、なんでかなあと首を傾げつつまじまじと眺めやるとその注視に耐えられぬとでもいうように口を窄ませた佐脇は、次の瞬間憑きものがとれたようにグタリとなって何も言わず弥生の横を掠めるようにしてベッドへ倒れ込むが、その重みで沈んだ蒲団に重心を崩された弥生は前のめりに佐脇のほうへ引き寄せられ、辛うじて左手をついて持ちこたえるも佐脇と同様憑きものがとれたような脱力感に浸され、なかば佐脇に重なるように横になってなんでかなあという問いを抱えたまま再度眠りに就こうとするが、尚しばらく精神的昂揚がつづいて容易に眠りには入れず、呪文か何かのようになんでかなあが意識を巡るなか殊更それを払おうともせず、といってそれについて深く考えを巡らせるわけでもなく、何となくなんでかなあに囲繞されながら佐脇の立てる寝息を聴いているうちに眠れそうな気がしてくるが、すでに日の出を迎えたのかまだ迎えていないのかそれは分からないが差し込む光はもうかなり強くて閉じた瞼を透かしてそれは網膜を刺戟して已まず、薄目を開けるとすぐ前で佐脇が無邪気な寝顔を晒しているが、その寝顔に苛立ちを募らせた弥生は思いきりその頬を抓ってやりたくなる。

それでもしばらく怺えているが怺えきれず手を伸ばすとそこに佐脇の姿はなく、今度こそ帰ったかと思えばキッチンのほうで気配のすることから先に起きて食事の仕度をしているらしいが、そういうまめなところを弥生はあまり好まず、それでも重宝は重宝で、いいように扱き使っているというと語弊があるがあれこれ指図しなくても済むのは何かと便がいいとのっそりと半身を起こすと、中途半端な時間に中途半端に起きていたせいか怠さが抜けておらず、肩から腰へ掛けての、軽いが執拗な痺れを庇いつつベッドから離れるも重い上体が左右にか前後にか揺れて重心も安定せず、無視して足を繰りだすとカーペットの端に足指を引っ掛けてバランスを崩し、危うく顛倒するところをどうにか立て直して尚不安定な歩みで洗面へ向かうが狭い廊下を数歩で行ける距離にも拘らず踏みだす歩幅が狭いのか前へ進んでいるようには思えず、いやむしろ一歩踏みだすごとにそれは遠退く気配で、前進を阻む意思めいたものは感じられないもののささくれ立ったような感触を足裏が捉えたからそれを確かめようと頭を下げると床のほうが迫りあがってきてまたも顛倒しそうになり、両足を踏ん張って回避するとちょっと気息を整えてから危ないと知りつつ忙しなく足を動かして遥かな洗面へ向けて苦闘するのだったが、物音に気づいたらしくキッチンから半身を覗かせた佐脇に清々しい笑みとともにおはようと声掛けられ、それにはしかし控えめに頷き返しただけで先を急いだ弥生はようやっと辿り着いた洗面で歯磨きと洗顔を済ませたのち改めて鏡に向かい、そうして自身の顔を仔細に眺めてみるが起き抜けの浮腫んだそれに疲労の色はあまりなく、ほかに昨日までの自分と何か違っているところはないかと顔を近づけるが昨日までの自分とは何かという思いがふと兆し、白濁の染みとして残る鏡面の水跡に知らず焦点が合わされるとその向こうにある猜疑の視線から一瞬逃れるが、すぐにまた焦点はその向こうにある寝起きの顔へ合わされ、思惟をつづけろとそれは迫るらしく見えた。とはいえ昨日までの自分が本来の自分だって保証はないわけで、そうとすれば斯かる不確定なものと比較することに意味はなく、いや意味があろうとなかろうとそれは問題ではなく、いや全然問題ないわけではないが差し当たり無視していいということで、それより今問題にしているのは何が本来の自分かではなくて昨日の弥生と今日の弥生とで何らか差異が生じているのかということなのだが、継起する時間のなかで変化せずにいることなど無理なわけだから昨日の弥生と今日の弥生とで何らか差異は生じているはずで、そうとすれば当の差異があり得べき差異なのかあり得べからざる差異なのかということになるがそれを判ずるには本来の自分に照らしてみるしかなく、どこにそれがあるかと言えば昨日までの自分よりほかに参照先はないが昨日までの自分が本来の自分だって保証はやはりないわけで、そうとすれば斯かる不確定なものと比較することに意味はなく、いや意味があろうとなかろうとそれは問題ではなく、いや全然問題ないわけではないが差し当たり無視していいということで、それより今問題にしているのは何が本来の自分かではなくて昨日の弥生と今日の弥生とで何らか差異が生じているのかということなのだが、継起する時間のなかで変化せずにいることなど土台無理なわけだから昨日の弥生と今日の弥生とで何らか差異の生じていることはたしかなはずで……いったいどこで拗(こじ)れてしまったのか。全き覚醒に至っていないからだと全き覚醒に至らぬ頭で弥生は思い、ガラスの曇りを拭うように再度、しかし今度は湯ではなく水で洗顔するといくらか顔の浮腫みは引いたようだが意識の曇りまで拭えたかどうかはいまいち分からない。



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