とはいえいつからこんなになってしまったのか、「こんな」と否定的なニュアンスで顧みるほどのこととも思えないがそう見做してしまうことに一方でうんざりし、それでいて当の「こんな」について思惟せずにはいられず、ただいつからといっても元から「こんな」だったような気もするが何か原因となる出来事なり事件なりがあったような気もし、そうして思い当たる節を辿ってもみるが不毛な堂々巡りをくり返すばかりで核心へ至ることはついになく、そんなものはだからないに違いなく、仮に核心めいたものに辿り着き得たとしてもそれこそ仮象にすぎず、そうしたものを見出すことにはだから何らの益もなく、すべてにおいてそうなのだと強引にねじ伏せるようにして埒もない思惟に幕を引くと気持ちを切り替え、といって尾を引くように終始それは脳裡を掠めつづけているのだが知らぬ振りして午後の仕事を乗り切り、いや乗り切れたとは到底言えず、仕事疲れだか気疲れだか分からぬ疲労とともに寄り道もせず帰途に就いたものの途中で思い返して丸尾に電話してみるといつものところではじめているとのことで、何か用かとの問いにべつに用はないと答えると予定とかあるのかと訊かれ、何もないことを伝えると今からでも来ないかと誘われ、最近つき合いが悪いと指摘されもして断る理由もなかったから戻って合流するが、皆と一緒に騒ぐことがほとんどなく皆がバカ騒ぎしているのを横で見ているのが好きな質だからこのときも常のようにひとり静かに飲んでいて、それなのになぜか常のようには楽しめず、普段BGM程度にしか響かないはずの喧噪が妙に神経に障って楽しめないどころか却って疲れてしまい、頃合いを見て座を抜けると九時頃には自宅にいた。酔いはすでに醒めていた、というか元より酒量は多くない。飲んで憂さを晴らすタイプではないことを改めて実感しつつ早々に床に就いたが夢見が悪いのか夜中に幾度も眼を醒まし、そうして幾度目かに尿意を催してトイレに立った折、物音でもないし気配とも異なるちょっと異様な雰囲気を感じ、いやそうハッキリと感じとったわけではなくぼんやりと意識に上せた程度だからさして気にもとめなかったが、それでもベッドに戻るとしばらく様子を窺うように視線を巡らせていた。恐いというわけではないが警戒的な意識にとって闇に浮かびあがる自室はただそれだけでどことなく不穏さを帯びて意識されてしまうもので、斯かる無根拠な不穏さになかば怯みながらも一渡り見廻したところ静まり返った自室に自分のほかに誰もいないことは確かなようで、不審者に侵入されているといったような考えるだに恐ろしいことにはだからなっているはずがなく、やはり気のせいと眼を閉じて眠りに就こうとするが、一旦気になりだすとなかなか払拭できぬものらしく閉じた瞼の向こうで何か禍々しいことが起きつつあるかのような気がしてならず、それでも眠ってしまえばこっちのものと眠りへと意識を集中するものの却ってそれは遠離り、観念したように閉じていた瞼を再度開けてみたらやはり様子が変で、変といって何がどう変なのかいまいち掴めないが常からほんのちょっとした物音でも入眠を妨げられる弥生にしてみれば斯かる事態は尋常とは思えず、尋常でないとすればこれはもう確かめずには寝られないと神経を研ぎ澄ませ、暗いなか眼を凝らしていると徐々に像が結ばれてきた。いや結ばれるというより霧が晴れるという具合に浮かびあがってきたのだが、それでも最初は何かよく分からなかったというか、暗いせいもあるが何か塊が蠢いてるようにしか見えず、そのため実体のあるものというよりは映写された像のように感じ、幻覚とか何かそういった類いのものだろうと端的に思いなして比較的冷静にそれを眺めていたが、眺めているうちにそれがひとつの塊ではなくふたつの別々の個体らしいということが把握され、次いでそれが人らしいということが諒解され、さらには裸の男女らしいということが見てとれ、そこに至っていくらか動悸が治まったのは裸の男女のすることといったらセックスよりほかに念頭できなかったからで、変なものを見せられたと弥生は眉を顰めたものの尚観察をつづけるうちにそのような艶めいた印象とはいくらか異なることに気づき、なんだろう何をしているのかとさらに眼を凝らすも不意に闇と同化するようにして見えなくなってしまった。それは消えてしまった。いくら眼を凝らしてももう何も見えなかった。消えたからといってまだ安心はできないと尚しばらく様子を窺い、確かにいなくなったと理解されてようやく安堵した弥生は金縛りを解かれたように小さな吐息を洩らし、そこで一瞬にして気が抜けたらしくそのまま眠りに落ち、一夜明ければ先夜眼にしたことはぼんやりとしか記憶にないがそれでも不快な印象とともにその残滓があり、端的に夢として片づけられそうにはないもののとりあえず不快な夢と見做すことでそれをやり過ごし、その後一週間は何ごともなく、といって安穏とした日々ではないが鬱は鬱なりに安定した低空飛行で無事に過ぎたものの飲んで帰った日に、飲んだせいではなかろうが、またしても見てしまったのだった。
というか見せられたと言うべきか、状況は前回とほぼ同じで不確かな男女の像が縺れあいを演じているといった具合だが、像の鮮明度が前回よりも増していて微かだがふたりの息遣いも聞こえるような気がし、何か話をしているようにも思えるが喘ぎ声かもしれず、いや喘ぎ声にしては底気味の悪い響きで切迫した感があるため不快感を募らせつつ身を強張らせていたが、これといった進展もなく不意に掻き消えた、というか消えてくれたので安堵して眠りに就いたものの二度までも見てしまってはもう夢だとかいって胡麻化すこともできそうになく、それまで比較的冷静さを保っていた弥生もちょっと恐怖を感じた。いやちょっとどころではなく、毎夜出てきて魘されるということではないものの安眠できる状況ではなくなって精神的にかなり参ってしまい、傍目にもそれは瞭然らしく、丸尾らと昼食の折、食欲もなく鬱屈している様子を訝ってか「最近肌荒れてない? 仕事もミスとか目立つし」何かあったのではないのかと水を向けられて話したものかどうか迷いつつも話さずにはいられず、斯く至った顛末を逐一語って「なんか気持ち悪いってゆうかさ」おちおち寝てもいられないから睡眠不足にもなるし肌も荒れるというわけなのだと締め括ると皆呆れ顔で、白けた空気に事態を察した弥生は非難の色さえ見てとれる視線を交わしつつ繕う術もなく、苦笑に紛らして蕎麦を啜り込むが慌てていたせいか噎せ返り、それが却って皆の不審を助長させたようだった。元より信用されないだろうことは分かっていたがこうもあからさまな反応を前にするといくらか凹むし抵抗を試みたくもなり、今言ったことはすべて事実でこれっぽっちも嘘はないと念を押せば却ってその事実性を疑われて何か裏があるに違いないとさらにも疑念を掻き立ててしまい、あらぬ噂を流されても適わないが皆の好奇心を殺ぐ手立ても見出せぬまま弥生は空しく抵抗しつづけ、その頑なな態度に根負けするというよりは苛立ちをあらわにした丸尾が冗談はそれくらいにして「ホントのトコ何があったの?」正直に言いなさいと恐い顔で詰め寄ってくるが、いくら恐い顔をされてもないものをあったとは言えないから黙すよりほかなく、とはいえ当の黙秘が秘匿せねばならぬものの存在を証しているとでもいうように「それ口実にして彼氏んトコに転がり込もうとかしてるんじゃないの?」と丸尾が変な勘ぐりを入れ、あるはい恐くてひとりじゃ眠れないから一緒に寝てとかそういう腹だろうと飛躍も甚だしく、皆それを鵜呑みにしてなるほどと頷くのをそうではないのだ断じてそうではないのだと語を継げば継ぐほどその必死な形相に事実を覆い隠さんとする意思をしか見ず、姑息というか必死だねと茶化されるに及んであんなものを見せられては必死にもなると弥生は憤りを覚えるものの飢えた獣に餌をやるに等しいともう弁駁は諦め、話す相手を間違えたといくらか後悔した。行き場を失った憤りは弥生を内省へと導き、午後の仕事の間もずっと鬱積に沈んでいて自身の周りだけ空気が澱んでゆくのを孤独に耐え凌ぐが、その結果仕事と思惟のいずれもが滞ってしまってどうにも始末に負えないのだった。丸尾らの言うように必死は必死だが必死さの意味が違い、今弥生の直面しているのは安寧な生活の危機と言ってよく、いや必ずしも安寧とは言えず、いやかなり憂鬱な日々と言っていいがそれに輪を掛けた憂鬱が眼前に迫り来ているのだ、つまり危機なのだ、回避せねばならないのだと事態の切迫していることを改めて実感するが、弥生自身当の出来事をどう位置づけたらいいのか分からないのだから丸尾らの疑念も故なしとはしない。とはいえ自身の知らぬところで話に尾鰭がついて流布してしまうだろうことが予測され、いや絶対確実だからそれはそれで気掛かりだったが目下の急務はそれではなく、日々の安眠を妨げる不快な男女の縺れあいをどう斥けるかということに尽き、それがいかなる意味を持つのかとかそれをいかに解釈するかということではしかしなく、そういった意味や解釈以前にその現前を阻止することこそが為されねばならないと考えるが、抑もあれはいったい何なのかと気づけばそのことについて思惟を巡らせていて、霊というよりほかに言いようのない現象とそう見做すが生まれてこの方霊など見たこともないから霊感などないと思っていて、それでも真面に見てしまった以上疑い得ぬこととして対応せねばならず、いやあれが霊と決まったわけではないしそうでないと願いたいが願望だけで事態の収束に至るわけでもないから最悪の事態への備えが必要で、備えといっても霊異に対していかに備えろというのか、つまりあれが霊だとしたら、霊が出るなんて話は聞いていないがもしそうだとしたら、越してきてもう四年近くになるが駅からも近いし交通の便もよく、それでいて静かだからわりと快適な生活環境と言っていいが、この部屋に住みつづけることはできないということで、そうかといって転居するにしても新しい部屋がそうすぐに見つかるものでもなかろうし、丸尾の言うように緊急避難的に誰かの家へ転がり込むって手もないわけではないが佐脇には借りを作りたくないからそれはやはりできず、いよいよヤバくなったらそうするほかないがそれまではここで凌いでゆくしかなく、とにかく何か策を講じねばならないと湯船に浸かりながら尚も考えるが、大した案も浮かばぬままフロから出ると髪を乾かしながら深夜の通販番組を漫然と眺めていた。夜中の食べ物系番組が妙に空腹感を掻き立てるように、大仰なリアクションで商品を絶賛するタレントに少しく嫌悪感を懐きながらもあらゆるものを細かく粉砕できるという強力ミルミキサーを弥生はちょっと欲しいと思い、とはいえそれで霊を粉砕できると考えたわけではもちろんなく、ただ単に欲しかっただけで、強力なモーターの回転音とその振動に魅せられた弥生はいつまでも画面に見入っていた。