友方=Hの垂れ流し ホーム

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五分だか十分だか、あるいはもっとかもしれないが時間感覚がおかしくなっているらしく、何某かの時間が経過したころとしか言い得ないのだが、視野の端で何かが動くのを捕らえ、何かが動いたからって驚くこともないのだが、動いたというよりは端のほうが収縮するように震えた感じで、何かそのような像の歪みとして把捉されたことが弥生の注意を惹いたのだが、端的に疲れ眼だろうとこめかみを押さえつつ頭を擡げるとリノリウムの床が僅かだが波を打っていて、経年による歪みや膨張ということではしかしなく、今まさに弥生の見ている目の前で、静かな湖面に描かれる波紋か何かのようにそれは少しずつ拡がってゆき、といって湖面に描かれる波紋のように感興を催す体のものじゃ全然なく、そういったものとは凡そ無縁な、猥雑なガチャガチャした印象をそれは齎し、拡がる波の間隔は徐々に短く狭まってゆくが逆に振幅のほうは増大してゆき、そのうち激しく泡立ってくるようで、ついには煮立った鍋のような具合に床のあちこちから泡が立ち、跳ねあがる飛沫が足元まで飛んできたから反射的に足を引っ込め、さらに飛沫の掛からぬ位置まで椅子ごと後退すると、床から足を上げて膝を抱え込んで事態を見守るように注視していた。泡立ちは益々激しくなって収拾つかないくらいの沸き立ちようで、少しく怯みながらも様子を窺っていると一際大きな泡が立ち、次いでパチンという破裂音とともにそれが弾けると中から何かが飛びだしたのだが、キラキラと煌めきながら舞い上がるそれは小さなイチモンジセセリで、床すれすれのところを泡にまた飲み込まれそうになるのを辛うじて交わしながら飛び、そうしてひとつふたつと弾ける泡から次々と飛びだしては舞い上がるが、鱗粉に触れたらまた溶けると警戒した弥生はさらに後退しようとし、それ以上後ろへ逃れることはしかしできず、鞠のように体を縮こまらせて辛うじて回避しながら窮地に立たされた主人公はいかにその窮地を脱するのかと考える。あるいは自分が主人公なのではなくただのヒロインとするなら、いや、それ以下のエキストラ的存在だとしても、ヒーロー登場のお約束的展開とこれは見做せ、弥生を危地から救うべく現れるヒーローはではいったいいかなる者かと変な期待を懐き、そんなのはしかし虚しい期待にすぎぬからすぐに忘れて警戒的な視線を走らせると、例によって何かブツブツ言ってはいるもののさっきの蚊柱のヤツとは異なるのか脅しを掛けてくるようなことはなく、ちょっと頼りない飛び方で通路を明かりのほうへ飛んでゆき、一通り飛んでいってしまうと泡立っていた床も凪いだ状態に戻って細波ひとつ立たなくなり、そこでようやく強張っていた筋肉も弛緩する。

息つく暇はしかしなく、いや、それなりの時間経過はあったのかもしれないが、意味を為さぬシーンが編集でカットされるごとくシーンが切り替わっているらしく、その間の事情はどこか説明的な言説としてしか認識できなくなっていて、釈然とせぬながらも時間は流れているから今起きていることに向かうほかなく、そうして振り向けた意識の先で、というか視野の端で、また何かが動くのを捕らえ、今度のはしかし人の動く気配らしく固いリノリウムの床を静かに響かせてやってきて、物も言わず弥生の隣に手にした丸椅子を置いて腰掛けると膝をすり寄せてくるが、人懐こい猫のようなその身振りに対して安堵の笑みを向ける弥生は端的にその偶然を喜び、等しく喜びをその笑みに表わしつつ弥生の膝辺りに手を置いて内腿のほうへと撫でさすりながら「え、でも何どうしたの、どっか悪いの?」と下から覗き込むように問うその顔貌は血色もいいしメイクの乗りも良く、いくらか潤んでいるらしいその双眸に病の徴候が認められないでもないが何らか患っているような感じじゃないから誰かを見舞いにでもきたのだろうと思いなし、さらにあれこれ思いを巡らせながら「うんちょっとね」と濁し、そういうあからさまな逃げは丸尾の追及に拍車を掛けるだけだとほかの言葉を探しに掛かるが、「ふうん」とひどく素っ気ない相槌が返ってきただけだったのでちょっと安堵し、間を外されたようでしかし拍子抜けし、とはいえ斯かるツッコミの弱さは丸尾が何らか変調を来していることを端的に示すものではないかと思われ、そっちはどうなのかと訊いてみると「いやあなんかねえ、裏返されちゃって、ここんとこ調子悪くってさ」参っちゃうよと苦笑するが、見た目全然調子悪そうには見えないし言うほど困った様子でもなく、つまりその程度のことで気にするほどのことじゃないのかもと実は自分もそうなのだと明かすと「なんだ弥生もか、そう、そりゃ大変だ」と他人事のように言い、でもそういうの最近多いみたいだから気をつけたほうがいいよ「ってもう遅いか」と豪快に笑うのだったが、その笑顔を見るかぎりそれはいつもの丸尾で、どこが裏返されているのか全然分からない。端的にそれは丸尾の裏表のなさを示しているにすぎぬとも見做せ、実際弥生の知るかぎりその裏表のなさは知人間で共有されていると言っていいが、それは表側から見ての評価なわけで、裏から見たらまたべつの様相が浮き彫りになってしまっていても不思議じゃなく、抑も裏返しとはそのような事態あるいは徴候として理解されるべきものだろう、とそれは弥生の解釈にすぎないが、それなのに眼前の丸尾はいつもの丸尾と変わりなく、とはいえ何を以てして同じと見做すかと問われれば丸尾を丸尾と同定することは困難になるが、少なくとも日常的感覚に照らしてそうだということは言えそうだし、さらには丸尾自身が自分を丸尾だと同定するその同じ程度には丸尾だと同定することができると見做せ、そういった意味で丸尾はいつもの丸尾と変わりなく、つまり表なのか裏なのか判然としないのだった。分からないほど巧妙な仕掛けなのかと思うと知らぬところで着実に進行するガンみたいでちょっと恐くなり、大丈夫なのかと訊いてみるともうダメとか言いながら弥生の膝へよよと頽れ、その手が膝を割って内腿を撫で廻したりし、調子悪いというよりはいつにも増してハイテンションで、そういう症状なのかもしれないが弥生には健康そのものとしか見えず、いずれにしても素人判断は当てにならず、以前自立失調に陥ったときもそれでかなり拗(こじ)らせたということもあって自身の見立てを留保し、それ以上突っ込んだ問いは控えて当たり障りのない世間話で間を繋ぐが、ひとり鬱々と待っているよりはずっとマシで、お陰で気を紛らわすことができたし退屈することもなかった。先に呼ばれた丸尾は笑ましげに立ちあがると弥生の頬にそっと手で触れるがその手が異様に冷たく、身震いしつつ身を引くとそれはすぐに追い掛けてきて、掌をぴったりと頬に密着させて名残惜しげに撫で下ろすのだが、撫で下ろすその手つきがどこかあの医師を思わせ、冷たさによるものとはまたべつな身震いに襲われた弥生は不快な眼差しを向けるが、丸尾の笑みに接すると冷たいながらその冷たさは身震いを催すものではなくなり、次いで名残惜しそうにその手が離れてゆくとそれを名残惜しげに見つめつつ冷たくなった頬に自身の掌を宛い、その冷たさに改めて不快を催しながら今一度笑みを向けてくれないかと懇願する眼差しになるが、それには気づくことなく「じゃあね」と丸尾は廊下の奥へ消え、消える瞬間キラッと何かが光ったような気がしたが気のせいかもしれない。



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