友方=Hの垂れ流し ホーム

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弥生のものよりさらに一段太いが同様な溜息を医師も吐き、あとはもう裏返すしかないと腕を組むとしばし黙想するが、それを決めるのは弥生自身だというように弥生のほうを窺い、そうかといって決断を促すわけでもなく、鷹揚に構えてこちらを見るような見ないような、それでいて診察を打ち切るでもなく、何か別の処置を施すでもなく、ただ背凭れに上体を預けて寛いででもいるかのように何も言わず、時どき医師の掛けた椅子が軋みをあげるが、督促の響きを持ってそれは弥生を揺さぶり、さらにはノイズめく四囲の環境音さえ決断を迫るかにぐるりを包囲するのだった。医師が何も口にしないと、斯かる掩護も手伝って、何か死刑宣告でも受けるかのような非常な圧力を感じ、勿体振ったその沈黙に耐えながら裏返すしかないという医師の言葉を反芻してみるとそれは何か別の意味を帯びているようにも思え、弥生の認識しているそれと医師のそれとが同じものを指しているということが疑わしくさえ思えてくるが、裏の裏が表へ返るというのなら何も問題はないが、裏の裏が表へ返らずどことも知れぬ世界へと通じてしまうとすれば道に迷うどころの話ではなく、自分が自分であることさえ儘ならなくなってしまうようなそんな裏返しは願い下げで、とはいえそれは弥生の勝手な思い込みでそうと決まったわけではだからなく、そうかといって一旦懐いてしまった不安を拭い去ることは容易ではなく、佐脇に裏返されるならまだしもこの医師に裏返されるのは気が進まないと懸念を示すと、誰が裏返すかは本質的な問題ではなく、誰に裏返されたいかといった要望を考慮する余地はあるにしても、いかに裏返すかが事の正否を分かつのだと医師は言い、もうほかに方法はないんですけどねえとすでに選択肢のないことを強調するのだが、それでいて強硬な姿勢で迫ることはなく、じっくり考えてみるといいとやさしく諭すような口振りで窓の外を眺めやり、昼だか夜だかも判然としない灰色に塗り込められた矩形の向こう、釣られて視線を向けたそこには何かキラキラしたものが降っていて、いや舞っていて、またかと弥生はウンザリする。

どこからか迷い込んできたのかわざわざ出向いてきたのかそれは知らないが窓の外でキラキラと舞い飛んでいるのは一羽や二羽ではなく、その数ざっと、いや数える気などないと眼を背けると、視野の端でそれはまた一段と輝くようで、そんな挑発には乗らぬと頑なに見ないようにしていると気を惹こうとしてか騒ぎだし、騒ぐといっても高が知れているが自分のせいで周囲に迷惑掛けていないかとそれが気に掛かり、幸いそうしたことには馴れているのか不審がる様子は見られず、とはいえそれで調子に乗ったのか端からそのつもりだったのか、恐らく後者だと弥生は見做すがヤツらは一段と騒がしくなり、裏返してやるとか何とか言っているのだろう、ガラス越しに叫ぶのが届くが風の音に紛れて判然とせず、その風の切れ目にしかし別の分節が、意味の通る文言として耳に入り、気をつけたほうがいいよとそれは見知った声で囁くから思わず反応しそうになり、姑息な手を使うようになってきたと少しく警戒しつつ視線だけは向けぬようにしていたが今そういうの増えてるらしいよとまた声が届き、それこそすぐ隣で囁かれでもしたような、その息遣いまでも感じさせる気配に思わず知らず首を巡らし、そうしてキラキラと輝くそれらを直視してしまい、もう逃げられぬと勝ち誇ったようにそれらは輝きを増すが、毎年クリスマス時期になると街を彩る電飾のように、ある種の規則性を伴って連鎖的に伝播してゆくかの輝きを示し、それでいて見るものの心を和ませ暖めるものでは全然なく、そしてそこには何かメッセージが秘められてあるのに違いないが、当のメッセージを弥生は受け取らないし、それはだから秘められたままで、いや、むしろその秘められてあることこそがメッセージでもあるかのように明滅する光をそれは送りつづけ、とはいえ送られつづけるほうにしてみればたまったものではなく、それが意味を為すものなのか意味を為さぬものなのか、いつか意味を為すものへと変じるのか、それとも意味を為さぬことそれ自体を意味として読みとらねばならないのか、果てなく思考は巡りゆき、危うくフリーズするところを振り払うようにして、振り払い得ているか否かはべつとして、髪振り乱すほど必死にではないものの少しく早足になり、路面を打つヒールの甲高な音がピッチをあげてゆくに従って、呼吸の乱れは見られぬのに、鼓動はそれとパラレルな動きを示すかに思え、取り澄ました挙措のうちにも切迫は潜み、狭窄的な視野から脱しようといくらかなりと開けている上方へ視線を向けるが、低く垂れ込めた雲の層が開り、ここでも視界は遮られ、そのいつ降りだしてもおかしくない空模様に傘を持って出なかったことを後悔しつつ弥生は先を急ぐ。そんなときにかぎって間違えてしまうのだが入る路地を一本違えたらしく、狭い路地を奥へ奥へと進むうちに自分のいる場所を見失い、間違えたことを否定できなくなったときには元いた表通りへ戻ることも儘ならず、ウロウロと路地を彷徨っているとケータイメールの着信が鳴り、取りだし見ると佐脇からで、よりにもよってこんなときにと舌打ちするが確認だけはしておこうと読むと、先日来の弥生の再三のメールによほど怖れを為したのでもあるらしく何か頻りに詫びているが、全体何を言っているのかよく分からぬ文章で、それでも文意は伝わり、伝わるがしかし癪にも障り、迷って疲れ果てていたせいもあってあまり怒る気もしないが、それでもこれだけは言っとかねばと思い知らせてやるから待ってろと返信し、とりあえず言うべきことを言い得たことで少しだけ気が晴れ、雨催いの空は相変わらずだが、気づけば元の表通りを歩いていた。閑散としてしまうほど遅い時刻でもないが人通りは絶えていて、物寂びた印象はないものの何か急き立てられるような切り詰めた感覚が痼り、急がねばとまた早足になるが、いや、さして急がなくてもいいのだが、どうにも気が急いてしまい、常にない焦燥とそれを自覚しながら気忙しく歩き、そして二度蹴躓いた。



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