というのも真っ直ぐつづく通路の両側が側溝になっていて、その側溝を溢れんばかりの濁水が前方から流れてきてもいるからで、幅も深さも大したことはなさそうだが填ったら流されそうだと思うせいか躓くたびに息を呑み、しばし呼吸を整えてから歩きだすということをくり返すうちに前をゆくただの路傍の人らの姿は見えなくなり、何がなし不安を懐きながらも先を急ぐと、通路の先に何かあるらしく行く手を阻む恰好で雨幕の中に浮かびあがり、近づくにつれて見えてきたのは倉庫めく巨大な建物だが、手前に二棟、奥に二棟、さらにその奥に細長い煙突が六本、うち二本から白っぽい、微妙に色合いの異なる煙が立ち上っているのを工場か何かだろうと見做した弥生が手前左の棟へ向かう様子のもうほとんど影と化した一群れを見つけ、そのあとにつづいて入ってゆくと、建物内部は思ったより狭く、低い天井の圧迫感に息苦しさを覚えるそこは病院の待合室らしく、狭い通路の両側に設けられたそれぞれ規格の異なるソファや椅子には恐らく外来だろう、といってさっきの影の人らとはまたべつらしい、あるいは同じかもしれないが役柄が異なるのだろう、辛気臭い面で窮屈そうに腰掛けている人らが幾人か認められ、その腰掛けた人らの膝の間を縫うようにして狭い通路を建物奥へと向かうが、鉤の手に二度ほど曲がると通路は行き止まり、そのどん詰まりの隅のほう、明かりも届かぬ陰になった席に弥生は掛けると身を竦めて待つともなしに待っていたが、順番はなかなか廻ってこないようで、いくら暇を持て余しているからといってずっと待ってるわけにもいくまいから少し休んだら帰ろうと自身の靴先のそのちょっと向こうの少し撓(たわ)んだ床を見ていた。
薄ぼんやりした照明ながらそこそこ磨き上げられたリノリウムの床の、そこだけ明るく照り映えている部分にチラリと何かが反射し、視線を上げると小さな紙切れのようなものが一枚(ひとひら)舞っているのを認め、だんだんと近づいてくるそれは弥生の膝元へ静かに舞い降りるが、見ると紙切れではなく、羽根を閉じたり開いたりしているそれはイチモンジセセリで、体長が一センチにも満たないからだろう、何かブツブツ言っているようだがよく聞こえず、といって弥生に対して文句を言っているわけではないらしく、仕事の愚痴か家族の愚痴か何かそれに類する悪態を吐いていると思しいが、呂律の廻らぬ口調に酒気が認められ、無視しているといつまでも呟いているから気障りで、手で払うと鱗粉を舞い散らせて飛び上がってよろめきながら明かりのほうへ飛んでゆき、しばらく弥生は明かりのほうを見つめているが、薄明かりに反射する鱗粉がスノーダストと見紛うほどに美しく、濁りきった色をしたイチモンジセセリの鱗粉でもこれほど綺麗なものなのかと感興を呼び覚まされるが、無意味な美しさだとすぐに興は薄れ、また身を竦めて待つ態勢になると何も見ないように俯いているが、微かに空気の流れを捉えて上げなくてもいい顔をまたほんの少し持ち上げると、眼の前を何か影のようなものが通り過ぎる。気配も物音もほとんどないからだろう、ひどく物寂びた雰囲気に感じていたが、病院特有の陰気さに浸されてはいるものの建物内はそれなり活況を呈していて、そうして幾度か影が通り過ぎてゆくのを弥生は茫と眺め、眼を背けるでもなく注視するでもなくただ茫と眺めているが、患者のこともあれば看護婦のこともあるそれら影たちは見た目には見分けがつきがたく、身ごなしでそれと分かるのだが分かったところでどうということもないし、どっちだって同じことだと漠然と思いながらそろそろ潮時かと腰を浮かし掛けると不意に自身の名を呼ばれ、早口の甲高な声にヒュウ番の診察室へお入りくださいと指定されて立ち上がった弥生は扉に記された番号を確認しながら通路を逆戻るが、入口付近まで戻ってきてヒュウ番とは何番かとその呼び名の変なことに気づき、いや、九か十を聞き違えたのだろうと「九」「十」の扉を探すが「九」の扉も「十」の扉も見当たらず、狭い通路を行ったり来たりするうちに焦りは募り、そのせいかヒュウという数が本当はあって自分はそれを失念してしまったのだとの思いが兆し、そうとすればヒュウという数を表す文字が自分には読めないだろうからヒュウ番の診察室へ至ることは不可能だと狭い通路に蕭然と立ち尽し、その間もアナウンスは弥生の名を呼んではヒュウ番の診察室を指定するのだった。それなら自身が読めぬ文字を探せばいいと再度通路を探し歩いて「九」とも「十」ともつかぬ記号の記された扉を見つけ、確証はないがここだろうとその扉を入ってゆくと、白い、といってもほどほどに黄ばみ薄汚れているカーテンの向こうから呼ぶ声があり、二枚の布の合わせ目のその隙間から身を滑らせるように向こう側へ出ると、椅子に掛けた医師が机に右肘ついて体を開き気味に弥生の名を呼ぶが、むずかる子供を宥めるような変な抑揚でちょっと警戒しつつ控えめに頷くと掛けろと医師は促し、言われるまま椅子に掛けながら盗み見るようにその顔を覗くと、以前自律神経を病んでいたときに通っていた医院の先生にどことなく似ていて、でも声が違うし喋り方が変だと何やらカルテに書き込んでいる手元を眺めていると、どうしましたと訊かれ、べつにどうもしないと呟く弥生にそんなことはないだろうとやさしげに医師は言い、そう言われてみればそんなような気もしないではないがやはりどうもしないと前より強く否定すると、それはどうしましたと医師が弥生の右手を指し、見ると手の甲から指のつけ根に掛けてうっすらと赤く腫れていて、さっきイチモンジセセリを払ったときに鱗粉が付着したのかもしれず、それで被(かぶ)れたのだと答えるとそんなことはないだろうと医師は訝り、ちょっと見せてくださいと手を差し伸べる。