とはいえ、まだまだ楽観しきれぬ面があるのもたしかで、知らぬうちに赤裸な姿を晒しているかもしれないということに被虐的な陶酔を感じることはないものの卒然と不安に襲われることはあり、不安といって大した不安でもないが相応に気に病んではいて、そつなく仕事を熟(こな)した弥生が丸尾の誘いを断わって帰途に就いたのもいくらかはそのせいだったが、帰宅すると昼間届いたのらしく郵便受けに不在票を見つけ、待ちに待っていたものがようやっと届くと知って驚喜した弥生はこれでちょっとは事態も好転するかとすぐに電話して再配達を頼み、注文したほかの品々も日を置かずして順次届けられたから期待は尚も高まり、それら品々をそれぞれ配すべき場所へ配したらそれだけでもうすべてが終わったような気になって不安もかなり解消されてしまったから不思議で、早速ご利益が効いてきたとは思わぬながら何ごとも気の持ちようかとフロに入って長々と湯船に浸かればこの幾週間で累積した疲労さえもいくらか癒えたと実感され、肌の色艶にそれは端的に表れているし乳液もいつになく馴染んで心地よく、この調子なら仮にまた現れてもグッズの後ろ盾もあることだしどうにか撃退できるのじゃないか、撃退できぬまでもそれなりダメージを与えるくらいはできるのじゃないかと楽観ムードが濃厚になるが、調子に乗って流されてはいけないと辛くも押しとどめ、湯上がりに一杯やろうとビールを冷やしておいたのだとキッチンに立ち、乳白色のボディの鈍色(にびいろ)に輝く把手を引くと溢れ出す冷気が足先に触れ、左の足指からその甲を経て踵へ、次いで右の足指からその甲を経て踵へと順に伝い流れるその冷気は弥生の体を瞬間超伝導体のように浮き上がらせ、すぐに足裏は床を踏み締めるが浮き上がった感覚は尚残り、安定した重心を得ようと半歩下がって小腰を屈めると開いた扉に寄り掛かるようにして庫内を覗き込む。取りだした缶をテーブルに置いた弥生が再度庫内を覗き込んで中の様子を仔細に眺め入ったのは、入れるときには気づかなかったが妙に庫内が狭く感じられたからで、端的に物が詰まっているからだがいつもは充分に空間があるのにと訝って棚の中段にある柴漬けを入れたタッパと三パック納豆とミックス野菜の残りの袋と食べ残しの薩摩揚げとを順次取りだしてゆき、そうして諸々除いたその最奥にラップされたケーキ型があるのを認め、いつかのそれはゆるゆるムースで恐る恐る取りだしてみると物凄い惨状を呈していて甘いヴァニラの香りはどこにもなく、見たこともない色の毛に一面覆われたそれは最早食べられる状態ではなかった。黴の胞子が充満していそうな庫内を除菌スプレーで丹念に殺菌したのち布巾で丁寧に拭きとると庫内に鼻先を突っ込んで執拗に嗅ぎ廻り、そうして仄かなアルコール臭を確かめてから勢いよく扉を閉めるが、そうこうしているうちにビールがぬるくなってしまって高揚した気分も若干減退し、というかかなり落ち込んでしまい、斯かる失態が凶兆の表れでこっから先はもう落ちる一方だとかそこまで思いなすことはないながら少しく不安がぶり返し、各所に配されたグッズは果たして効くのだろうか、却って火に油を注ぐことにならないだろうか、複数アイテムの同時使用が力の相殺を招くことになりはしないだろうかと徐々にそれは肥大して、ついには素人考えの場当たり的対応は事態の改善には繋がらないと鬱な思いに領されてしまい、放っておくと気が滅入る一方だと窓を開けて風を入れ、そうしてしばらく夜気に当たるといくらか熱も冷め、それに伴ってグッズへの信頼もそれなりに回復する。といって効果のほどはあまり期待していなかったが何もしないよりはずっとマシとそう弥生は思い、そう思う気持ちが心的余裕を齎したものか変なものを眼にすることもなく朝を迎えられ、とりあえずの無事を感謝しつつ半身を擡げ自室を眺めやれば自室ながら自室でないような感じがし、呼気吸気にもそれは明らかだが全体に空気が引き締まっていて硬く清々しくさえ感じられたのは端的によく眠れたからということなのかもしれないが、あるいはグッズが効いたのかもしれず、そうとすれば大枚はたいた甲斐があったと嬉しくなるが無邪気に喜んでいると手痛いしっぺ返しを食らうと気を引き締め、以後も手抜かりなくグッズを配しつづけた。
それが功を奏したのか否かは即断できないが変なものを眼にすることはなくなり、これで万事解決したと短絡はできないもののさしあたって峠のひとつは越えたと見做せ、一段落して気が抜けたのか非常な疲れを覚えた弥生は休日を寝て過ごすことが増え、いやこれまでも休日は寝て過ごすことが多かったが以前にも増して外出する意欲をなくしてしまい、丸尾らの誘いも体よく断わって、いや実際のところ体裁など繕っている余裕もなく、何かもう駄々っ子のようにイヤイヤと首振ることしかできぬことに呆れつつ、日がなカーペットに横になってうつらうつらしながらしかし尚考えることをやめられないのは、例のものを退治し得たとして果たして退治してしまっていいのかとの懸念があるからで、つまり自身がまだ裏返ったままだとして元に戻す手段があるとしたら再度同条件の元にその身を置くことだろうからで、そのことに例のものが関与しているか否かはたしかに判然としないがそれよりほかに確かめ得る手段がないのならそうするよりほかないと次第にその思いに牽引されてゆき、カーペットの上を転げ廻って呻吟した末に意を決した弥生はグッズのすべてを撤去して今一度共寝すべく佐脇に電話するが、そんなときにかぎって捕まらないのだった。電話しろとメールして待つが電話もなければメールの返信もなく、三日待っても音沙汰がないから痺れを切らして会社のほうへ掛けてみれば出張で大阪だという話で、いつ帰るのかと問えば二、三日は帰らないだろうという答えで、あまりの間の悪さに舌打ちしつつ出張先からだって電話もメールもできるだろうにと訝り、あるいは裏返すという暴挙を為したことに恐れをなしてバックレているのかとも考えるが、当人にそうした自覚はないように思われるからただ愛想を尽かしたというだけなのかもしれず、そうとすれば未練たらしく追い縋るのは弥生として考えられないし、むしろこっちから切り捨ててやりたいところだが、現況を鑑みればそれはやはり得策ではなく、一切を明らかにせねば縁も切るに切れないとその歯痒さに気を揉み、身悶えしつつカーペットをゴロゴロ転げ廻るのだった。掃除機を掛けたのはつい昨日のことなのに妙に埃が舞って喉にいがらっぽく、そんなことにはしかし構わず転げ廻っていたらテーブルの脚に強か頭をぶつけ、フッと我に返って身を起こすとしばらく茫と坐り込んでいたが、日の落ちた外はすでに薄暗く、明かりを灯さない室内はそれ以上に青黒く沈んでいるが、そのことにまるで気づかぬ弥生は尚幾許か茫然と坐り込んでいて、それでも腹が鳴ったのを潮にいそいそと食事の支度に掛かり、レトルトのシチューをステン鍋に空けると肉と野菜を足して弱火で煮込み、冷凍しておいたご飯をチンし、いっしょに薩摩揚げもチンし、ありったけの惣菜とともにテーブルに並べて豪華さを演出してみるが、半分は手つかずのまま冷蔵庫へ戻され、それはまあいつものことだが洗いものを終えるとまただらしなくカーペットに横になり、転がるのはしかし控えて端のほうの解れて毳立ったところを揉みほぐすようにまさぐっていたが、どうにも気が晴れず、佐脇めと幾度か口走ったりしながら長々と湯船に浸かって佐脇めと何も考えず、そうしてフロから上がると火照った体を冷ましながら、それでいて体は逆に熱を帯びてゆくように意識されるなか深夜番組を佐脇めと眺める弥生はそこに映る光の明滅に何かしら感興を催したりするが、曖昧なままにどこやらへそれが消えてしまうと長い吐息をついて床に就いたのだった。佐脇め。