危険な賭けだという真っ当な認識はありながら、ためらったら負けだとの変な気負いが兆しもし、その根拠のない気負いとともに扉のほうを睨めつけるとそれに応ずるかに扉が振動し、気合いでも入れるかに佐脇めと低い呟きを呪詛のように洩らせばまたそれに応えるかに、しかしさっきよりいくらか強く振動し、足裏にまでそれが伝わってきたから少しく怯みはしたものの退くわけにはいかないと一歩前へ弥生は踏みだし、さらに半歩踏みだし、心持ち足指に力を込め、冷蔵庫の扉にあるようなその鈍色の把手に触れ、触れると振動は止み、次いで押し下げた把手を手前に引くが扉は開かず、逆かと押すと扉は開き、そしてその向こうには階段が、手すりもステップも錆が目立って今にも壊れそうな階段が右下方へ伸びていて、下からは生ぬるい風が吹き上げてくるがヴァニラの香りが微かにし、その香に誘われるように半身を乗りだして下方を覗き込むが灰色の闇に紛れて何も見えず、どこか遠方で空気の擦れるような音がしているその薄気味の悪い扉の向こう側へ弥生はさらに一歩踏み込むが、カビ臭い自室から逃れたいとの思いもあったからだろう、早く早くと急かすように振動する扉になかば踊らされるように体が動きだし、ステップへ足を下ろすとゆっくりと体重を掛けてゆくが掛けただけステップは沈み込むようで、それでいて柔らかな感触なのではなく、固い金属に足裏は触れているのだがゴムのようなスポンジのような弾力のあるものの上に乗っているように感じられ、そういったちぐはぐな感覚のせいでひどく歩きにくく、下りるほどにヴァニラの香りは強くなるが闇もそれだけ濃くなってゆき、足元のステップさえ見分けられなくなって探り探り踏みださねばならず、途中で顛落するようなことにならないかと懸念する。暗いのは明かりがないからで、それでも真の闇ではないから眼が馴れてくれば足元も見え、見えれば足の運びも軽やかに、とは言えぬまでも安定して運べるようになるし周囲に眼を向ける余裕も出てくるが、ただ灰色の闇が拡がっているだけで何が見えるというわけでもなく、いや、遠くのほう、というか距離感がひどく掴みにくいため近さ遠さといった判断はつきかねるが、視像のみ際立つ有りようから近さをよりは遠さを喚起され、そうしてある距離を伴って感覚される何か瞬くものをふと認め、いや何かあるはずと意識した途端に輝きだしたようにも見え、たしかなところは分からないが風のなかでゆらめくようにそれはチカチカと瞬いている。どこか蚊柱めくそのチカチカは明かりもないのに反射していて、あるいは反射ではなくそれ自身発光しているのかもしれないが縦に長い形が伸びたり縮んだりしながらキラキラと輝いていて、あまりそっちのほうばかり見ているとただでさえ不安定なステップを踏み外すと気にはしつつも下りることに集中すれば、なかば閉ざされた視覚に代わって聴覚が冴え渡り、それまで届かなかった音が、認識の手前で排除されていた音が、篩に掛けられ、ザワザワしたノイズめくものながら鼻腔に拡がるヴァニラとともに膨らみゆき、何かブツブツと唱えているそれは呟きのようだが、そんな呟きを洩らすヤツなどほかにないと眼を凝らせば小さな粒々のひとつひとつは二枚だか四枚だかの羽根を上下に震わせているらしく、それが光の明滅として認識されたのだと分かってしまえばなんてことはなく、とはいえ一羽一羽のそれは小さなものでも寄り集まれば大音声で、それでも風に流れて聞こえてくる盆踊りの歌声めいて届いたり届かなかったりし、立ち止まって耳を傾けるほどのものじゃないだろうから注意を向けてはいなかったが不意に耳許で囁かれでもしたようにハッキリと聞こえたその声は「お前を裏返してやる」と叫んでいて、その意を解した弥生はちょっと足を止めて蚊柱のほうを注視するが声の言う「お前」の指示対象が弥生か否かは定かじゃないし、いかにも間延びした響きに呪詛のような不穏さもなく、遠目に見えるその瞬きの闇に照り映える様子が美的と言えば美的なこともあってそういった不穏さは掻き消されてしまっていて、そのため何をほざいているのだろうといった程度の認識しか持てず、仮にその叫びが弥生に対して叫ばれているとしてもすでに弥生は裏返されてしまっているはずだからそれ自体意味を為さないし、その意味のなさには苦笑するほかないが、裏の裏が表だとすればここで裏返されてみるのも手かもしれぬと考えた弥生は裏返せるものなら裏返してみろと遥かな蚊柱へ向かって叫び返しそうになり、そうした安易な選択はしかし却って危険だと踏みとどまって横目に眺めつつやり過ごす。
煌めく蚊柱は次第に光を弱めてゆき、ついには薄闇のなかへ消え入るかにその挑発的な叫びも届かなくなるが、弥生の無視が効いたわけではなく、単に風が強くなったからで、強風に煽られて四散した煌めくイチモンジセセリの群れは今やひとつかふたつの光点として辛うじて視認できるのみとなり、そのウザい声に煩わされることなく階段を下りてゆくことができると少しく安堵するが、声による直接的妨害は途絶したものの間接的弊害は尚残り、つまり耳内に残響する声が弥生を幻惑するのだったが、それも一時的なもので強風によって一層ひどく階段が軋みだすとその軋みのほうに必然神経は向けられ、耳内に居坐る声をそれは掻き消してくれるが、いつ崩落してもおかしくないような不快な金属音に弥生は焦慮し、危険を感じたら屋内へ戻ればいいと考えていた自身の浅慮に今さらながら腹を立て、というのももう何階分くらい下りてきたかしれないがその間建物への出入口がひとつもないからで、今さら戻ることもできないから下まで下りるしかないと慎重且つ速やかにステップを踏み締め蹴り上げる弥生の気息はその思惟とともに徐々に乱れてくるが、一向に下へ辿り着かないしちょっと首を伸ばして覗いてみても靄掛かったような灰色の幕に遮られて地面は全然見えないから本当に地上へ、それが存在するとしてだが、下りられるのか疑心が兆し、そうした疑心は不安を煽り立ててその足どりをさらにも狂わせ、錆びついたステップに何度も足を取られそうになるし、その度に身を竦ませるのだが逸る気持ちを抑えることはできず、息を切らしながらも休むことなく弥生は下りつづける。それでもなぜか疲れることがなく、体力に自信などないがいつまでも下りてゆけそうな気がしてしまい、そうした短絡は予期せぬ事態を招くと危惧しながらも勢いよく駆け下りる自身の身軽さに過信し、どこまでも下りてやると意気込みも新たに力強くステップを踏み締めるが、そうした意気込みとは裏腹に、いや、そうした意気込みを懐いてしまったがゆえにというべきか、呆気なく階段は尽き、錆びた鉄のそれとは異なる感触を足裏が捉えるとともに見たことのある狭暗い通路に弥生は立っていて、いや歩いていて、青白い照明を受けてやけに生気のない人らの、というか影らの、腰掛けた膝の間を縫うようにして通路の奥へ向かい、鉤の手に幾度か曲がった先の、そこだけ陰のように沈んだ一角にぽつんとひとつだけ置かれた丸椅子に腰掛けると、薬品臭い臭気に眉顰め、院内の猥雑な気配のなかで孤立感に浸されながら待つともなしに待っていた。