それからまた長いこと待ち、いや長いといってもおそらく一時間に満たず、話し相手の不在によって相対的に長くなったということだが、一向に呼ばれる気配のないことからもう帰ろうかと立ち掛けたところでやっとアナウンスが入り、無視して帰っちゃおうかと一瞬考えるがそうもゆくまいと指示された診察室へ迷うことなく赴くと、不機嫌な面持ちの医師が迎え、斜めに傾げていた首をゆっくりと起こしながら大きく広げた膝の間に置かれた丸椅子に掛けるよう促し、腰掛ける弥生の右手を掴むと早速診察をはじめるが、それが診察か否かがすぐには諒解できず、というのも経過を診るその目つきは真剣そのものなのだが手つきは相変わらずいやらしさに満ちているからで、その真剣さを欠いた手つきに嬲られながら真剣な眼差しを向けられるとどうしていいか分からなくなるが、非協力的と思われても治療に差し障ると怺えるほかなく、ちょっと動かしてみろと指示された指を弥生は動かそうとするがなぜか思い通りに動いてくれず、関節は固定されてしまったかに固く強張り、指はヒクヒクと痙攣するかに震え、今の今までこんなことはなかったのにと無理に力を込めるとギシギシと変な軋みをあげて壊れそうで、それを見た医師は看護婦に何か指示を出すが弥生が尚も力任せに動かそうとしているのを見てとると無理して動かしてはいけないといつになく険しい面持ちになる。何やら器具を手に戻ってきた看護婦から当の器具を受け取った医師は固くなった弥生の関節部分に器具から突き出た細長い突起の先端を宛い、ゆっくり器具を傾けながら機械に油でも差す要領で薬液を注入するらしいが巧くいかないのか何度か失敗し、その度に突起の先端から琥珀色したローション状の液体が零れ、弥生の手首をそれは滴り落ちるが看護婦がガーゼで丁寧に拭きとってくれ、医師は笑って胡麻化しつつ尚も格闘するが何度やっても巧くいかないので代わって看護婦がその任に当たり、こちらは馴れているのか一発で注入に成功する。これって案外難しいんだよねと言い訳めいたことをひとり呟きながら気持ちを切り替えるように一拍置いてからオクターブ低いトーンで医師は本題に入ろうとするが、先の失態が尾を引くのでもあるらしくその解説を一齣(ひとくさり)、専門用語も交えた小難しい理屈を交えて得意げに述べ、それからようやっと、それでもちょっと言いにくそうに相手の反応を窺い窺いするようにして今後の経過次第では裏返す必要があるかもしれないと告げ、そう告げられた弥生は話の流れが掴めなくてただ曖昧に頷くことしかできないが、そうした患者の戸惑いは先刻承知というように優越的な笑みさえ浮かべる医師は畳み掛けるようにその処置の有効性を説きだし、自身の硬くなった関節を再度動かそうと集中していた弥生はしかしその弁舌をあまり訊いていなかった。
弥生の手元をしばらく医師は眺めていたが、その手を取って注意を向けるとゆっくりと動かしてみるよう指示し、言われるまま油を差されたように鈍く輝く自身の関節に少しずつ力を込めてゆくが、ギシギシと不快な音を立てて軋むばかりで少しも曲がらず、それどころか感覚までもがぼんやりと鈍ってしまっていることにちょっとうろたえ、さっきのローションは潤滑油とか何かそういった薬じゃなかったのかと訝っていると、何かしましたかと怪訝な眼差しを医師は向け、さらに覗き込むように顔を近づけて何かしましたねと念を押す医師は笑みこそ浮かべているが眼の奥は笑ってないしニギニギする手つきはいやらしいしで返答に困り、いや、後ろめたいことは何ひとつしてないんだから正直に答えればいいのだと何もしていない旨答えると、何もしないのにこんなになるはずはないんですよと医師は眼を細めてニギニギし、ニギニギされながらしてないもんはしてないと心中で抗弁するがもひとつ強く抵抗できず、弥生のそうした態度から御しやすい患者と見做したのかニギニギするその手つきがさらにもいやらしさを増し、それには生理的な嫌悪を感じて反射的に手を引っ込めると引き攣ったように痙攣する双眸を弥生のほうへ向けた医師は「何かしたでしょう」といくらか問い詰めるふうに語気を強めるが、何の心当たりもないから首を振るしかないのだった。諦めたように吐息を洩らした医師は今後の治療について説明するがどこか投げやりで、ダメな患者を見限るかのようなその態度に少しく憤りを感じながら見限られるようなことは何もしてないのにと自身の右手を凝視していると、徐ろにまた右の手首を強い力で医師は掴み、次いで今一方の手で右の手を握手するように掴み、何をするかと思えば掴んだその手を螺子のように廻しだし、そうして限界まで廻しきるとゆっくりと引き抜きに掛かるが、そんなに簡単に外せるものなのかと訝り見ていると何の抵抗もなく弥生の右の手はその手首から離れてゆき、その際神経なのか血管なのか粘膜なのか細く糸を引くのが痛々しいが痛みはほとんどなく、辛うじて繋がっていたその糸を切るように完全に引き離すと外した右手の剥きだしになった関節部分をしばらく医師は眺め、カルテに何か書き込み、その間もニギニギすることはやめないが神経を断たれてしまったそれから感覚を得ることは最早できないのだった。次いでこれはもう不要だというかに弥生の右手首を背後へ放り投げるが何かゴミでも捨てるようなぞんざいな扱いで、いや実際ゴミなのかもしれないが短期間とはいえ自身の体の一部として機能していたものをそんなふうに扱われるのはちょっと不快で、緩やかな弧を描いて飛んでゆく自身の右手だったものをあああと呟きにならぬ呟きを洩らしつつ弥生は眺めやるが、最後まで見届けようというつもりはなく、それでも視線は自然とそれを追い、ベチャッという粘着的な響きとともにそれが壁に貼りつくとその衝撃と痛みが想像されて少しく顔を顰めもし、そして貼りついたままそれが落ちてこないから眼を疑うが、よく見るとその壁には他にもいろいろ身体部位が付着していて、レリーフの施された洒落た壁面と思っていたのはそうして廃棄された誰かの身体の一部だったらしく、少しずつ取り込まれているのかそのほとんどが壁と一体化しているが比較的新しいいくつかはまだ生々しい形を晒しているのが見てとれ、殊更それらを不快とは思わぬもののマジマジと眺め入るものでもないとそれから視線を逸らすと太い溜息をひとつ吐く。