友方=Hの垂れ流し ホーム

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08

その掌に弥生が自身の手を持っていって乗せると、赤く腫れた部分に指先で触れた医師は慎重に触診するが、その手のなかで弥生の右掌はゴムのように柔らかく、じっくり煮つけた鰈のように触れるだけで崩れてしまいそうだが、微妙な均衡でバランスを保っているそれは尚つづく触診にプルプルと揺れながら必死に怺えている感じで、そうしていつまでも触診をやめない医師にしかし弥生は懸念を懐き、それから逃れるようにどうなのかと問い掛ける眼差しを向けると触診の手こそ止まったものの訝しげに唸るばかりで捗々しい答えは返ってこず、端から期待などしていなかったが医師のあからさまに困惑した様子にはちょっと戸惑い、そういった面での不安というのは案外治療に響くものだとさらにも不安を掻き立てられ、尚執拗に問い掛けてもそうですねと気のない返事が返ってくるだけでひとり考え込むふうの医師に弥生は不信を募らせながら自身のほうへ引き寄せるようにして軽く右手を持ち上げると、骨まで軟化してしまったのか自重を支えきれずに手首からダラリと垂れ下がる恰好になり、甲の辺りの肉が悉く指先へ流れて辛うじて皮膚がそれを支えているといった具合で、伸びきったその五指は使用済みコンドームみたいになっていつ破れてもおかしくないくらいだが、力も全然入らないしどうなっているのかと不安げな視線を向けると医師はしかつめらしい顔をして口のなかで何かゴニョゴニョと呟きながらカルテに記入するのに忙しく、そうして眼を離している間にゴム掌が少しずつ指先から溶けだしてきたから猶予ならぬ事態だと「あの溶けてるんですけどあの」と絞りだすように告げると、その上擦った声にようやくカルテから視線を上げた医師はちょっと弥生の表情を窺ってから気疎げに手のほうを見遣り、粘液状のドロドロしたものがその指先から滴り落ちているのを認めると「ほう」と感心したように頷き、重心を左のほうへ移してふり返るとどこやらへ顎をしゃくる。すかさず駆けよってきた看護婦がその手の下に受皿を宛って滴り落ちる弥生のとろけた肉をそれで受け、そうしてすっかり流れ落ちるまで医師と看護婦と弥生と三人でじっと見守っているが、痛みを感じることはほとんどなく、いや感じないわけではないが痛いというよりはくすぐったい感覚で、医師がくすぐっているのではないかと疑うがチリチリと刺さるような軽い刺戟は皮膚表面のみではなく手の内部にまで及んでいるからそうではないらしく、とはいえ斯かるくすぐったさに顔が綻びそうになり、等しく神妙な面持ちを崩さない医師と看護婦とを前にしてそれはいかにも不謹慎な振舞いのような気がしたから笑うことはできず、それでも医師らの深刻な眼差しに影響されてか滴り落ちてゆく自身の肉を祓うべき汚(けが)れとか汚穢とか何かのように思いなすことはないながら身に覚えのない罪障感に浸されてゆくようでもあり、そうした厄介なものを渡されたことに憤りを覚えないでもないが今のところ成りゆきを見守るほかなく、油売りじゃないが最後の一滴が落ちきるまでにはしかしずいぶんと長い時間を要し、その間弥生は気を揉みつつもくすぐったさに耐えていた。医者ってのは大概そうなのだろうが事態を沈着した様子で、全然大したことないって顔してるから、べつにこの医師に全幅の信頼を寄せているわけでもないのだが、綺麗に流れ落ちた自身の右の手の手首から先がなくなって骨が剥きだしになってしまってもさして弥生は動揺することもなく、そのくせ受皿の中の溢れるほど溜まった妙に発色のいいピンク色した肉が元に戻ると短絡しているわけでもなく、それがいくらか不可解だったが、そういったことは医師の考えることで患者が口出しすることじゃないとでもいうように大人しく坐っていて、それでもいくらかは患部を直視することに限界を感じてもいたらしく、レリーフめいた凹凸のある小洒落た壁面沿いに視線を走らせると、採光のためだろう広くとられた窓の向こうの灰色した空間を、というかどこか平面的で奥行きの感じられない縦長の矩形を、雨が降っているかどうかは定かじゃないが全体薄暗くて寒々しい景を、御しやすい患者と侮られてひどいことされぬともかぎらないから医師らの交わすやりとりには注意深く聞き耳を立てながら眺めていた。

眺めるったって眺めるものなんか何もなく、視線はだから漫然と彷徨っているだけでどこにも焦点は結ばれないが、それでも時折ガラス面の汚れだか何だか分からない筋なり模様なりを辿っていて、そうして自身の目線よりやや上方に位置するガラス面のこちら側ではなく向こう側に一点シミのような茶色い塊を認め、ついさっきまではそんなものなかったと眼を凝らすと僅かだがそれは動いているようで、ガラス越しながら何ごとかブツブツ言ってるのが微かだが届くそれは恐らくさっきのイチモンジセセリと思しく、ウザいと睨めつけても距離があるからかガラス越しだからか動じる気配もなく、といって何か意味のあることをハッキリと述べるわけでもなくただ呟いているだけだから神経に障り、ウザいウザいと口中で唱えたりしてそっちに気をとられていたせいで医師の声を聞き逃したらしく、訝しげな視線を受けてそのほうへ向き直ると痛くないかとそれでも医師はやさしく言い、痛くはないと答えると「ほう」とまた感心したように頷きながらどことなくいやらしい手つきで執拗に患部をまさぐりだし、そこに顔を近づけたかと思うと尚滴る液を嘗めとり、さも旨そうに喉を鳴らして嚥下するがウットリした目つきは医師のものではなく、これはもう診察でも治療でもないとその逸脱に気づいた弥生は手後れになる前にべつの医者に掛からねばならないと密かに決意するが、そう見えたのは思い過ごしで、間近に患部を眺めてはいるものの眺めているだけで嘗めたりはしておらず、そこにいやらしさをよりは熱心さをこそ読みとるべきだと自身の防衛的姿勢を少しく恥じ、そうして患部を仔細に診ながら肩越しに何か指示すると手際よく看護婦らが動き、そのテキパキした動きに感心しているうちにも準備は整うがちょっと眼を逸らしている隙に処置は済んでしまい、見ると医師の手のなかで溶けたはずの自身の右手が元通りになっていて、義手かと訊くとまあそんなようなものだと医師は曖昧に頷き、どういう仕掛けか分からないがそれは前のと寸分変わらない精巧な作りで、いやまったく同じと言ってよく、少なくとも弥生にそれを見分けることはできず、そのあまりの精巧さに保険が効くのかちょっと不安になるが特別キャンペーン中で半額だと言われていくらか安心し、お大事にと送りだされてそのまま帰ってきたものの肝心なことを訊くのを忘れていたと床に就いてから思いだす。訊いたところで真面に答えたかどうかは分からないのだが失念していた自分に腹が立ち、いやそれだってヤツの術中のうちかもしれないしそうやって内側から切り崩そうとかしてるのかもしれないが、そうとすれば尚さら腹は立ち、とはいえ裏返されたり溶けたりと何か自分が自分じゃなくなってゆくような気がし、そのくせ自分じゃそれを全然自覚できないから不快だし、裏だって表だってどっちだっていいじゃないかとそんなふうに大見得切れるならいいが、どっちつかずというのはやはり気持ち的に釈然としないしいいように踊らされているとの思いもあってどうにかして反撃のひとつもせねば気が済まないと腹のうちで何かが滾(たぎ)るのを抑えつつ幾度も寝返り打ち、眠れぬ夜を尚悶々と思惟して一層眠りは遠離る。反撃かどうかは分からないが一応そのための策は整えてあるのだし、つまりグッズにすべては掛かっているということで、それよりほかの如何なる手段によっても解決は為し得ないとそこまで思い込むことはないがグッズへの期待は以前にも増して増大し、それへの期待が眠りのほうへ導いたらしく、すうと意識の薄れゆくのを感じながらしかし尚しばらくは何か思考を巡らせていて、グッズにかかわる事柄らしいがほとんど記憶にとどめていないことから大したことではないのだろうと遡及を諦め、以後顧みることもなかった。



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