そうして風に飛ばされぬようしっかりと原稿を抱え込んでいるものの風は少しも吹いておらず、いやちょっとは吹いてるかもしれないがそれらしい体感はなく、それにも拘らず少しでも力を弛めたら飛んでいってしまいそうな気がするし飛ばされたらおしまいだといった認識があり、いつ芽生えたものか、今この瞬間にかもしれないがずっと前から懐いていたのかもしれず、とにかくそこに綴られた文字の連なりが、うねうねとのたくっている仮名と漢字で構成された一続きの文が、誤記や記憶違いやもあるだろうがそういったものもひっくるめて全部が、それこそが佐脇にほかならないしその名に値するものなのだといった根拠薄弱な思いとともに兆してくるらしいが、その刹那これは選択を誤ったかと後悔の念を懐き、とはいえ今さら後には引けず、後悔の念などというと大袈裟だが何となく居心地の悪い思いがしたというか、嫌な予感がしたというか、胸が騒いだというか、いやそんなに騒いじゃいないが、とにかく前へ進むほかないと腹を決め、といって不断の決意というほどではないが、ただ決めたからには次の一歩をどちらかへ、それが右でも左でもさしたる違いはなかろうが、どちらかには踏みださねばならず、そうしてどちらへ踏みだすか考えた末に踏みだした一歩が右だったか左だったかもう思いだせないが、とにかくどちらかへは踏みだしたわけで、そうしてまた歩きだすと、アスファルトを踏む自身の靴音が、というかサンダルの響きがひどく遠くから聞こえ、歩いているという手応えが、足応えか、徐々に稀薄になり、それこそまるで空を掴むようだとそう思ううちに気配というか匂いというか、何かそうしたものが鼻腔に膨らみ、風に乗って漂い流れてきたのか自身が漂いの中へ紛れ込んだのか、そのいずれかあるいは両方かなのだろうが、未知のものというよりは既知のものらしく、というのもシャンプーだかリンスだかコンディショナーだかトリートメントだか知らないがそうしたものの匂いに頭皮それ自体の匂いが混じり合った、そんなふうな匂いの印象を懐いたからで、とはいえそうした印象それ自体を確たるものと見做す根拠はどこにもなく、眠っていた記憶が呼び覚まされただけなのかもしれないが、そうした記憶があったとすればそれはつまり、まあそれはどうでもいいとして、次いで匂いが形を纏い、次第に淳子さんの肢体へと、それとも姿態か、触れればぬくもりもあるだろうものへと変じてゆくかに、それをしも幻と言えるだろうか、あるいは幻かもしれないが、いや十中八九幻なのだが可能性を信じられなくなったらおしまいだからそれは淳子さんにほかならず、そうとすれば待ちに待ったプレイがついにはじまるのかもしれない、どんなプレイかは知らないが、いや知っているが、とにかく何かしら期待を懐きながらそれが不発に終わることも考慮に入れつつ形ないものから形あるものへと変わりゆくそれを、というか淳子さんを眺め、そうしてどれくらいの時間が経過したのだろうか、無心に眺めていたために感覚が麻痺したようで、まあいつだって麻痺してるようなものだが、さらにはあまりにも一心に凝視していたらしく血が上ったものか眼前に幕でも下りてきたかに四囲が暗くなり、ただ日が落ちただけと言えなくもないが実感としてそれとは異なり、そういえば前にも似たようなことがあったと記憶するが、そしてそのときは辛くも難を脱したようだが、脱したからこそ今があるわけなのだが、今度こそおしまいなのかもしれない、本当に幕が下りてしまうのかもしれない、果して主人公佐脇の運命や如何に、とそんなふうに言うと、いや書くとどこか冗談めくが、かかる冗談で紛らわすことができるほど余裕もなさそうで、そう書き記している今この瞬間にも消えてしまいそうだが、そうした幕切れに対する覚悟も決意もあるわけではないから、まあ全然ないってわけじゃないにしても全体に稀薄だからいきなり突きつけられたらパニクってしまうだろうことは必至で、とはいえそうしたものに予行演習などあろうはずもないし、来るときはいきなりやって来るだろうから、淳子さんのように、だから覚悟のしようもないと言えばないわけで、自ら幕を下ろす場合はそのかぎりではないが自ら幕を下ろす予定は今のところないし、といって飽くまで今のところであって予定が覆ることがないとは言えず、いやそんなことは嘘でも言わぬほうがいい、それより今は淳子さんとの逢瀬に集中すべきだと暗がりに視線を凝らせば、ようやく形となりかけていたものがまた拡散してしまったらしく、匂いも消え果てて靄掛かった視界があるだけのさっきまでの景に戻ってしまい、どうせそんなことだろうと思ってはいたが期待値が高かっただけに落胆も激しく、そりゃないよ淳子さんそりゃないよといつになく悲痛に訴えるが、いやいつだって悲痛に訴えるが、自身の声が虚しく谺(こだま)するばかりでやり切れず、というのも元もと自身の声が、湿り気を帯びた粘着的なその響きが好きじゃないので自分で自分の声を聴くのはいい気分ではないからで、それが四囲の静寂に拡がってゆくのを耳にするのはどうにも耐えがたく、だから徐々に声も弱々しくなってついには消え果てる。
といって佐脇が消え果てたのではなく、虚ろなその声が、糸引くような気の滅入る声がしなくなっただけのことで、前にも言ったように、というか書いたように、自ら幕を下ろす予定はないからで、つまり主人公佐脇は今尚健在で、だからまだまだチャンスはあるだろう、どんなチャンスかは知らないが、いや佐脇にチャンスといえば淳子さんとの目眩くプレイよりほかになく、そうした展開に繋がるものがあるのではないかとだから期待させられ、まあかかる期待は往々にして無碍にされるのが落ちなのだが、だからあんまり期待はしていないのだが全然期待してないってわけでもなく、期待せずに期待しているといった表現が認められるなら期待せずに期待していたと言ってよく、そうした期待に応えるようにか裏切るようにか、あるいは応えると同時に裏切るとでも言えばいいのか、耳の奥で微かに声が、艶(つや)めいたよく通る響きとともに、疑いもなくそれは淳子さんのものだが、というのもそんなところから聞こえてくる声は淳子さんのものよりほかにあろうはずもないからだが、匂やかに膨らんだと思ったらすぐに霞んでノイズと化し、尚その声に耳を欹(そばだ)てながら姿を現してくれるのを待つが現れる気配は全然なく、そうやって気を惹きながら焦らしに焦らすところからしてもそれが、その声が、淳子さんのものだということは明らかだから佐脇はさらにも期待を募らせるが、期待が大きければ大きいほどその期待が裏切られる不安も増大し、それでも尚期待せずにはいられないから困るのだが、というのも淳子さんこそが佐脇を佐脇たらしめているからで、佐脇を佐脇と名指すことができるのもだから淳子さんをおいてほかになく、何の根拠もなくそう思ってしまうことに疑念を懐かないでもないがそう思うことをやめることはできず、つまり佐脇が佐脇であるためにはそれが応えられようと応えられまいとに拘らず淳子さんへの期待を懐きつづけることが不可欠なのらしく、といって淳子さんへの期待は飽くまで淳子さんへの期待であって自身のためでは毛頭なく、そしてそうであればこそ淳子さんだってこちらの期待に応えてくれるのだろうが、くれないかもしれないが、とにかく佐脇は期待しつづけるほかなく、だから期待しているわけだが、そこでひとつ気になったのは淳子さんを淳子さんたらしめているのは何なのかということで、もちろんそれは佐脇に他ならないとそう見做すことができるならどんなに嬉しいかしれないが、やはりそれは不遜というもので、佐脇が淳子さんを必要としているほどには淳子さんは佐脇を必要としていないらしく、少なくともそう見做すのが妥当だろう、なぜといって淳子さんが佐脇の期待に応えることはほとんどないのだから、かかる期待を裏切ることに淳子さんの悦びがあるというのならべつだが、ただそう書くとそうした悦びに淳子さんが浸っているようにも思えてくるが、そしてそれは束の間佐脇を淫蕩な気分にさせるのだったが、一度その点を確認しておかねばならないと佐脇は思い、果してそのような機会が訪れるか否かは分からないが、というのも決定権は悉く淳子さんのほうにあるのだから、ただいざというときに忘れてしまっては元も子もないから、といって物忘れがひどいわけじゃないが緊張したりはするだろうから、というか興奮してしまうだろうから、念のためここに明記しておくのも悪くはあるまい、淳子さんは何によって規定せられているのかと、そう佐脇は原稿にゆっくりと、一文字一文字丁寧に、書きとり練習でもするかに、筆圧も高く書き記すと、満足そうな笑みを浮かべ、とはいえそれもほんの数秒のことで、あるいはもうちょっと長くて数十秒くらいかもしれないが、いずれにしろ長続きはせずすぐに沈鬱な面持ちに戻ってしまい、そうしてどこか翳りのある憂いに満ちた眼差しを路上の一点に差し向け、そのくせ焦点は定かじゃなく、ギクシャクした足どりでいつものコースを、違うコースかもしれないが、自身の前にある道を、どこまでも伸びている舗装された道路を、三叉路なり四叉路なりにぶつかるたびに選択を迫られながら、どこまでも辿ってゆく、というか歩いてゆく、原稿を小脇に抱えつつ、さらさらと靡く髪を掻きあげながら、だからそれは癖なのかもしれないが、いやかなりその可能性は大でもう癖だと断言してしまってもいいような気がするのだが、絶対的にそうだという確信はやはりなく、それが癖だと断言することはだからまだまだできず、それについても今度淳子さんに訊いてみよう、会えればの話だが。
─了─