といってトイレに立ったのでも新たにコーヒーを入れにゆくのでもなく、二、三歩離れた位置から座卓を眺め下ろし、そこで喘ぎ喘ぎ原稿と格闘する佐脇をしばし観察してみたのだったが、一点を凝視したまま、というかどこにも焦点は合っていないようで、ペンを動かすこともなく、いや小刻みに震えてはいるようだが意識的に動かしているわけではないらしく、何か考えているような何も考えていないようないずれともつかぬ面持ちで、それはどこか置物めいて気味が悪く、いやそれほど気味悪いってわけではないが何となく底が知れないというか、いや底は知れてるが自分じゃないみたいで、いやたしかに自分には違いないのだが主体とか自我とかいった囲いからそれは食み出る類いのもののように思え、その意味では自分じゃないのかもしれず、自分なのに自分じゃないとはどういうことだと佐脇は憤慨に耐えぬといった面持ちでそれを眺め下ろすが、そういうことにはあまり深入りせぬほうがいいと少しく距離を取ろうとしたのはたしか先生がそんなことを言っていたような気がしたからで、気分転換には散歩がいいと提案すると佐脇はそれを許可し、ちょうど小腹も空いてきたところだからその前にいつもの定食屋で飯にしようとこれも提案すると同様に佐脇は許可し、岩のように動かぬ佐脇をひとり残して部屋をあとにするが、すでに日は落ちていて辺りは暗く、暗いといっても街灯はあるし家々の明かりもあるし何より月が出ているから暗さをよりは明るさを感じ、そうして暗くて明るい道をいつもの見知らぬ定食屋へ、娘の大学受験が控えているとかいないとかそんなようなことを店主が喋っているのを耳に挟んだことがあるようなないようなその見知らぬ定食屋へ、最初の四つ角を左に次の四つ角を右に、それとも最初の四つ角を右に次の四つ角を左にだったか、あるいは最初の四つ角を左に次の四つ角も左にだったか、もしかしたら最初の四つ角を右に次の四つ角も右にだったかもしれないが、ひょっとすると最初の四つ角を真っ直ぐに次の四つ角も真っ直ぐにだったかもしれず、最初の四つ角を真っ直ぐに次の四つ角を右にかもしれず、最初の四つ角を真っ直ぐに次の四つ角を左にかもしれず、最初の四つ角を右に次の四つ角を真っ直ぐにかもしれず、最初の四つ角を左に次の四つ角を真っ直ぐにかもしれず、とにかく四つ角を一回曲がるか二回曲がるか一回通過するか二回通過するかして、それからは道なりに、さらさらと靡く髪を、風は吹いていたのだろうか、それとも吹いていなかったのだろうか、こめかみ辺りを擽(くすぐ)るそれを掻きあげながら歩いてゆき、そうしてみるとこれは案外癖なのかもしれないとふと思うがそう短絡もできないぞとすぐに思い直し、でもやはりちょっと癖っぽいなと思い、思いながら右の手を尻のほうへ持っていってポケットの膨らみを確認しつつ暖簾を潜り、時間が時間だけにいつも坐る席が塞がっていたためべつの席に着くがメニューのほうは塞がっていなかったのでいつものを頼み、ゆっくりと時間を掛けて食べることを心掛けながらあっという間に平らげると紙幣一枚を渡して貨幣二枚を受けとり、再度暖簾を潜って来た道を、伸縮する自身の影に驚嘆したりしながら髪を掻きあげ掻きあげ戻ってゆき、そうしてコンビニ前を通り掛かったのだがその時点ではまだ寄るかどうか決定されておらず、ひょっとしたら寄らないかもしれないぞ、さしあたって必要なものはないはずだからと考えるが、そのわりに身体は明るいほうへ吸い寄せられてゆき、このままでは寄ってしまうことになりそうだがさて何を買おうか、何か入り用なものはなかっただろうかと思い巡らすもののそうやって不用意に店に入ってしまうとつい要らぬものを買ってしまってあとで後悔するのではなかったか、幾度となくそんなことをくり返してきたのではなかったか、そうした悪癖はどこかでスッパリと断ち切らねばダメだと誓ったのではなかったか、誓うといって何に誓ったのだろう神も仏も信じちゃいないくせに、それでも何らかの決意を以て悪癖を断とうとしたことはたしかだしそうした決意を無駄にするのは癪にも障り、無駄金を使うことにはもっと癪に障り、とはいえさしあたって入り用なものを思いつかないということは入り用なものがないことの証しだと断じるが、そう断じたからとて反証可能性が潰えるわけではないし反証可能性があるかぎり入り用なものもあるかもしれず、入り用なものがあるにも拘らずそれを思いつかなかったばかりに買いそびれてしまうことはどうにも不愉快で、あとになって思いだしたときの悔しさたるやそれはもうたまらなく悔しく、あるいは棚に並んだ商品を具(つぶさ)に見分して廻れば入り用なものを思いだすかもしれないが、それでも思いだすことができなければ入り用なものを購入することができないどころか全然入り用じゃないものを購入する羽目になるかもしれず、なぜといって店に入って何も買わずに出てゆくことなどできないからで、たとえ入り用なものがあったにしてもそれが念頭にないまま店に入ることはだから好ましくなく、うまく思いだすことができればいいが思いだすことができなければアウトなわけで、かかる一か八かの賭けに出ることはやはりできないし賭けを楽しむだけの金銭的余裕があるわけでもなく、それやこれやを鑑みて今日のところは見合わせることにしようと決め、コンビニはスルーコンビニはスルーと自身を鎧いつつあるいは淳子さんになら誓ったかもしれない、それは大いにあり得ることだと思い做し、そうとすればこれはかなり強力な誓いともなるはずだからスルーは決定的で、覆すわけにはいかないとそう思ううちにもコンビニは眼前に迫り、そのガラス張りの店内が明るく覗け、眩しさにいくらか眼を細めつつ何気にそちらを窺い見ると雑誌を手にした淳子さんを発見し、輪郭も鮮明なその立ち姿にあっと佐脇は息を呑み、留守にしていたのでここで時間を潰していたのかもしれず、そうとすれば申し訳ないと慌てて店に入るが棚の前にゆくとそこにはもうおらず、店内を見廻しても姿がないから一杯食わされたと気づき、少しく落胆するが入ってしまった以上もはや後戻りはできないし仕掛けたのは向こうなのだから誓いを裏切ることにもならないだろう、抑も誓いの存否も定かじゃないのだからと気を取り直して奥へ進み、進みながらこれは無駄金じゃないぞと自身に言い聞かせ、そうしてバニラアイス一個を取ってきてレジに置くと財布から何枚か貨幣を取りだし、これは無駄金じゃないぞと受け皿にそっと置く。
それでもいくらか打ち拉がれた思いでバニラアイスの入れられた袋を、その輪っかの部分に左手の親指と小指を除く三本を引っ掛けるようにして掴みとり、右手で受けとったレシートを袋の中に落とし込み、右手に袋を持ち替え、左手に持ち替え、また右手に持ち替えなどしながら出入口のほうへ向かうと表の通りを歩く後ろ姿が眼に入り、またかと警戒しながらも見てしまった以上無視することはできず、急いで後を追うが店を出たときにはもう遥か先を歩いていて、何せ忍者の末裔なのだから、そして一瞬の遅れが成否を分かつのだとすぐにも呼び掛けてみるが気づく様子はなく、早足で追い掛ければすぐに追いつくと踏むがその距離は一向に縮まらず、ユラユラとよろめきながら歩く姿は酔いを表しているようでひどくゆっくりなのにどうしても追いつけず、これを忍者と言わずして何を忍者と言おうか、最初の四つ角を曲がったところで見失ってしまい、次の四つ角まで全力疾走するも右にも左にも正面にもそれらしい人影は見当たらず、その靴音は尚耳に届くのだがその姿を視覚に捉えることは遂にできず、あるいはそれは佐脇の耳の中でだけ鳴り響いている靴音なのかもしれず、いや、そうに違いなく、そうでなければこの現象を理解できないと考え、そうとすれば淳子さんはそこに、佐脇の耳の中にいるのだと言ってよく、四方やそんなところに隠れていようとは思いもしなかったが灯台下暗しというか、神出鬼没のからくりがこれで解けたと合点すると安堵とともに笑みが洩れ、もう走り廻らなくても済むと噴き出た汗を袖口で拭いつつ髪を靡かせる夜風の心地よさに今はじめて気づいたというように空を見上げると、白々と降り注ぐ月光の下、今はもう途絶えてしまった靴音に尚耳を傾けながら逆光に浮かびあがるその凛々しい姿に思いを馳せ、淳子さんとともにあることが、まだその実感はないながら、強く意識され、そのことは佐脇を喜ばせるが、単純に喜んでばかりもいられないのは、その絶対的主導権を淳子さんが握っているということに否やはないが、というかそれは当然としても、監視態勢があまりに厳しすぎてもそれはそれで息苦しいと言わざるを得ないからで、ということはそこに、自身の耳の奥にいつまでも居座られても困るということで、ということはそこから、自身の耳の奥からどうやって出てきてもらうかがさしあたり問題となるわけで、どうやってそこへ潜り込んだかということもひどく気に掛かるしそれはそれで考えねばならないだろうがこの際それは不問に付すことにし、というのもまず出てきてもらうことが先決と判断したからで、自宅アパートへと引き返しながらその策を考えるがこれはなかなかに難しい問題だぞ、温暖化にも負けぬくらい重大且つ深刻な問題ではなかろうか、いやそれほどではないかもしれないが、いったいどんなふうに呼び掛けたらいいのだろうと呼び掛ける言葉を考え、そこにいるのは分かっている武器を捨てて大人しく出てきなさいとでも言えばいいのだろうか、ご両親も悲しんでいるぞとかあたら若い命を粗末にしてはいけないとか、そんなセリフも脳裡を掠めるがかかる紋切型の呼び掛けに唯々と従う淳子さんじゃないことは知っているし、そうかといって無理に引きずり出すことも難しいとなれば、そんなことしたら手痛い反撃を食らうに決まってるし、だから持久戦になるのは必至だが、耳といえば脳のすぐ近くにあって外界の音声信号を伝える器官で、そうした情報伝達をやりとりする場所柄を考えるとあるいはこちらの思念思考も向こうに筒抜けなのではないかといった疑心に駆られ、そうとすればいくら老獪な策を講じたところで意味はなく、策が意味を為さぬなら正面突破するしかないが、佐脇にネゴシエイトする技術の乏しいことが致命的で、弱々しく、ご機嫌でも窺うかに「淳子さん」と呼び掛けることよりほかに打つ手はなかった。