友方=Hの垂れ流し ホーム

09

いや佐脇の眼にはどこだってうら寂れて見えるのだが、前をゆく淳子さんの背中を眺めながらその颯爽と歩く姿に惚れ惚れし、決して離れまいどこまでもついてゆきますと密かに思うのだったが、そうした佐脇のラブラブ光線は総じて疎ましがられ、背後からの密やかな熱意もたちどころに察知してしまうらしく振り向きざま鋭い視線を飛ばした淳子さんは不意に身を翻すと闇の中へ消えてしまい、その尋常ではない敏捷さに、何せ忍者の末裔なのだから、追い縋る隙もなく、ひとり佇立する佐脇の落胆の吐息がうら寂れた路地裏の闇に白く漂い、それはしかしすぐに消え果て、そのせいか闇はその深さをさらにも増したようで、そしてまたひとりになった佐脇はどこかへ行こうとしていたのだが、いや、行こうとしていたのではなくて実際どこかへ行ってきたのだったか、というかいつだってひとりなのだがごく稀にふたりのこともなくはなく、このときはひとりだったがふたりのことだってあるにはあるのだと座卓に突っ伏して一夜を明かした佐脇だが、心地よげにも魘(うな)されているようにも見えるその背中を背後からそっと眺め下ろし、どのくらい眺めていたか知らないがずいぶん長いような気もするし短いような気もし、起こしては悪いと静かに後ずさると手早く身支度を調え、身支度といってジャケットを羽織るだけだが、そうして扉の開閉も慎重に部屋をあとにすると目的もなく歩きながらさてアレが眼を醒ますまでどこで何をしてやり過ごすかと思案するが、朝の日差しは強く眩しすぎてクラクラし、足どりはそれでもしっかりしているし一歩ごと歩調も早まり、まだ開いていない定食屋の前を通りすぎ、ずっと開いているコンビニも素通りするとものの数分で自宅アパート前へ戻ってきてしまい、再度同じコースを、いや違うコースでもいいが、とにかく今一度歩いてくる気力も体力もなさそうで、だらしないわねえと嘆く淳子さんの声が聞こえるようだが、いやたしかに聞こえたようだが姿は捉えられず、その声に励まされたことはたしかだが強烈な、といってさほど強烈でもないのだが佐脇には怺えがたい朝の日差しには勝てず、それでも少しく逡巡するがやはり観念して部屋へ戻ると座卓の前へ頽(くずお)れ、そうして午後の遅い刻限まで決して深くはない眠りを眠るのだったが、隣室に蒲団はあるのだからそれを使えばいいのにあまり使用したことはなく、というのもダニがいるらしくて寝るたびに刺されて痒くなるからで、しかも代謝の衰えか刺された痕がいつまでも消えずに残ってしまうこともあって、そんなことを気にする質でもないのだが何となく気になってそこで寝る気がせず、干すなり掃除機を掛けるなりすればいいのだがそのうちにと思ってもすぐ忘れるし、座卓だとよく眠れないとか寝苦しいとか身体の節々が痛むとか、そういった不都合もさしあたってないし、あってもせいぜい涎で原稿を汚すくらいだがこれは草稿にすぎないしまだまだ推敲せねばならないだろうしいずれ清書するつもりだし、しないかもかれないが、それに必ずしも原稿を枕にしているわけではないから寝るたびに汚すということもなく、そういうわけで不都合と感じてはおらず、そうして幾時間かをたっぷり、でもないが、そこそこは眠って三時四十分に眼を醒まし、まあいつだって三時四十分なのだが寝覚めは悪いほうではなく、といって気分はいつも低調で、そういうところが淳子さんの癇に障るのでもあろう、その時間帯に、というのは起きぬけのということだが、来てくれることはまずないと言ってよく、だからかどうか知らないがひとり鬱々と今日という一日を迎えたことを、代わり映えのしない一日がまたはじまるのだといった諦念とともに呪ったり呪わなかったりするのだった。

バカみたいとそれを歯牙にも掛けぬ淳子さんはいつだって溌剌(はつらつ)としていて、そんなふうになりたいとは思わぬながらちょっとだけ羨ましくもあり、一遍くらいは誰かを頤使(いし)してみたいものだと大それた思いを懐いたりするが、分がすぎるというか性に合わないというか仮にそうした機会が訪れたとしても、万訪れることなどないだろうが仮に訪れたとしても、行使することなく辞退してしまうに違いなく、そんなわけで約(つま)しい生活を余儀なくされているとか悲観することはないにしろいくらか僻みっぽいところがなきにしもあらずで、だから愚痴ばかりを書き連ねてしまうことにもなるのだが鬱積する一方で捌け口がなければ精神衛生上宜しくなく、専ら食べることがその捌け口になってしまっていることを気に掛けてはいるものの控えることは難しく、なぜといってバターとジャムをこってり塗りつけたトーストを頬張りながらどうしたらそれを控えることができるかなどと考えることは抑も不可能だからで、だから淳子さんの存在がなければ肥満街道驀地(まっしぐら)と言ってよく、まあ淳子さんに言わせれば今だって充分肥満体かもしれないが、ということは淳子さんはデブ専なのか、たしか前にもそんなことを訊いてみたことがあるが、そしたら違うわよと即座に声を荒げたけどその慌てようからして怪しいと睨んでいて、でもそれならなぜ間食を控えさせようとするのだろう、あるいはある種の擬態かもしれず、たしかに余分な菓子類は跡形もなく消えてしまったが補充しようと思えばできるわけで、その辺は佐脇の意志に掛かっていると言ってよく、口ではダメダメと言いながら徹底した管理を行っているようには見えないし単にそうしたポーズを装っているだけのようにも思え、言ったら怒るだろうから言わないが淳子さんはデブ専かもしれないと今では半分くらい思っていて、とはいえこれはあくまで推測であって確証はなく、というか全然的外れな思い込みにすぎぬかもしれないし、淳子さんに好かれたい好かれてるんじゃないかというような甚だ不遜な考えを懐くとともにまったく自分に都合のいい解釈をしているということも弁えてはいて、所詮人の頭の中なんて分かりっこないのだ他人のだろうが自分のだろうがとそんなふうに考えながら甘いコーヒーを飲み干した佐脇は底に残った砂糖の塊に苦笑せざるを得ず、それでも充分に血糖値を、淳子さんなら必要以上にと言うところだろうが間食は控えているのだからこの程度は大目に見てほしく、とにかく血糖値を上げてから仕事に取り掛かるのだが、血糖値を上げたからとて筆が進むわけじゃないし反古が増えるばかりで思うように捗らないのもいつものことで、それが困難な事業だということは当初から想定していたつもりでもここ最近の惨状を思うにつけ例の無意味な会議以上に無意味なことではないかと挫けそうになり、そうなると電池の切れたリモコンみたいにどこを押しても反応がなく、ただ時間だけが過ぎてゆくというようなことにもなるわけだが、そんなときに待ち望まれるのが淳子さんの登場で、こちらの期待通りに現れてくれることなど滅多にないとはいえ全然ないわけではなく、十中八九来ないと分かっていても一、二の可能性に期待を掛けてしまい、そうして淳子さんを待つという時間は佐脇にとってそれなりに有意義な時間ということにもなり、だからそれはただ座卓の前で寛いでいるだけだと言えなくもなく、たしかに寛ぎの空間ではあるのだが同時にそれは耐えがたい責め苦でもあり、そう言うと寛いでるのか苦しんでるのか分からないかもしれないが、言ってる、というか書いてる本人もよく分かってはいないのでここは聞き流して、いや読み流しておくことを勧めるが、あとになって明瞭になれば、もちろんなったとしての話だが、そのときにまた書くかもしれず、いや書かないかもしれないが、そうして寛ぎの且つ責め苦の時間を、空間をか、まあどちらでも同じことだが、やり過ごし、やり過ごすのだったが、あなたにはそれがお似合いよと嵩に掛かった物言いの、そのくせ至極穏やかな笑みを含んだ眼差しとともに、声になるかならぬかの吐息めいた呟きをいつだったか聞いたようにも思い、いや今まさに耳朶に響いたものとしてそれを聞くが、似合いだろうが不似合いだろうがこの難事業を放棄することは考えてないし他にすることとてないのだから無駄ではないはずと二杯目のコーヒーを啜りながら佐脇は原稿を引き寄せ、マグカップを置くと早速その難事業に取り掛かろうとするが難事業なだけに気分が乗らず、白い、いやそれほど白くはない紙面に文字ではない湾曲した線を、長いのや短いのや太いのや細いのや中くらいのや、そうした線を単独であるいは複数組み合わせて引いたりしてもそれら無作為に引かれた線に感興を催すことはなく、いや何某か絵のようなものを構成しそうな瞬間がないでもないが元より絵心がないからそれら線の集合が抽象から具象へと昇華することは遂になく、そうして落描きで埋まった紙を手でクシャクシャと丸めてゴミ箱目掛けて放り投げるとちょっと心地よく、そのどこか昭和の文豪めく身振りに興が湧いて次々丸めた反古をゴミ箱へ放り込み、束の間昭和の文豪気分を味わうが元より昭和の文豪ではないし、抑も昭和の文豪なんて知らないし、いやちょっとは知ってるが大して知らないし、漱石くらいか、いや芥川か、まあ何でもいいがほどなく興は薄れ、興が薄れると一気に呆けの進行した年寄りみたいに脱力し、失語にでも陥ったように何も書けぬままコーヒーを三杯も四杯も飲み、そのせいか五回も六回もトイレに立ち、その行き帰りにそろそろ来る頃かといった予感めいたものを意識するが勘はいいほうじゃないから当てにはできず、それに気紛れな人だからこちらの期待など易々と裏切ってしまうし、そういうわけで淳子さんは現れず、間食しちゃうぞと牽制してみてもどうぞとばかりに静まり返っていて反応はなく、今日はもう来ないかもしれないと思うがそう思わせておいて不意打ちを狙っているのかもしれず、あるいはもうすでに来ていてどこからかこちらの様子を窺っていることだって考えられ、たしかにそれはありそうなことで、佐脇が何かヘマをやらかすのを待っているのかもしれず、そうして何かとんでもないヘマをやらかすとこっ酷く叱りつけるかバカ笑いするかするのだが、そうとすれば手っ取り早くヘマをやらかすという手もなくはなく、ただこちらの意図したそれは淳子さんの意図しないそれだろうから下手をすると怒らせてしまうことにもなって却って宜しくないと慎重になり、というか淳子さんを出し抜こうなんて土台できない相談なのだからこちらから先手を打つことは諦めるほかなく、そうしてまた原稿を引き寄せると無理にも何かを捻りだそうとペンを走らせるが長いのや短いのや太いのや細いのや中くらいのや真っ直ぐのや曲がったのやギザギザのやぐにゃぐにゃのや、そうした線が離合集散するだけで文字とはならず、もちろん絵にもならず、クシャクシャしたそれをまたゴミ箱へ放ると不意に座卓を離れる。

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