まあ違っていようが違っていまいが尻がベンチから離れたがっていることはたしかなようだから、というのも背中のほうへ分散していた荷重が今やすべて尻に掛かっているからで、耐えがたいほどの重みではないにせよ痩身にはいくらか骨に響き、さらには硬い木肌と己が骨とに挟まれて薄い尻の肉が悲鳴を上げてもいて、どんな悲鳴かは知らないが、そんなわけで上体をさらに前へ傾けて重心を移してゆくが、もちろんそれは地を踏む足のほうへ、同じ形のブロックが整然と並べられたその上に爪先を外側へ広げるようにして逆ハの字の形に開いた足のほうへだが、たったそれだけのことで骨が軋むような嫌な音が聞こえるようで、というかたしかにそれを耳にして、といってそれが骨の軋む音かどうかは分からないが、案外靴が砂利を噛んでいるだけなのかもしれないが、それでも危惧を懐くには充分で、だからこのまま勢いよく立ちあがっていいものだろうか、膝周りの腱だか靱帯だかが引っ掛かるか何かしていて、どんなふうに引っ掛かっているのかは知らないが、あるいはまったく引っ掛かってなどいないのかもしれないが、とにかく筋の収縮に伴い激痛に襲われるというようなことにならないだろうかと訝り、そしてそうした思いに囚われてしまうともう立ちあがることができなくなり、実際そうした思いに囚われて尚立ちあがることのできる者などいるだろうか、いるかもしれないが、それでも思いきって立ちあがってみれば案外苦もなく立ちあがれるのかもしれず、というのも普段は意識することもなくそうしたことを、立ったり坐ったりというような動作を、曲げたり伸ばしたりといった動きを、何の苦もなく行っているのだから、敏捷であるか鈍重であるかはべつとして、いや以前にもそうやって何事もなかったように立ちあがって、潮が満ちるようにひたひたと打ち寄せる訝りをなかば無視して失敗したのではなかったか、踞(うずくま)ってしばらく動けなくなるほどの痛みに苦しんだのではなかったか、関節に水が溜まったかしてひどく腫れあがってしまったのではなかったか、腫れが引くまでに何日も要したのではなかったか、その間立ち居に難渋したのではなかったか、そのため周りに心配されて、というか訝られて却って困惑したのではなかったか、だからなかなか踏ん切りがつかないらしく、立とうか立つまいかと思案に暮れ、いや立たないわけには行かないのだから立とうか立つまいかではなく如何にして立つかが問題で、それにはやはり膝に掛かる荷重を分散する何か支えが、たとえば杖のようなものが、棒状の、硬い、できれば丸みを帯びていて手に馴染むものが、何かそうしたものが必要だろうが、そうした丸みを帯びた硬い棒状のものを持ち合わせていないとなれば自らの足で立つよりほかなく、というか自分の足で自分の身体を支えることくらいできるはず、これまでそうして自分で自分を支えてきたのだから、もちろんまだ歩くこともできなかった乳幼児期を除いて自分で自分を支えてきたのだからと自身に言い聞かせ、それでも立ちあがることに尚躊躇いがあるのは、いや躊躇っているというか戸惑っているというか、立ちあがるタイミングをすでに逸してしまっているようでもあり、尻は否と答えるだろうがこのままここに居坐りつづけるか、膝は否と答えるだろうがどうにかしてベンチと尻とを引き離すべきか、尻と膝との間に立っていずれの意に添うべきか、尻をも膝をも納得させる策はないものか、まあそれは無理としても折り合いをつけることはできないものか、とそんなふうにいつまでも考えを巡らせてしまうことでもそれはあきらかで、だからもう立つことは諦めて、永遠にということではもちろんなく、躄(いざ)ってゆくということでもなく、今しばらくはこのままでいようということで、というのはベンチに腰掛けたままということだが、そうして問題を先送りすることで事態が好転するとは思わないが、今しばらくはこのままで、あるいは今一度たゆたうような微睡みの底へ沈んでゆくということも考えないではないが、そうしてその微睡みの内に一切を封じ込めて何もかもを忘れ去ってしまえたらどんなにかいいだろうと投げやりな思いに沈み込みそうにもなるが、それでは問題の解決には至らないだろうし、何よりもう尻が限界にきているし、誰か人が通り掛かるのを待つということも、もちろん杖となってもらうよう、長くて硬い棒状の、三番目の足となってもらうよう頼むのだ、杖にされるほうは災難だろうが、とはいえ杖になってくれというような直接的な表現は避けるだろうが、だからさしあたり自身の陥った窮状を、尻と膝との鬩(せめ)ぎ合いを、あちらを立てればこちらが立たずこちらを立てればあちらが立たないその長きに亘る確執を、そのどちらに傾いても残念な結果にしかならないだろう二択を、だから何か杖的な存在が是非にも必要であることを、それに縋るよりほかないことを、文字通り縋りつくしかないことを、といったようなことも考えないではないが、それもできそうになく、もちろん尻の関係でだが、そう都合よく人が通り掛かるものではないだろうし、何しろ人通りの少ないところなのだから、果して今まで人が通り掛かるのを見たことなどあっただろうか、あったかもしれないが、微睡みの内にあって目の前を過(よぎ)る人影を記憶から消し去ってしまっていることも考えられるし、それが記憶システムの経済性というものだろうが、こちらの意志に反するその選別には少しく憤りを感じもして、それでもそうした記憶システムの経済性を云々することは今措くとして、というのは煩雑を避けるためにだが、そうしてよく見ると大きさも形も異なったものを巧いこと組み合わせてあり、ぴったりと隙間もなく填め込まれているその隙間からは名も知らぬ草が伸び、ということはぴったりと隙間なく填め込まれてはいなかったのか、というのはブロックのことだが、とにかく管理の行き届いていないことが分かるが、それ以上のことは、ここを区が管理しているのかそれとも市が管理しているのかということまでは分からない、それは市でも区でもないかもしれないが、委託を受けた会社の杜撰さを物語っているにすぎないのかもしれないが、というかべつにどこでも構わないが、とそんなふうなことで気を紛らしながら、いやそんなことで紛らすことなどできるはずもなく、何とも脆弱な尻を持ったために、いや尻だけではないが、かかる憂き目に見舞われてしまうほかないことを嘆いても詮ないが、もはや限界に達したということで、というのは尻がだが、だから意を決して身体を倒し、前ではなく横へ、後ろではなく横へ、そうしてベンチの腰掛ける部分に、通常尻を置くところに背を置いて、つまり完全に身を横たえて、熱い湯にでも浸かるみたいに吐息を洩らしながら、また微睡みのほうへ、さしあたりこれで尻からも膝からも文句は出ないだろう、半身を支える労役から解放されて尻も膝も楽にはなったのだから、それがほんのしばらくの間にすぎないにせよ、そのときが来るまでは、というのはいずれ立ちあがらねばならないということだが、それまでは休んでいられるのだから、そのときはしかし確実にやって来るわけで、それでも今はまだそのときではないのだからそれはそのときになってから考えよう、そうして横になると必然視線は空へ、太陽を避けるようにその脇を掠めてゆく薄い雲の点在する空へと向けられ、起きながら見上げる空より横になって見渡す空の広さに何を思うでもなく、というか思う傍から消え果てて、直視できない太陽をこちらも避けるように視線は雲を追い、ひとつの雲からべつの雲へ、そこからまたべつの雲へ、と順繰りに辿ってゆくうちに結局はまた微睡みのほうへ、ゆっくりと、最初のそれよりはずっと浅いところを漂うようにして、ゆっくりとしかし確実に、そうしてすでに微睡みの内にあるのかそれともまだ微睡みの外にいるのか、身を横たえたベンチは深く沈み込んでゆくのか、すり鉢状に窪んだその最深部から四囲の様子を窺いながら瞼は開いているのかそれとも閉じているのか、ここへ向かって流れ落ちてくる雑多な音を聴くともなしに聴いているのかそして聴く傍から忘れてしまうのか、とそんなふうな感覚で、ここはすでに微睡みの内かとだから疑いたくもなるが、そうした疑いの目を持って見ているからには、すり鉢状に窪んだその最深部から窺っているからには、まだまだ微睡みに捉えられてはいないだろう、ここはだからまだ微睡みの外に違いなく、半分くらいは微睡みの内にあるとしても残りの半分は微睡みの外にあるだろう、つまり外と内とに跨ってその両方を、外と内とを等しく眺めているのだろう、そうしてひとつひとつを聴き分けることもできない雑多な音のなかから、複雑に絡み合って解きほぐすこともできない雑多な音のなかからひとつだけ、それはしかし音ではなく、いやあるいはそれも音なのかもしれないが、何か気配のような、匂いと言ってもいい、同じように横になって寝息を立てているのか、それがこちらへ、重い空気の塊を押し退けることができないとでもいうように一歩手前でしかし掻き消えて、僅かに届いたその残滓が降り掛かるのを頬で受けながらそちらのほうへ首を捻ると、寝乱れた様子もなく穏やかな寝顔を真上に向けている姿が闇のなかに仄青く、照り映えるというより自ら発光しているようにも見える、もちろんそんなわけはないだろうが、その姿に息を呑む。