友方=Hの垂れ流し ホーム

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とにかくもう見えてはいないというか人波に押し流されてそれはどこかへ行ってしまったらしく甘い匂いやら目映い色彩やら心躍る呼び声やらそうしたものへの熱い視線やら感嘆の声やらどよめきやらざわめきやらの中に埋没してそれだけを取りだすことが困難になりとはいえ殊更取りだしたいわけではないから埋没するに任せて流されるに任せてそうして勢いよく流れる流れに押し流されてどこへゆくのかそれは知らないがいや知っているがここにもまたオレンジの小さな花弁が仄かに香っているらしく一面に散り敷かれた花弁からもそれは匂い立って近づくにつれて四囲を圧するほどで長い廊下の突き当たりというか曲がり角というか奥まった薄暗い闇の底から匂い立つそれは人ひとり入れるだけの狭い一室と思しく蝶番が錆びているのだろう動かすたびに軋みを立てる扉の向こうには淡い青というか空色というか水色というか角の丸い小石めくタイルが壁にも床にも貼られてあり涼やかというより寒々として長居はしたくないが否応なしにひとりにならざるを得ないそうした空間で一段高くなったところに白い陶製の器というか甕というか奥へ向かって縦長のものが填め込まれているが寸法を間違ったのかそういう作りなのか手前に少し迫りだして角のない湾曲した面を覗かせ明るい配色のタイルとも相俟ってその艶やかな白さに清潔さが溢れていると言いたいが黴だろうか水垢だろうか所どころ黄ばみや黒ずみが見られやはり長居はしたくないと改めて思いながら前のめりに覗き込むと吸い込まれそうでもちろん吸い込まれるのだが吸い込まれて流されるのだが流されて集められるのだが集められて浄化されるのだがそのためには下の段に立ってあるいは上の段に上がってそこに跨る恰好でしゃがみ込んでその窪み目掛けて足すというか放つというか出すというか出るというかとにかく全体としては白さが目立って四囲に与える影響たるや凄まじいものがあると言ったら言いすぎか器というか箱というか置かれているそこへ投げ入れるのだろういや投げ入れるというよりそっと滑り込ませるのだろうというのは貨幣をだがもちろん紙幣でも構わないだろうがそうすると深々頭を垂れるのだろうかそんな場面は一度も目にしたことはないが礼のひとつもするのだろうかゼンマイ仕掛けの人形めく動きで観衆を沸かせることはないにせよそれともそうした光景を決定的瞬間とも言うべき出来事を目の当たりにしたのだろうかつまり円盤状のものがきらきらと輝きながら放物線を描いて器のほうへ吸い寄せられてゆくのをそうして四囲の喧噪の中に聴いたのだろうかつまり金属と金属とがぶつかって立てる甲高い音を響かせるのをとにかくその器だか箱だかには何某かのものが入っているのだろう一晩でどれほどの稼ぎになるのかそれは知らないというのもあからさまに覗き込むのは憚られるからだがそうした施しを糧に日々の暮らしを暮らしてゆくその暮らし振りに思いを馳せると忽ち眼前に拡がってゆきつまり強い日差しの下で右の肩は覆われているが左の肩は剥きだしのオレンジの衣を纏い一切を捨て去るその代わりに何を得るのか強烈な熱さに大量の汗を流しながら首に巻いた布切れがその滴る汗を吸い取ってゆくが追いつかないらしく絞っては巻きつけ絞っては巻きつけしながら無心にというか熱心にというかもちろん修行の成果だろうつまり無限の階梯を一歩一歩上ってゆく弛みない登攀の結果だろうといってどれほどの高みに達しているのかそれは知る由もないが熟達した技術は魔法と区別もつかないというかもはやそれは魔法なのであって誰にでも習得し得るものではだからなく特別に許された者だけが特別に受け継ぐことのできる特別な秘蹟なのであるからしてそれはもう特別でその秘蹟によってというか魔法によってというか生みだされる品々はどれもこれも眩しく輝いて道行く人を楽しませないということはなくだからこんなにも人で溢れ返ってしまうわけでそれら溢れ返る人たちの吐く息吸う息が入り混じり渾然とひとつになって重く垂れ込める通りには熱気が籠って眩暈しそうだが、というか眩暈したらしくぐにゃぐにゃと歪んでいるのが世界のほうなのかそれとも自分のほうなのかそれは分からないが柔らかいゼリーのように溶けてゆくような気がしたのでありとにかく熱気に当てられたのだろう流れを外れてその外側へつまり曲がり角を右へか左へか折れて横道へ踏み込むと途端に闇が膨らんで通りひとつ隔てただけなのにその喧噪も届かないらしくそれこそほんの一歩で異なるステージへと足を踏み入れたようなそんな暗い路地の暗さに四囲は静まり返り空気も一段と冷たくなっていくらか火照った肌にそれは心地よいが肺の中に溜まった温気を残らず吐きだしたあとに吸い込む冷気は鼻腔を刺戟して甘いような苦いような匂いが膨らみもちろん金木犀のそれは匂いであって便所の臭いではないのだがまったく以て違うのだが長らく便所の臭いとして記憶されていたし日々に思いだされもしていたし今もまた思いだしているしこれからも思いだすだろうからかかる観念連合を廃棄することはほとんど不可能と言ってよくつまりそれは便所の臭いというよりほかになくだからその匂いを嗅ぐと薄暗い廊下の奥から漂い流れてくるあの臭いが思いだされるし足元を冷気に包み込まれもして徐々にそれは上のほうへ上ってくるというか足首から脹ら脛へ脹ら脛からひかがみへひかがみから太腿へ太腿から腰へ腰から胸へ胸から首へと上ってついには頭まですっぽりと包まれて震えるほどではないにせよいくらか縮こまりそうして背を丸めて四囲への目配せも怠りなくぴちゃぴちゃと滴る雫をよく拭いもせずに飛びだすというか逃げだすというかそうした身振りによって四囲の闇はさらにも深く濃く垂れ込めてくるらしくどこからか吹き寄せる生温い風を全身に纏って緩い勾配の坂道を上ってゆくのか下ってゆくのかもちろん上ってゆくのだがいずれまた下ってゆくにせよ今は上ってゆくのだが丁字路というか逆ト字路というかそれはもうほとんど隠れて見えないのだからまだ辛うじて目視できるにせよすぐにも目視できなくなるのだからそしたらあとはもう目指す建物が闇の中から現れるのを待つばかりでまあそれは言いすぎとしても気持ちのうえではそれに近く一歩一歩近づいているとたしかに実感されもして闇を見据えるその眼差しにも少しく力が入るというものだが耳を澄ましても自身の靴音よりほかに聞こえるものとてなくその靴音さえ時折意識から遠退いてどこを歩いているのかもちろんそれは把握しているが暗がりに視線を走らせても俄には見定められないというか時間も空間も飛び越えてしまったようなここではないどこかべつの場所とでも言うほかないようなほんの一瞬にすぎないにせよそんな感覚に捉えられて異なるステージへのそれが賭場口なのか否かそれでも足を止めることはなく高らかにではないにせよ靴音を響かせて緩いというかいくらかきつくなった勾配の坂道を上ってゆくのはやはり甘利に違いなくそれが甘利ではないとしたらいったい誰なのか見当もつかないが、いずれにせよ遠くで何か動くものの気配が膨らんで丸いというか縦に細長い楕円形の縁取りが闇の中オレンジに浮かび上がると同時にそこから伸びる一筋の線もオレンジに浮かび上がり少しずつそれが膨張して楕円形から円形へと変化してゆくのはこちらへ近づいてくるからだし近づくにつれて見る角度も刻々変化するからだが最も近づいたときでも正円になることはなく上から押し潰されたようなあるいは横に引き伸ばされたような楕円形に留まりいずれにせよそこで道が曲がっていると分かるのだがその先に拡がる闇の深さ濃さに何がなし臆したように探るような視線を送りながら一歩ずつその闇のほうへ右足と左足とを交互にくり出してつまり右足を上げて下ろし次いで左足を上げて下ろしだろうかそれとも左足を上げて下ろし次いで右足を上げて下ろしだろうか膝ほどの高さを跨いで溢れそうなほどにも満たされた湯に身を沈めて跨いだ縁に一方の腕を凭れてその肘から先がこちら側へ垂れ下がっているがそこに青み掛かった線が肌に透けて薄く浮かび上がり縦に走るその太い線からいくらか細い線が分岐して伸びているが先のほうでさらに分岐してべつの線へとそれは繋がりつまり分岐しては繋がり分岐しては繋がりをくり返しながら複雑な網目模様を形作って全身に隈なく張り巡らされている静と動との二系統からなる流れのその一端が垣間見えるというか透かし見えるというか要するになかば目を瞑りなかば目を開き冷えた身体を温めながら淀みなく溢れ出る声は浴室に谺して無限に反響しつづけているような気さえするがある意味それは無限に反響しつづけていると言ってよく大きくなりこそすれ消えることはあり得そうになく日ごと夜ごとくり返されるらしいそれがいつでもどこででもくり返しくり返し聞こえてくるそれがはじめて耳にするものなのかすでに聴いたことのあるものなのかその判別は困難を窮めるというか抑も判別することに意味があるのか否かいずれにせよ響き渡るそれを何かの旋律のように聴きながら坂道を上ってゆくのは甘利にほかならないが生温い風が吹き寄せると木の葉が擦れ合って立てる音が微かに届きそれまで見えなかった樹木が忽然と現れたような気がするというか忽然とそれは現れたのであって風が吹くまでそこには何もなかったと断言はできないにせよそれでも忽然と現れたのであってそれはもう間違いないのでありそうして風が吹き抜けると忽然と消え去るのであってそれもまた間違いないのでありそうしたことを目の当たりにして身動ぎもできないというのではないにせよ少しく足取りは乱れて車道のほうへ二歩三歩と食みだしてゆきまあ食みだしたからといってほとんど往来の絶えた夜の坂道であるからして撥ねられることはまずないが絶対にないとは言えないから注意するに如くはなくそんなわけで身動ぎすると湯面が小刻みに揺れて波立つが高くなったり低くなったりするその動きに合わせて湯の中にある裸身がおかしな具合に捩じ曲がるというか歪むというか柔らかいゴムか軟体動物のようにあり得ない曲がりかたでぐにゃぐにゃと曲がり歪んでゆきもちろん波が収まれば軟体動物ではなくなるのだがどんな小さな波も起こさないようにすることなどできないだろうたとえ息を止めても鼓動まで止めることはできないのだからつまり絶えず波は立ち湯面も常に波打っていて高くなったり低くなったり高くなったり低くなったりと揺らいで已まず要するに分子というか原子というか絶えず動き廻りぶつかりあっているわけでこれはもう法則と言っていい。

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