とはいえこちらとあちらとの間には黒い帯となって開っているものが、全き闇を展開しているそれはそこを乗り越えてゆく者を引きずり込もうとするらしく、いったいどれだけの影が影たちが消えていったのだろうかを考えるとそこを乗り越えることは不可能とさえ思えてくるが、易々と飛び越えてゆく影の影たちの後ろに控えて躊躇っている暇はなく、次々と飛び越えていった影に影たちにつづいて足を滑らせてゆくと、右のを次いで左のも、闇に呑まれることなく闇を飛び越えることが、当の闇に向けて急所を晒しているというのに、これを快挙と言わずして何を快挙と言おうか、まあそれは言いすぎとしても少しく懐いていた不安のいくらかは除かれて、底深い闇を飛び越えることが、そうして口のなかへ影と影たちと、背後でそれは固く閉じられて、つまり自ら囚われの身となってしばらくは身動きも取れないわけだが、待っていればまた口が開くだろう、だからそれまでは大人しく坐っているよりほかになく、だからそれまでは大人しく坐っていることにする、坐れたらの話だが、とにかく大人しくしているに如くはないと四囲を窺うと、同じく自ら囚われの身となった影が影たちが思い思いの方向へ、とはいえこちらの意表を突く動きを見せることはなく、いずれもありきたりなどこにでもいるだろうような、決して記憶に残らないというか残そうとも思わない、立ったり坐ったり掴んだり凭れ掛かったりというような、何かそんなふうな挙措を、つまりは大人しくしていて、まあそれはこちらも似たようなもので誰の記憶にも残りはしないだろうが、波風立てず人の気を惹かないよう身を潜めているのだから、つまりは大人しくしているのだから、とにかく口のなかはあまり混雑していなかったのでいくつか空隙が、巨体の動きだす前にそのうちのひとつへ腰を下ろすと両脇を影と影とに挟まれて肩身が狭く、果してどちらへも寄り掛からずに耐え抜くことができるだろうか、右へも左へも傾ぐことなく真っ直ぐ背筋を伸ばしていられるだろうか、というのは疲れ果てているからで、尤も両脇の影たちもさらには向かいの影たちもだが、そのいずれの相貌も相応に疲弊した様子ではあって、敗残兵と言ったら言いすぎか、少なくとも勝利に打ち震えているようには見えないしどことなく生気を欠いているというか、それこそ影に相応しい属性というか属性の欠如というか、何かそんなふうな装いで、とにかく座席に浅く掛けて心地よい振動になかば身を預けながら左から右へあるいは右から左へ流れてゆくのを、一定の速さで窓外を右から左へあるいは左から右へ現れては消え消えては現れるのを、そうしてくり返される現出と消滅とに何を思うでもなく、というのは疲れに疲れているからで、だからそれがほんの一瞬止まったように見えたのか、それでも次の瞬間には滞りなく流れだしたのでさして気にも留めず、ところがしばらくするとまたほんの一瞬止まったように見えて、でも次の瞬間には滞りなく流れだして、といったようなことが幾度もくり返されるので気に留めないわけにもいかないがなるべく気に留めないようにして、そうして窓外を流れゆくものを漫然と眺めながら考えるともなく考えているのは、考えているのは、考えているのか、考えているのだろうか、考えるというより考える振りをしているだけではないのか、なぜといって考える余力が残っているようではないからで、というのは本当に疲れているからで、だから何も考えずに窓外を右から左へあるいは左から右へ流れゆくものを眺めながらその間も流れつづけている時間を、刻々と流れて已まない何か継起するものとして、要するに変化に富んでいるというわけで、そうした変化はどこにでもある有り触れた愚にもつかないもので、何か特別な、他に類を見ないというような、そうした装いをしているわけではまったくなくて、すぐ忘れてしまって記憶にも残らない、そうした類いのものなのだが、それでいてというかそれだからこそというか惹きつけるものがあり、まあ惹きつけるといっても意識にではなく無意識のほうにで、いや時折意識にも上りはするがほんの掠める程度にすぎず、だから忘れてしまうのだし忘れたところで何の影響もなく、まあ今のところはということだが、なぜといって将来的にそれがどのように影響してくるのかなどということは誰にも分かりはしないのだから最小のそれにせよ最大のそれにせよそれとも、いずれにせよそれは上昇しているのか下降しているのかそれとも停止しているのか、箱であることに変わりはないし電気も流れているが上昇もしていなければ下降もしていないらしく、といって停止しているわけでもないらしく、絶えず振動していて囂(かまびす)しいモーターの響きが耳を聾するそれはいったいどこへ向かっているのか、もちろんそれについては諒解しているつもりだが何もかも意のままになるなどということは、というのは疲れ切っているからで、だから何も考えられないし右から左へあるいは左から右へと何か継起するものが流れ去ってゆくのをただ眺めていることしかできないのだろうか、いずれにせよモーターの音が幕となり遮蔽となって他のノイズを寄せつけず、それにより継起するものの継起がいっそう前に押し立てられてそこにしか焦点を結べないような、そこ以外はすべてピンぼけになってしまうような、そうした作用が働いてそこに焦点が結ばれてゆくのだが、結ばれた焦点の位置にあって焦点を結ばせている当のものが何なのか、焦点が結ばれているのに像は露わにならないらしく、だからそれが何であるのか、まあそれが何であれさしあたり困りはしないのだが、いつか困るときが来るとしても今は困らないのでそれが何であるのかを問うことはせず、誰にかは知らないが、とにかく目の前を流れてゆくものを右から左へあるいは左から右へと流れているものを吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、影たちとともにしばらくは吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、いや影たちとは何の関係もなくこちらはこちらで吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、あちらはあちらで吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、だからそれは錯覚にすぎないが互いに呼応しているかのように吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、リズムに合わせて吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、絶えず振動しているからだろう、抗うことは困難で、だから無理に抗うことはしないで揺れるに任せているうちにまた微睡みのほうへ、そうして右でもなく左でもなく上でもなく下でもなくただ流れてゆくのを、流れの内にあることを、流れの内にあって当の流れを吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、ところが動いた拍子に流れが変わって、というか動きが止まったことで流れが変わったらしく、四囲のざわめきとともに影が影たちが揺らいで思い思いの方向へ、それにより掻き乱されて渦を巻きながらどこをどう通ってきたのかそれは知る由もないが、とにかくそうして漂い流れてきた何かが鼻先を掠めたような、掠めて擽ったような、風の音だろうかそれとも波の音だろうか、いや違う、ずっと耳について離れないそれはモーターの音で、海鳴りめく響きが耳をずっと、そしてその響きの奥から微かに届く声が、いくつもの声がたったひとつ、いやたったひとつの声がいくつも、咎める声が艶のある声が誘う声が拒む声が導く声が、だから慌てて席を立って細長い舞台へ、何も慌てることはないのだがそうした声が響き渡ると身体のほうが反応してしまうらしく、そしたら背後で口が閉じられて、合図とともにゆっくりと動きだした巨体は波に呑まれてしまってもう戻ってはこないだろう、それとともにモーターの響きも遠く霞んで再び戻ることはないだろう、つまり舞台は静寂に包まれて闇は一段と深く、そこにひとり佇む姿が仄白く浮かび上がってくるのをどこか上のほうから見ているというか見られているというか、そのいずれでもありそのいずれでもないような、ひどく曖昧な捉えどころのない様相として、だからすぐに消えるだろう跡形もなく消えてしまうだろう、いや足跡くらいは残るかもしれないがひと雨来ればそれも流れ去ってしまうに違いなく、だからもう痕跡はどこにも、かつて海だったことを物語るその痕跡はどこにも、その上に立ちその上を歩きながらそこがかつて海だったことに思いを馳せることはもう、いや潮の香りの内に辛うじて、思いも掛けぬ瞬間に吹き寄せるそれは一瞬にして海へと連れ去ってゆくのだから、その上に立ちその上を歩いていればだが、つまりここまでは潮の香りも届かないということで、だからそこがかつて海だったことに思いを馳せることもなく、ひたひたと打ち寄せる闇打ち際とでも言うよりほかないような、闇深い舞台の闇深さに改めて気づかされるというか気づいてしまうほかなく、つまり長居すべきではないと告げられて、誰にかは知らないが、そうして舞台を下りてゆくのだが影が影たちがあちらからこちらへこちらからあちらへ、各自が各自の意志に於いてこちらからあちらへあちらからこちらへ、それら影の影たちの間を掻き分けながら何が見えるのか何を見ているのか、もちろん当の影を影たちを見ているのに違いない、正しく見えているかどうかはべつとして、というかそれがどのように見えているにせよ見えているものを見るよりほかないのだし見えないものは見えないのだから、それとも見えないものが見えているのだろうか見えないものを見ているのだろうか、いやそれはないが、でもあるかもしれず、とにかく影を影たちを、こちらからあちらへあちらからこちらへどこまでも逃げてゆく影を影たちをどこまでも追い掛けていつかこの手で、絶対に捉えることのできない影を影たちをいつかこの手で、ひとつ残らずこの手に、いやそれはないが、でもあるかもしれず、そうして影を影たちを前にも後ろにも右にも左にも従えながら、それともこちらが従ってゆくのか、いずれにせよ影は影たちは縦に細長いフォルムであちらからこちらへこちらからあちらへ自由気ままに、こちらも自由気ままにあちらからこちらへこちらからあちらへ、とそういうわけには行かないがそうありたいものだと下りてゆく、影と影たちとこの舞台を、覆うべくもない彼我の懸隔に少なからず打ち拉がれながらこの舞台を。
─了─