友方=Hの垂れ流し ホーム

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いずれにせよ暇(いとま)を告げてのろくさと腰を上げるが簡素な箱の内にはもう、越していったあとのような静けさに包まれてもう、休んでいるその脇を掠めて足音を立てないよう忍びやかに、吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いてと穏やかな寝息に送られて、くり出す足にそれは一歩ごと絡みつき、いつまでも引き摺って喧噪のなかでもそうした足取りになって、息を殺し気配を消して四囲の静寂を乱さないように吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、そうして誰の目にもとまらず誰にも気づかれず影のように辻から辻を、というかもうそれは影でしかなく、たしかに存在しているかどうかも怪しいものだ、と振り仰いだ空へ向けて投げ上げれば、舞い上がった砂塵がすぐに飛び散ってしまうように易々と散じて跡形もないが、つまりはそのような危うさの内にいていつ消え果てても不思議ではないということで、いやすでに消え果てて僅かにその残滓が漂っているにすぎないのではないか、潮の香りとともに、何かのモーターの響きとともに、穏やかな寝息とともに、そうして何ごとか呟いているだけではないのか、そこにはただ呟きが、誰が聞くわけでもなく誰にも届かない、というか抑も誰かに向けてのものでさえない呟きがただ呟かれているだけではなのいか、二筋の流れに阻まれてそこを越えることができず、その手前で右に折れるか左へ曲がるかして限られた領域の内を巡りながら、かつて遊郭があったというその界隈がまだ賑わいを見せていたころにどこからともなく現れて彷徨う者たちによって呟かれたであろう呟きの余燼が執念く燻っているだけではないのか、いやそれはないが、でもあるかもしれず、いずれにせよ振り仰いだ空は一際高く、手を伸ばしても届きそうにないが、その空の下を漂う呟きが一面に拡がってゆくような、二筋の流れをも越えてゆくような、狭苦しく息苦しい閉塞から一時逃れ得たようなそんな気さえして、足の運びもいくらか軽くなるが、それもいずれは手放さねばならない、というのはそうした幻想にいつまでも浸っていられるわけもないからで、二筋の流れを越えるどころか風に煽られ吹き戻されてしまうのを、失速して足元に落ちたそれが今にも消え入りそうに呟いているのを、あちらにもこちらにも転げていて何か見てはいけないものを見てしまったとでもいうようにその脇を、誤って踏みつけて息の根を止めてしまわないよう注意を払いながら踵を踏み下ろし爪先で蹴り上げて、刻々変化して已まない不定形のそれは仄白く霞んでいるが、その切れ目から覗く穏やかな陽差しを背に受けながら、それが上昇しているのか下降しているのか俄には分からないにせよ、もちろんそれは上昇であり下降であり停止でもあるのだが俄には、それでも見えるものは見える通りに見えないものは見えないなりに把握し把握されて、さしあたり変わった様子はないと少しく背を聳やかし、聳やかしたその分だけ見通しが良くなるわけではないが、これから向かう辻がいくつか、立ち止まって考えることなく一息に駆け抜けてゆけばいずれは、と足に任せて闇雲にではないがそれくらいの勢いで、身に迫る危機がすぐそこまで来ているような、そんなふうな焦りが足に憑いたとでもいうように足に急かされて、いくつもの辻を、辻から辻を颯爽と歩く姿が焼きついて、そうして前になったり後ろへ廻ったり横に並んだりと様々に位置を変えながら漂い流れてくる匂やかな仄青さに寄り添うように傅くように、そんなわけで辻を前にするたびに艶やかな声が響き渡るのを、耳に残るその声を尚も聞きながら、というか聞き流しながらたしかにそれはそうかもしれないと頷いていたが、何がそうかもしれないのか、それについては措くとして、というのは煩雑を避けるためにだが、とにかく流れは滞っていないのでどこまでも流れてゆきそうで、そうしてどこまでも流れてゆけばいつか二筋の流れをも越えてゆくような、自由にどこまでも飛翔してゆけるだろうような、そんなあり得そうにもない万能感に浸されてゆくのを、あり得ないと一蹴することもできずに温存してしまうのを、とはいえ聞き流しているつもりがつい聞き入ってしまっていることも、というのもまるで見も知らぬ声となって響き渡るからで、こちらの訝しげな眼差しを軽く受け流してしまうその声に連れ戻されて薄青いカーテンが仄青く閃くなかへ、ただ寝るためだけにあると言っていいこの簡素な箱へ、もちろんそれ以外のことも為されはするが大部分はそのために費やされると言ってよく、だから極力余計なことは考えずそのことにのみ意識を傾けてそのことに励むのだが、まあ励むと言っても高が知れているが、もう若くはないのだから、そんなわけでひどく消耗してつい長居をしてしまうことに、腰への負担も相当なものだろう、立ち上がるのも億劫で、だから暇を告げることで切り替えて、それとも切り替えることで暇を告げるのか、いずれにせよ暇を告げて腰を上げるのだが、腰を上げて出てゆくのだが、つまり帰るのだが、そのためには暇を告げねばならないわけで、だから暇を告げるのだが、それを切りだす端緒が掴めずつい長居をしてしまうことに、膝への負担も相応にあるのだろう、立ち上がるのは困難で、それでもそうした幾多の困難を乗り越えてきたのだが、いくつも辻をあとにしてきたのだが、その都度新たな辻が目の前に、そうして潮の香る風に吹かれて辻から辻を果てもなく、いやそれはないが、でもあるかもしれず、とにかく風が吹くと柳の枝が揺らめいて、裏になったり表に返ったりと細長い葉がそれに応じてしなやかに翻り、表側の葉に較べて裏側のそれはいくらか白味を帯びて、濃淡の異なるその色合いが交互に目に飛び込んでくるが決してひとつに溶け合うことはなく、表は表であり裏は裏であることを、しなやかに靡くその枝先にいくらか視界を遮られながらさらにその向こうに見える通りの賑わいは、いくつも影の行き交うそこはもう、華やいでいるというより物寂びた佇まいで妖しい空気がぐるりを囲うその一角はそこだけ浮き立つように仄白く、縦に細長い影が出たり入ったり、そこに穿たれた矩形の、開かれていると同時に閉ざされてもいる穴から音もなく影絵のように入ったり出たり、その影たちの間を縫うように進みながらどこか近寄りがたい反面吸い寄せられそうでもあるその仄白さに目を奪われて、いや奪われはしないが眩まされはして、いつか自身も影と化して出たり入ったり、というようなことを、いやそんな不穏なことは考えないほうが身のためではないか、考えることで当の不穏さを呼び寄せ身に纏うことになりはしないか、と振り払いながら影たちの間を、影であるあちら側と影ではないこちら側との懸隔を意識しながらすり抜けてゆくと、銭湯の帰りだろうか、黒く艶やかな髪が匂い立つような、そうした姿がいくつか、もちろん見知った顔はひとつもないがいずれの顔もどことなく似ているような、そんな気がして、つい不躾な眼差しで見つめてしまうのを、首筋辺りから漂う仄かな色香に吐息を洩らしてしまうのを、つい差し伸べてしまうのを、右のを次いで左のも、やんわりと交わす身振りにさらにも掻き立てられてしまうのを、なぜといって、いけません、と咎める声がしたからで、たしかにそれを耳にしたからで、つまり柳の枝が揺らめくとその葉が翻って枝と枝が葉と葉が枝と葉が、それらが擦れ合って立てる音が、耳を聾するほどではないにせよ意識のいくらはそちらへ傾くほどに、といって雑音めく不快な音としてではなく、さりとて心地よい調べというのでもなく、隣室から洩れ聞こえる囁きのような、根も葉もない噂話でもしているのではないかと疑心に駆られてしまうだろうような、そうして聞くともなしに聞いてしまうだろうような、ところがよく聞きとれなくて邪推ばかりが膨らみゆくだろうような、何かそんなふうな響きで、まあそれは言いすぎとしても意識のいくらかは否応なくそちらのほうへ、そんなわけで擦れ合う音のなかになかば埋もれながらそれでもたしかに耳馴れた声を艶のある声をしなやかな物腰とともに、鼻先を掠めてそれはどこへ行ったのか行ってしまったのか、風が吹き寄せるかぎり柳の枝は揺らめいて葉を翻らせるだろうが発せられた声はここにはもう、洗い髪は今も匂い立っているのに艶やかに照り映えて眩しいほどなのにそれはもう、あるいは枝先に引っ掛かっていたりしないだろうかと一枚一枚葉を裏返してみたり、あるいは植込みに紛れていはしないだろうかとその奥を覗き込んでみたり、そうした意味のない行為に少なからず慰安を、つまりそれが齎すところの穏やかな、少しも波立っていないある種の平衡状態に慰安を。

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