いや後ろ姿が月明かりに映えて辻から辻へ婉然と、そのあとを追って辻から辻をどこまでも、傅くように寄り添うようにどこまでも、空気が湿っているのは川のほうへ向かっているからか、それとも川のほうがこちらへ、いやそれはないが、でもあるかもしれず、とにかく一段と引き込まれそうな相貌で現れたそれは黒く沈んでいて不気味だがその脇を、脇の道を流れに沿って、それとも流れに逆らってか、いずれにせよ風に乗って漂い流れてくるのは前をゆく女の匂いと何とは名指すことのできない諸々の成分からなる夜の匂いとも言うべきものと、やはりこれと特定することの困難なこれもまた夜の音とでも言うよりほかないような雑多な音と、まあ要するに特筆すべき事柄でもない有り触れたものばかりで、もちろん女の匂いはべつで、それだけは特筆すべき事柄と言っていいが、それを除いたそれよりほかのものは何ら特筆すべきものではなく、そのくせそれらは五感を刺戟して已まず、といってそれらに女の匂いが埋没してしまうことはなく、どれほど微かな匂いでも埋もれることなく鼻腔を擽(くすぐ)るそれは他の何にも増して特権的であることを、だから距離を縮めればもっと濃密になるはずと徐々に距離を、ふたりの間の隔たりを、というのも風向きによっては届かないこともあるだろうからで、すぐ後ろにいるのだから、というかすぐ前にいるのだからそんなことはほとんどないのだが、かなり確実にそれは届くのだが、というのは女の匂いに包まれているということだが、それでも届かなくなることがまったくないわけではないので、というのは可能性の問題としてだが、少しでもその隔たりを縮めようとして月明かりの下を、いや雲が出てきたらしくぼんやりと霞んで心做しか行く手も闇に沈み込むようだし河面はさらにも黒さを増していて、その異様な黒さに怯んでいると、いや怯むというか気になるというか、黒さが増すとともに不穏さも増してゆくような気がして、その不穏さに流されるようにそちらのほうへ、だから踏みとどまろうと女のほうへ、揺れ動く背中のほうへ、交互にくり出される足と腕との滑らかな動きとそれに連動して動く腰と尻とに魅入られながら、そうすることで不穏さから逃れることができるとでもいうように、というかそうすることで不穏さから逃れることができたのだが、頽れるように坐り込むともう、不穏さから逃れることはできてもこればかりはどうすることもできないのか、それでも不穏さから逃れることはできたのだからその程度のことは仕方ないと諦め、不穏さから逃れることができたことに安堵の吐息を、いやその程度のこととやり過ごしてしまっていいものだろうか、実際それはどの程度のことなのか、後々まで尾を引くようなそうした類いのことだとしたら無視することもできないだろうし、本当にそれはどの程度のことなのか、ほんの掠り傷程度だとすればいいのだがそうでないとすれば厄介だし、本当にそれはどの程度のことなのか、積もり積もって甚大な障害を齎すことになるとすればそれなりの対応をしなければならないだろうし、そんなわけで一方の不穏さから逃れ得たと安堵したのも束の間、べつの不穏さに絡め取られ、そのべつの不穏さから脱し得たとしてもさらにまたべつの不穏さに遭遇し、そのさらにまたべつの不穏さから逃げ果(おお)せたとしてもさらにさらにまたべつの不穏さが待ち構えていて、そのさらにさらにまたべつの不穏さを回避し得たとしてもさらにさらにさらにまたべつの不穏さがそこには開っていて、そのさらにさらにさらにまたべつの不穏さを無事にすり抜けたとしてもさらにさらにさらにさらにまたべつの不穏さが、と果てもなくつづくような気が、いやそれはないが、でもあるかもしれず、そうしてすり鉢状に窪んだその最深部で、暗く沈んだ底の底で見霽(みはる)かしながら、いや違う、どこまでも上昇して已まない狭い箱の内で直角に交差する線をあみだに辿りながら、いやそれも違う、軽く肘をついてグラスを弄ぶ女の前でこちらも肘をついてグラスを弄びながら、というかしっかりと握り締めて落とさないように力を込めて、それでも握り割らないようにいくらかは加減して、つまり落ちることもなく割れることもない絶妙な力加減で、長年の経験のそれは賜物だが、いやそれも違う、片づいているというよりは物がない、どこか越してきたばかりのような、あるいは越していったあとのような、でもどちらかと言えば越してきたばかりのような、それでもいくらかは越していったあとのようでもある、ただ寝に帰るだけといった簡素にすぎる箱で、静かに横たわりながら何を思うでもなく、といって何も思わないわけではないが、浮かんでは消えてゆく想念が、というか何か想念的なものが、想念になりそうで想念にならない想念一歩手前の、あるいは二歩も三歩も手前の前想念的な何ものかがあるにはあって、とはいえそれはどこか自然発生的なもので殊更何かを想起せんとして想起しているわけではなく、それでも自ずから湧きあがってくるものを拒むことはなく、というか拒みようもなくそれは湧きあがってくるのだが、あとからあとから湧いて出てくるのだが、そうして静かに横たわりながら前想念的な何ものかが明滅するのを漫然と、いつか夜が更けてゆくのをあるいは明けてゆくのをやり過ごしながら漫然と、それでいて幾重にも折り畳まれた襞をひとつひとつ開いてゆくように、そうして露わにしてゆく、というか露わになってゆくのを、露わになるとしての話だが、だから期待はしていないが、いや期待するとか期待しないとかそういうことではないのだが、期待しないと言明することで、期待することを予め禁じることで逆に期待が膨らむということも、そうとすれば本当は期待しているのかもしれないが、期待しているにせよ期待していないにせよなるようにしかならないのだから、なるようになれ、となかば自棄的な思いに捉えられもして、そうして自棄的な眼差しで眺めやればまた違ったふうに映じるものだろうかそれとも、さしあたり夜を終わらせることがそして朝を取り戻すことが喫緊の問題だということに、それには目覚ましが鳴ることが不可欠だが、なぜといって夜の終わりを告げて朝の訪れを刻するものはそれよりほかにないからだが、果してそれは鳴るのだろうか、それとも疾うに鳴り響いてしまったのだろうか、漏れ聞こえてくる音に注意深く耳を傾けるが何も、耳には何も、いや何かのモーターの音がずっと、どこか遠くのほうで、それでいて間近に聞こえたりもする馴染み深い音がずっと、それよりほかには何も、というのは音もなく雲は流れてゆくし音もなく川は流れてゆき、時間にしてもそれは同断で音もなく流れて気づきもしないのだから、いったいこれまでにどれほどの時間が過ぎ去ったのか過ぎ去ってしまったのか、に思いを馳せても詮ないが実際どれほどの時間を無為に過ごしてきたのか、というか時間を有為に過ごしたことなどあっただろうか、あったかもしれないがあったとの実感は乏しく、とにかく何かのモーターの音がずっと、低い唸りとともにあちらからこちらへこちらからあちらへ、それは薄い膜のように覆い尽して吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いてにも絡みつき、吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いてとひとつに、渾然とひとつになって分かちがたく、つまりは簡素にすぎる箱それ自体が息づき脈動しているということにほかならず、そしてそれがそれこそが、と何か想念が、想念的な何ものかが凝集する予感とともに、というのはカーテンが、いやその向こうに何かが閃(ひらめ)いて、その何かが何なのかと目を凝らせば、それを察したのかして散りゆくように霞んでしまって確固たる像を結ぶことはなく、だからその何かが何なのかは、とはいえその何かが何なのかをこそこちらは、でもあちらは、それでもこちらは、なのにあちらは、尚さらこちらは、というようにどこまで行っても平行線は平行線のままで、それが交わることはついにないのかそれとも、いずれにせよ脈動し振動して已まない箱の内で、あるいは上昇しつづける狭い箱の内で、何が見えるのか何を見ているのか、全体それは誰の差し金か、畢竟するに闇のなか浮かび上がる寝姿は仄青く、健やかな寝顔も仄青く、穏やかな寝息もまた仄青く、というのはカーテンが、翻るカーテンがいくらかは遮断しいくらかは透過させるので、というのは月明かりを、柔らかなその光を受けて仄青く、どこまでも仄青く、横たえられたその身体からは冷艶というのか妖艶というのか、気配のような匂いのような、そうしたものが立ち上ってくるらしく、吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いてとともにそれは、いや吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて以上にそれは。