それでも溢れる液体は尻を濡らし腿を伝い流れ、溢れに溢れつづけて辺り一帯を呑み込んでゆくらしく、猛烈な勢いで木々を薙ぎ倒しながら土手に当たって飛沫が立つとその異様な白さに見蕩れるというか、艶やかに光りながら波打つように揺れるその白さが画面を覆い尽し、黒い小箱を翳すと全部が消えて反転した像が浮かび上がってくるのを、次いで反転していないほうへ向き直るとそこにある、あるだろう諸々へ注ぐのだが、すぐには焦点が合わず、というか完全に焦点が合うことはもうないのだが、それでもぼやけた像はぼやけたなりに少しずつ鮮明になってゆき、そこにそれはあるのだが、横に長い楕円の中心辺りに、とはいえ隣り合うものと接するくらい近いために見える部分と見えない部分とがあって、つまり急須と湯飲み茶碗の背後に位置しているからだろう、布巾は半分ほど隠れて四つある角のうちふたつの角しか見えないが、少し左に傾けると三つめの角が現れ、それでも残りひとつの角は隠れたままで、その見えない部分を見ようとするかに横に躄ると少しずつそれは姿を現わすが、それでも全部が露わになることはないらしく、もちろん手前にあるものを移動させれば露わになるのだろうが、いくら黒い小箱を翳しても言うことを聞かない、いや聞いてはいても応えることはないのであり、つまりこちらには応答しない、最早応答できない、それほどにも遠く隔たっている、無限の隔たりと言っていい、それでいてすぐ目の前に拡がっているのでもあり、四角く切り取られた枠の向こう、明滅する光の連なりとして、そこへと至る道のりは果てしなくほんの一瞬で、常にすでに繫がっていて切り離すことはできないのだろう、いずれにせよ陰れば影が差して曖昧になり、出れば明るく照らされて鮮明になる卓の上には急須と湯飲み茶碗と布巾が互いに一定の距離を保ちながら、あるときは急須を、あるときは湯飲み茶碗を、べつのあるときは布巾をというように視線を彷徨わせながら、雨音を聴くともなしに聴きながら、時が止まったような錯覚に陥りながら。そしたら右だろうか左だろうか、冷めた茶碗を不器用な手つきで、取って陰気に一口、がぶりと呑むというのではないが、横から伸びてきた華奢な、折れてしまいそうなほどにも頼りない腕が摑み取ると滑るように移動させ、画面の端からその外へ、最早それは存在せず、というか一度も存在したことがなく、あとには急須と布巾が残されているが、それだけでは、そのふたつだけでは心許ないとでもいうようにそれまでの均衡が崩れて不安定に揺らぎだし、位置をずらして均衡を保とうとするがどこに置いても収まりが悪く、卓は水平を保っているのに、湯飲み茶碗ひとつで傾く道理はないのに横滑りに滑り落ちてゆくような、何かそんなふうな危うさがあって、それを俯せながら息を殺して窺う様子だが、黒いものが覆い被さって何も見えず、それでも肩から二の腕に掛けてなだらかな曲線を描いて同じ姿が、同じ姿で、何ひとつ変わりなく、それでいて刻々と変化して已まないその姿を、背を屈め、腰を捻り、尻を突きだし、雫を滴らせながら切れ切れの、声にならない声を漏らしているのを、ぱちぱち音がしているのを、それはもうだいぶ前からしているが、いやずっとしているが、油の爆ぜるようなその音のほうへ向かうというか向かってしまうというか、ほとんどを領されて肝心の部分が抜け落ちているらしく、それでも薄暗い路地の奥、湿っぽく黴臭いその角を虚ろな淡い輪郭が横切ってゆくのを、薄っぺらい、紙切れのようなその姿を何度も何度でも、角を曲がると姿はなく、いや薄い布地が翻るのをほんの一瞬、微かに擦れる音がしているようでもあるがどこから聞こえてくるのだろうか、右だろうか左だろうか、暗くてよく見えないが、見えなくても聞こえてはいる、ぱちぱち言う音が、強く打ちつけるたびに卓が軋んで雫が滴り落ちるのを、それを聴くともなく聴きながら浮かしては下ろし、浮かすと涼やかな風が内へ、下ろすと生温い風が外へ、黒い小箱を翳すと全部が消えてなくなって反転した像が浮かび上がってくるのを、そしたら空になった籠を手に縁に沿って右廻りに四分の一廻転、卓を離れて滑るように、その背を腰を尻をくり返しくり返し飽きもせず、いつか敷居を越えてその向こうへ、いや、今まさに敷居を越えてその向こうへ、それから謎めいた響きがこちらのほうへ、虚ろな淡い輪郭が揺らめいているのを、かちゃかちゃ音がして水のあるいは湯の流れる音が響くのを、次いで謎めいた響きを搔き消すように風が鳴り、黒い房が靡いて肩に触れるか触れないくらいの辺りを行ったり来たり、そのとき一瞬覗く首筋の白さに目を奪われて転びそうになるが握る手が引き戻し、くびれの辺り、ゆったりした布地が波打ちながら揺らめいて軽やかな足どりで先を急ぐのを、雨は降りつづいているらしく、それを聴くともなしに聴きながら左腕の上に右腕を乗せ、顳顬の辺りを宛うように、黒い房が覆い被さり、吐息というか寝息というか、こちらのほうへ、手を伸ばせば届く距離にそれはあるのだが、いくら手を伸ばしても届かないのはなぜなのか。
その前というか後ろというか、派手なネクタイが行ったり来たり、大仰に腕を上げ、下ろし、また上げ、また下ろし、その都度異なる軌跡を描きながら用もないのに行ったり来たり、いや用はあるのだが、あるはずなのだが、こちらにはあってもあちらにはないということか、それともこちらにはないがあちらにはあるということか、足すことはできても引くことはできないのであるからして引くに引けず、いや引くのではなく押すのだと黒い小箱を翳すと全部が消えてなくなるのを、もちろんなくなりはしないのを、なぜといってずっと声がしているからで、同じ声が、それでいて違う声でもある、しわがれた、艶のある、滑舌のよい、舌足らずな、野太い、透き通った、微かに反響しながら近づいてくるのか遠離ってゆくのか、あるいは一定の距離を保っているようでもあり、そうしてつかず離れず従いながら狙いを定めて一撃で、馴れた手つきで手際もよく、何がどこにあるのか全部分かっているらしく、もちろん事前に打ち合わせているからだが、まあ必ずしも打ち合わせ通りではないかもしれないが著しく逸脱することはないのだろう、急須布巾を移動させると背を屈め、腰を捻り、尻を突きだして、最初はゆっくりと、だんだん速く、最後は息も絶え絶えに、ぐったりと横たわって眠っているのか起きているのか、黒いものが覆い被さって何も見えないが、くすんだ灰色に覆われたその凹凸に沿って波打つようにうねる線の白さが一際目立っているのを、それを境にしてこちらとあちらとに分かたれている分岐の手前で、こちら側で、浮かしては下ろし浮かしては下ろし、浮かすと不安定に揺らいで下ろすと安定するが、揺るぎないその安定に、そう言ってよければだが、自足しているわけにもいかないらしく、最初の且つ最後の一歩を、濡れた路面は滑りやすく、そっと下ろすというか置くというか、足の運びも慎重になるせいか一歩ごとに遠離ってゆくようで、いや刻々と遠離っているのであり、それでも縁に沿って右廻りに四分の一廻転、左へ二歩か三歩、息も絶え絶えに、いや違う、息を弾ませて、いやそれも違う、息を殺して、音もなく気配さえなく、日は沈み掛けて薄暗く、ゆっくりと少しずつ滲むというか溶けるというか、混ざり合ってひとつに、だから急須なのか布巾なのかも判然とせず、それはもう急須でも布巾でもない何かべつのものであり、そうしてそこにある、あるだろう何もかもが、全部が反転しているのを、ざらざらした粗い画像というか、解像度が低くノイズも多い、その腰を尻をひかがみを具に、身悶えながら、波打たせながら、明滅する光の連なりとして。要するに緋色のネクタイが行ったり来たり、路地を右へ、それから左へ、また右へ、迷うことなく、頻りに何か訴えながら、当たり障りのない、出鱈目でもなかろうがその場凌ぎの、だから記憶に残ることもない、それでいて何か重要な事柄でもあるかのように一点を見据えながら、その眼差しの眼差すものが何なのか、いったい何を見ているのか、何が見えているのか、そのあとに従いながら狙いを定めて一撃で仕留める構えだが、届きそうで届かない、あと少しというところで、ほんの一歩いや半歩だろうか、その背に踊る黒いものに触れるか触れないくらいの距離と言ったら言いすぎか、ゆったりした布地が揺らめいて不規則に膨らんだり萎んだりしているのを、タイミングを測って、最も近づいたその瞬間を狙って素早く手際よく、まあ測ると言っても不規則な動きだからほとんど勘と言っていいが、何度か試みるうちにいつか成功するだろうと呼吸を合わせて下から掬い上げるように差し伸べると上から包み込むように覆い被せ、冷たいこともあるが温かいこともある、季節によって日によって、時間によっても異なるだろう、刻々と変化して一瞬たりとも同じではないのであり、そうして足並み揃えて波打つようにうねる線を辿っていったその先にそれはあるのだろう、いずれにせよ勢いよく流れゆくその流れのなかへ、舞うというか踊るというか、緋色のネクタイが翻り、あっという間に揉みくちゃにされ、波に飲まれて見えなくなるが、見えなくても聞こえてはいる、ずっと同じ調子で響いている、何をしていても何もしていなくても、不協和な、不快というのではないが謎めいた響きが、それを聴くともなしに聴きながら浮かしては下ろし、浮かすとあらゆるものが動きだし、下ろすと何もかもが停止する、尤も完全に停止するわけではなく、少しくらいは動いているだろう、そのほんの僅かな動きに傾けるというか凝らすというか、いや傾けても凝らしてもいないのだが、漫然と構えているだけなのだが、いや構えてさえいないのだが、死んだように横たわっているだけなのだが、いや横たわってさえいるのかどうか、ただそこにあるだけなのだから、いやあるのかどうかも怪しいが、ないというわけでもない、たとえほんの僅かな可能性だとしても、それでも閉じているわけではないから、いやたとえ閉じていても開かれているのだろう、常にすでに回線は繫がっていて無限に多くのものが流れ込んでくるのであるからして無限に多くのもので溢れ返り、そうして無限に多くのものが流れ出てゆくというか流れ出てしまったというか、もう何ひとつ残っていないと言ったら言いすぎか、それでもいくらかは残っているだろう、一抱えか一握りか分からないが何某かのものはあるらしく、その残りもので拵えるほかにないのだが、数が不足しているのか穴だらけ隙間だらけで向こうが透けて見え、つまりあるものは遮られるがあるものは通り抜け、翻ると全部が揺れ動くのだが危うい均衡で保たれていて、要するにいつ崩れてもおかしくないというか、脆くなっているのだろう、端のほうから崩れてきている、軽く触れるだけで剝がれ落ちてゆく、足元に堆積して層を成しているそれを踏み拉きながら先へ、前へ、それとも後ろだろうか、とにかく踏みだすことによって蹴りだすことによって前へも後ろへも自在なのであり、もちろんずっと同じところに留まっていることもできるだろう、そうしたければの話だが、それでも同じ時間に留まることはできないのであるからして時間に流されつづけるほかになく、勢いよく流れゆくその流れのなかで凝らしたり澄ましたり、つまり研ぎ澄ますのだろう、そうすることでありもしないものが現出することもないわけではないが、そうすることでしか捉えられないものがあるのもたしかで、とにかく極限まで、あるいは極限を超えて研ぎ澄ますのだろう。