そうして謎めいた響きとともに現れるとやはり卓に沿って音もなく滑るように、いや微かに擦れる音が、畳を擦る布地の響きがゆっくりと近づいてくるのを、卓の縁ぎりぎりのところを掠めるように過ぎると奥というか手前というか、角に据え置かれたそれは木製の大きな箱なのだが、いくつもの仕切りに区切られたそこにはさらに小さな、小さいと言っても一抱えはあるだろう箱が収められていて、隙間もなくぴったりと嵌まり込んでいるその前に立ち、見下ろすと見上げる、それが合図とでもいうように差し伸べると待ち構えていたように下から伸びてくる、それを包み込むように握るその同じ手が、木目を撫でるように下から上へ、装飾らしい装飾もない簡素な表面は滑らかで少しの引っ掛かりもなく、それでいて丁寧な仕事ぶりの窺えるその造作に魅入られでもしたように、上端の角に達すると上面を奥へ向かうのではなく、角に沿って外側へ滑らせ、それでもすぐに戻ってきて上のほうの抽斗を、そこにある把手に指を二本いや三本、母指は添える程度で触れていることもあれば離れていることもあるが、手前に引くと木と木の擦れ合う音が微かにして、内部に収まっていた部分が半分くらいだろうか、いやそれ以上引きだすと抽斗が外れるぎりぎりまで迫りだして、次いでためらうことなくそのなかへ手を突っ込んで細長い棒と丸い小箱を取りだし、小指ほどの太さのそれは一方の断面が凸凹しているが、根元というか先端というか、凸凹していないほうを抓むと小箱の蓋を開けて凸凹した面を二三度軽く押し当て、そしたら柔らかな面は潤いのある艶を発しながら押しただけ沈み込み、引き上げると凸凹した面が赤く染まって複雑な線がくっきりと浮かび上がるが判読できないそれは奇妙な文字で、円形の枠に縁取られたそれを小さな紙片のさらに小さな枠のなかに収まるように宛って押しつけるとそこに赤い染みがべっとりと付着して、丸く縁取られた枠のなかに細い線のいくつも交錯するそれは複雑な形をしているが、こちらは判読可能な普通の文字で、その隣に押しつけるとそこにも赤い染みが付着して、そのまた隣に押しつけるとそこにも赤い染みが、といって無限にくり返すことができるわけではなく、押すたびに色は薄くなり線は掠れたり滲んだりしてゆくが、再度丸い小箱に押しつけると凸凹した面はまた赤く染まって、それをまた余白に押しつけると鮮やかな色合いが甦るのだが、強めに押しつけたときと軽く押えたときとで線の太さや掠れや色の滲み加減に違いはあるにせよいつでも決まって同じ形なのであり、尤も同じと見做されるからこそその赤い染みと引き替えに受け取ることができるのだが、ときに金銭を要求されもする、ダンボール製の、綴じ目をテープで塞いだ箱を、といって必要なのは中身であって箱は捨ててしまうのだが、それでも全部捨ててしまうわけではないらしく、捨てずに取っておくのもあって、大きいのもあれば小さいのもある、隅のほうに寄せられてはいるが乱雑に積み重ねられていて、今にも倒れそうなのは無計画に積み上げていったその結果だろう。小さめの箱のいくつか並ぶその上にそれより大きな箱が置かれているが、大きさが不揃いなために斜めに傾いでいて、雨晒しで汚れてもいるその前を、身体の向きを横にして裾や袖が引っ掛からないように押えながら、巧くすり抜けることができるだろうか、尤も何度試みても失敗するのだが、何度でも試みるのであり、全体これまで何度試みただろうか、そうしてこの先何度試みればいいのか、いずれにせよ横になり縦になり裏返しになっているのもあるそれら散乱した大小の箱はそのままにしておいて突き当たりを左へ、それとも右だったか、川のある方角から判断できそうなものだが当の川がどの方角なのだか、奥へゆくほど狭くなるそこは軒を接するほどの近さで空もほとんど見えず、屋内から洩れる明かりが辛うじて足元を照らしているだけだからよく分からないのだが、もちろんそれだけではないのだが、その隔たりたるやそれはもう、いずれにせよ薄暗い路面には幾筋もの黒っぽい染みが浮かび、時折機械の唸るような低い音が降ってくるのを避けるようにいくらか頭を低くしながら足早に、突き当たると鉤の手に右へ折れ、それから左へ、次いでまた右へ、果して抜けられるのか、抜けられるとしてどこへ抜けるのか。濡れたような壁面はざらざらして冷たく、亀裂に水が入らないようにだろう、パテか何かで埋めた跡が白く盛り上がっていて微かに粘りつくような抵抗があり、古いものほど地の色に馴染んでいるが違いは歴然で、程よく音を吸収するのでもあろうか、自身の足音よりほかにほとんど響くことがないその路地をさらに奥へ進むと少しずつ暗さは斥いて明るさが、昼であることを知らしめる当のものが、それでいて足元の覚束なさは大して変わることもないから少しの段差でも躓きそうになるのを、風通しの悪いこともあって湿気が溜まるのだろう、黴臭い臭いが掠めるのを。
徐々に間遠になってゆくその波に乗るというか溺れるというか、満面の笑みで何か言うのを、言い掛けてやめるのを、間合いを計って再度言おうとするが聞いているのかいないのか、画面のほうへ目を向けながら卓を前に両手を腹の辺りで交差させるように構えていて、その腕と腹との間に挟み込まれて少しく拉げているのは何かの帳面らしく、その帳面とともに仕舞ってあったのを出してきたらしいがいったいどこから出してきたのか、右の抽斗からか、それとも左だろうか、両手で抱え持って卓に沿って右廻りに約四分の一廻転、抱えていた帳面を卓に押しつけるようにしながら膝を曲げ、尻を据えると縁に肘を乗せるのだが、いくらか沈み込みながらそれでも卓は水平を保っていて急須も湯飲み茶碗も布巾も微動だにせず、帳面を開くと栞のように頁に挟んであった短い鉛筆を指に挟んで、尻というか、削られ尖っていないほうの端に母指を宛い、挟んだところを支点としてくるくる廻すのが癖なのらしく、その軌跡の描く形はふたつの円錐を先端で合わせたような、砂時計にも似た形だが、確かな像として現前することはないのにそれでも現れたり消えたりしながら動き廻って早口で捲し立て、横目にそれを見ながら、いやほとんど見向きもせずに俯いて帳面に向かい、罫というか枡というか、いくつもの線の交錯するその上を時折鉛筆が滑るように移動してゆくが、紙と接することなく宙を、薄い影がそのあとを追い掛けながら決して追い越すことなく紙の上を動きつづけるのを。卓に拡げられた帳面は右上がりにいくらか傾いて、肩に耳の附着(くっつ)くほど、右へ傾けて、も一つ左へ傾けたというのではないが、傾きに合わせてちょっと斜めに傾がせながら前というか横というか、少し離れた位置にいくつも突起の並ぶ、掌に収まるほどの、いやいくらか大きいかもしれない小箱を据え置き、突起は裏面にも四つあり、その四点で接する作りなのだが、据え置く場所によっては三点しか接しないこともあって不安定になることもあるその小箱の表側の突起には数字や記号が記されていて、そのいくつかは掠れてよく見えないが何が記されているかは分かっているらしく、ためらうことなく指は突起を押してゆき、突起が押されると四角い画面のなかの灰色の地に黒く数字が浮かび上がり、ある量を、大きさをそれは示しているのだが、突起が押されるたびに形は変わり、四本の縦線と三本の横線との合計七本のうちの何本かの線で構成されているそれがいくつも連なって、例えば縦の線が二本横の線が三本、縦の線が三本横の線が一本、縦の線が四本横の線が二本というように、艶のない黒々とした色をそれは呈しているが見る角度によって薄く消え入りそうにもなるからだろう、位置や角度を調整しながら覗き込んではその数字の列を帳面の小さな枠のなかに書き写してゆくのだが、どの枠にどの数字を記すかが重要なのらしく、指でなぞるようにしながら当の枠を探し、そうしてそこに書き写すのだが、写された形が元の形と必ずしも同じではなく、というのは分断された線の集合としてではなく切れ目のない一続きの、そのほとんどが丸みを帯びた一本の線によって記されているからだろう、書き写すというよりは書き換えているようで、ふたつを重ね合わせたとしても決して重なり合わないのであり、それほどにも形が異なっているのだが、それでも暗号めく、記した当人だけが理解できる類いの秘密めかしたものではないらしく、誰が見てもその意味するところは明らかで、それでいて意味のない数字の羅列というか線の連なりというか、眺めているうちに見失ってしまうのだろう、それが何を言わんとしているのか、それとも小首を傾げながらいくらか目を細めるのは見えづらいからだろうか、顔を近づけたり遠ざけたりあらぬほうを眺めたりしているが、鉛筆を廻す手にも力が入るらしく、滑って弾かれたそれは紙の上を転がって、右頁下から綴じ目を越えて左頁の端辺りまで、そこで先端を、削られ尖っているほうを右頁上へ向けて、その指し示す先にそれはあるのだが、明滅して已まないチカチカする画面のなかで濃紺のネクタイが注視しているようでもあり、そこに斜めに交差する格子状の細い線が一際目立っているのを、尤も線が見えないくらいに小さくなってしまわないかぎりでだが、とはいえ水色だったのがほとんど白にしか見えず、にじんでぼやけて消えるというか溶けるというか、一点にそれは収束してゆくのだが、もちろん収束などしていないのだが、あたかも収束しているかのように。いずれにせよもっとずっと手前のほうで交差する線のどちらを辿ってゆくのか決め兼ねているとでもいうように、分岐の手前の路肩にびっしり貼りつくように生える草のほうへ流れるというか逃れるというか、外来種だろう、鋸歯(きょし)状の細長い葉を放射状に伸ばした淡い緑色のそれは微かに揺れているようで、一歩踏むたびに黄色い花弁が翻り、過って踏みつけてしまいそうなほどにもそれは小さく頼りないが、在来のものを駆逐するだけのことはあって至るところに生えていて、いや抑も生息域が異なるという話も聞くが、誰から聞いたのかは知らないが、それら黄色い点の散らばっているのを目端に捉えながらそのうちのひとつに近づいて、屈んで腕を伸ばし掛けるが、果してそんなことができるのだろうか、仮にできるとしても無機質な硬い面に触れるだけ、あるいは何にも触れることなく虚空を掠めるだけで、それとも柔らかい肉の塊に触れることになるのだろうか、尻の内腿の脇腹の、しっとりと汗ばんで吸いつくような、脂の乗った、甘い、体温で溶ける塊を舌の上で転がしながら、舌先でねぶりながら、そうして唾液とともに飲み下すのだが、決められた時間に決められた分量を。