薄日にぼんやりと浮かび上がるそれら微細な粒子もいつか見えなくなるが、見えないだけで漂いつづけているだろうし、喉の粘膜に貼りついて咳き込ませるほどではないにせよ卓の上にもそれは降り掛かっているに違いなく、とはいえ降り積もる前に拭い去られ、拭い去られてもまた降り掛かり、降り掛かってもまた拭い去られ、拭い去られてもまたというように日々にくり返されて、今また卓の上を右から左へ左から右へ手前から奥へ奥から手前へ何度も往復しながらそれが通った道筋にいくつもの水滴を残してゆくが、ほんの微かな跡を残してすぐに蒸発してしまうのを、そうして一片の粒子だに残っていないというわけではないが、少なくとも目に見える大きさのものはないと言っていい乾いた面には中心から少し外れたところに急須、そのすぐ傍に湯飲み茶碗、そこからまた少し離れて固く絞った濡れ布巾、これら三者のうち前二者は比較的近しい関係にあることが容易に見て取れるが、後一者は前二者に対して如何なる関係にあるのか、それらは互いに一定の距離を保ちながら置かれ、といって正確に正三角形を成しているわけではなく、尤もこれまで何十回何百回と置かれているが一度として正三角形を成したことはないと言ってよく、たとえ正三角形を成したことがあったとしてもそうと気づかれることもないだろうが。それでもあるときは急須、あるときは湯飲み茶碗、またあるときは濡れ布巾、というように巡らせながら急須の丸い膨らみや少し傾げた把手の楕円に歪んだ形や蓋の微妙な彎曲やその中央の丸みのある突起、あるいは無造作に畳まれた布巾の一端に覗ける細長い三角形の領域やその表面の毳立ちや複雑な繊維の絡まりや色落ちして斑(まだら)に残る淡い青、さらには茶渋に染まった湯飲み茶碗の縁の黒ずみや線の掠れ具合なのか光の加減なのかあるときは木の枝に見えあるときは群れ泳ぐ魚影に見える判然としない模様や微かに立ち上る湯気、そうしたものにも一様に走らせて、立ち止まってもまたすぐに走りだし、走りだしてもすぐに息を切らしてしまうのだが、追われているわけではないが気が急くのだろう、いもしない追手の気配に何度も振り返るうちにいつか追手が現れて、少しずつ距離を縮めながら近づいてくるのを、何気ない目つきの奥に異様な鋭さがあるのを、それでいて落ち着き払った素振りで隙間なく建ち並ぶ家々を物色しながら暗く沈んだ窓の向こうを窺い、尤も眼を凝らしたところでほとんど何も見えないが、見えないからこそ不躾な眼差しを向けることができるのだろう、それでも少しは見えるらしく、手前にある背の高い、まだいくつか葉を残している、といって数え尽せるわけではなく、表を向けたもの裏返っているもの今にも落ちそうに揺らいでいるもの、そうしたことが見分けられるくらいだが、落葉広葉樹と思しいその樹木の落とす影の形に切り取られた薄暗いなかに茫と白く二本の脚がくの字に、捲れ上がった布地が腰の辺りで団子になって、少しく毳立った光沢のない襞を成すその暗色との対比でより鮮明に映るのか、露出した尻の線がそこだけ切り取られたように浮き上がって、いくらか垂れ下がった雫形のその縁に沿って絡みつくように伸びる腕が下から持ち上げると尻に指が食い込んでゆくのを、次いで指を食い込ませたまま外側へ拡げると、ふたつの肉の盛り上がりの間で谷を形成していた、その陰影の作りだす線は消えてくすんだ地肌が現れるのを、鼻先をうずめて深く吸い込むのを、力を入れると窄まり力を抜くと拡がるのだが、なだらかな曲面は拉(ひしゃ)げて自在に形を変えながらそれでも尻は尻のままで、つまり尻が尻であることに変わりはなく、尻は尻であるかぎり尻としての柔らかさを保持しながらなかば押し潰されて、畳の跡だろう、いくつもの線が赤く斜めに刻まれているのを、餅のような弾力を弄ぶように尚もまさぐりつづける掌のなかで白く艶めいているのを。なかば眼を閉じて首を一方に傾けながら右の肩を左手で、それから左の肩を右手で、主に右のほうを重点的にだが、執拗に揉み拉き、それでいて偏執的なしつこさはなく適度に力が抜けているようで、それからちょっと仰け反ると自らの重みで扁平になっていくらか外側に開いた乳房のすぐ下辺り、肋骨が浮き出ているが、アーチ状のその際から腹に掛けて陥没したように凹んでいるその際に沿って、呼吸するたび微かに波打っているのを、それから尻の脇に腕を立てて支えながらなぞるように卓の縁を手前から奥へ、そしてまた手前へ楕円軌道を描きながら、焦点距離は刻々と変化するが、その変化に応じて少しの狂いもなく焦点を合わせてゆくのだろう、ほとんど意識することもなく、次いで崩した足を卓の下へ伸ばし、足先が卓の脚に触れるとそこへ足指を押しつけるように、といってあまり強く押しつけると卓が動いてしまうから加減しつつ、そうして四角い画面のなかに蠢く像を茫と見つめる姿もまた四角い画面のなかで蠢いてこちらを窺い見ているが、そこに映しだされた背広にネクタイの、よく知っている、いや何ひとつ知らない、名前くらいしか知らないし年齢も定かではない五十代前半と思しい中年男性にそれが重なって、そのせいかただでさえ照明の加減で光って見える派手な黄色のネクタイがいっそう浮き立って、それともそれ以外の部分が見えづらくなるせいだろうか、一定の間隔で明滅するそれは同じように明滅するいくつもの光点と直線上に並んで徐々に小さくなってゆくが、どれほど小さくなっても、たとえ見えなくなったとしても、どれも同じ大きさなのであり、それなのにひとつとして同じ大きさのものはないのであり、それでも同じ画面のなかに収まっているからには同じと見做すほかないというか、ほとんど自動的にそうと認識されてしまうのであり、ありもしない距離を空間を時間を、それをしも生成と言っていいものか、ただの光の明滅にすぎないのに、つまり何も生じてはいないのだから。
それでもそこにあるというかいるというか、常に周囲に気を配って場の中心たることをそれとなく誇示しながら複雑に拗(こじ)れた関係の糸をほどこうとしてか、それともただの振りにすぎないのか、なぜといって往々にしてほぐれるどころか余計縺れることになるのだから、それでも何かに聞き入る様子で右を向き、同意を求めるふうに左を向き、それから正面に向き直ると何かを指し示すように大仰に腕を上げ、また下ろし、上げると袖口から覗くシャツの白さがいっそう際立って皺ばんだ短い指の動きは霞んで、下げると細い帯状になって目立たなくなるからだろう、指の動きはまた忙しなくなって、上げると外の冷気がなかへ、下げるとなかの温気が外へ、程よく撹拌されて適度な状態になるまで何度もくり返すうちにいつか空が白んでくるのを、静寂のうちにも少しずつ身動ぐというか身悶えるというか、動きだす気配がして、そうして腰を捻りながら再度上げるかと見えたがそれは思い留めたらしく、そのたびに縦に細長いVの上で黄色がチカチカするのを、それから居住まいを正すと上半身だけになって、ちょうどVの尖った先端辺りから下側が一直線に切断されて見えなくなり、次いでどこかあらぬほうへ視線を逸らすがすぐに戻して、存在しない下半身を支えにしてマネキンめく不動の姿勢を崩すことなく真っ直ぐこちらを見据えながら序でのように早口で何か言うのだが、まだ言い終わらぬうちに僅かに肩が動いて全体に右に揺らぐと卓の下から腕が伸び、袖口から覗く手首の白さを際立たせながらそれは黒い小箱を手にしていて、四角いのや丸いのやいくつも突起のあるそれを翳すと、いや翳すだけではなく突起のどれかを押すのだろう、指の動きは判然としないが画面から眼を離すことなく指の腹で探りながら過つことなく目的の突起を探り当て、そしたら画面が急に黒くなり、様々な光に溢れていた当の光が失われるとともに派手なネクタイの中年男性は跡形もなく消え去って、それまで鳴っていたらしい音も搔き消える、というのは搔き消えることで鳴っていたことに気づかされるからで、黒々した矩形のなかには最早何も映ってはいないが、それでも様々なものがそこには映っていて、それらは悉く反転しているのだが、そこに映ずる諸々を一瞥してから卓に向き直ると、そこにある、こちらは反転していない諸々へも等しく一瞥をくれ、急須湯飲み茶碗布巾のそれぞれを少しずつずらして配置を調整し、あるいは急須を遠ざけたり、あるいは湯飲み茶碗を近づけたり、あるいは布巾を滑らせたりというように、それでもそれらはほとんど同じ位置にあるから調整する前と調整したあととで何が違うのか、もちろん何もかも異なるのであるからして同じ結果には逢着しないのであり、ひとつとして同じものはない無数の事象の連なるそのなかから何が選ばれるのか、ひとつだけ選ぶとしてその評価選定はどうなっているのか、何が決定要因となるのか、誰が最終決定を下すのか、そうして選ばれた当のもの以外の全部はどこへ。つまり倒れ込むというか覆い被さるというか、重い頭部を前方へ傾けてゆくと耳の後ろからむらむらと懸る、と黒雲が走るようでというのではないが、黒い房が垂れ掛かってそれは覆い隠され、全部ではないがほとんど、次いで左腕の上に右腕を乗せる形で交差させ、そうしていつでも左腕の上に右腕を乗せるのだが、そこへ顳顬の辺りを宛うように、こちらは右側だったり左側だったりとその都度異なるのだが、最初右だったのが途中で左に変わったりあるいはその逆だったりもし、稀に額を乗せることもあるが収まりが悪いのだろう、すぐに右か左へ傾けて、そうして俯せるその背は丸く、頸骨が小山を成して連なる首筋は捻れて斜めに皺が寄り、張りだした肘のすぐ傍に湯飲み茶碗があって湯気こそ立っていないが飲みさしらしく、何度か触れそうになるというか何度も肘で小突いて、それでもほとんど倒れることはないが偶に倒れることもあり、それはいつだったか、もちろん今このときにほかならないが、鈍い音を響かせて倒れると孤を描きながら卓上を転がって急須に当たって動かなくなるが、それが停止してもそこから零れた茶が止まることはなく、むらむらと立つ湯気が、崩るる褄の紅(くれない)を陽炎(かげろう)の如く包んで伏せたというのではないが、卓の上を流れる液体は扇状に拡がりながら縁に至って一瞬勢いを弱めるもそこで踏み留まることなく一筋の流れとなって落ちてゆき、それから二筋に分かれてさらに三筋に分かれ、次第に勢いが弱まり途切れがちになって、縁の下部の先端に雫状の膨らみをいくつか残すだけとなってようやく止まるのだが、そうした事態の推移を眺めながらいくらか眉を顰(ひそ)めはするが慌てる様子もなく湯飲み茶碗を起こすと脇へ、被害の及んでいないところへ、それから布巾を取って茶の拡がりのほうへ、そうして縁というか角というか、その下側からそっと宛うと一滴も零すまいというような慎重さで下から上へ掬い上げるように滑らせ、次いでそこから卓の中心へ向かって滑らせてゆき、布巾が卓上を滑ると流れた茶は吸い上げられるが、滴り落ちたものについてはそのかぎりではなく、それが茶を吸い込むよりも前にそのほとんどは床に、というか畳に吸い込まれてしまっていて、表面の僅かな水分を取り除くことしかできず、黒っぽい染みの拡がりとなって残るその黒さをよく見定めようとしてか、顔を近づけて尚しばらく布巾を畳に擦りつけるが、それ以上吸い上げることができないと分かると布巾を右手に立ち上がり、握ったその手をぶらぶらさせながら卓に沿って右廻りに、それから卓を離れて左へ向かうと敷居を越えてその向こうへ。そしたら床板の軋む音が絶えずしていて、なぜといってそこに畳は敷かれていないからで、そしてその際、というのは敷居を越える際だが、畳の高さだけ段差のある縁に一旦立ち止まって二三度足踏みのような動作をするのはそこにある履き物を、決して畳の領域を侵すことのないスリッパを両の足に嵌めるために違いなく、とはいえ右からだろうか左からだろうか、音に違いがないから判別は困難を極め、謎めいた響きだけがこちらのほうへ、次いで水の、あるいは湯かもしれないが、流れる音と流れ落ちたそれが何か硬いものに当たって弾かれるこれも謎めいた響きがして、しばらくしてそれらが止むと最初の謎めいた響きとともに再び姿を現わし、手には固く絞った布巾が、その甲から指先に掛けていくつも水滴の付着しているのが薄暗いなかに煌めくようで、ひとつふたつとそれを滴らせながら卓に沿って今度は左廻りにS字を描き、黒っぽい染みの拡がりの前まで来ると腰を屈め、膝をつき、ほとんど同時に右のも左のも、それから狙いを定めて布巾を押しつけ滑らせると、布巾は黒っぽい拡がりに沿って端から端までを直線運動で行ったり来たり、それでいて少しずつ軌跡をずらしながら往復運動をくり返す、黒っぽい染みの全域を隈なく何度も何度でも。