いずれにせよそれら三者の間を風が抜け、なぜといって充分な隙間があるから自在に通り抜けることができるのであり、いくらか気流の乱れを生じさせはするだろうが、それによって壊滅的な事態に至ることはないと言ってよく、そうしてその向こう、薄暗い壁面が揺らいで音もなく横へ、つまり壁ではなく扉というか襖というか、戸が引き開けられて、矩形の向こう、塗り潰されたような黒い背景に塑像めく姿が、黒いものが流れるような曲線を描きながら微かに揺らいで、手にした籠を持ち直し、敷居を越えてこちらのほうへ、気配を察したのか頭を擡げると首を捻って反対側の顳顬を宛って、やはり黒い房に覆い隠されて見えなくなるが、布地の擦れる音に混じって吐息というか寝息というか、微かに漏れ聞こえる響きに聞き入りながら、あるいは聞き入るふりをしながらこちらのほうへ、茫と浮かび上がる姿は白く、少しく空気が揺らいで戸が閉められると尚いっそう白く、日は沈み掛けて薄暗く、四囲に溶け込んでよく見えないが、どこにもぶつかることなく縁に沿って右廻りに、向きを変えると左へ二歩か三歩あるいは四歩、路肩のほうへ寄りながら、傾斜に足を取られそうになりながら、接近する車輌があるのではないにせよ、前からも後ろからも、少なくとも視線の及ぶ範囲にそれはなく、停車したまま動かない、つまり誰も乗車していないから動く道理のない車輌はべつとして、あるのは白くうねる線の連なりくらいで、もちろんそれ以外のものもあるにはあるがさしあたりそれが目印なのだからそれ以外のものは背景に退けられて、尤も不意に前景化することはあるにせよ、例えばこちらのほうへ傾いている街路樹の、植えられてからかなりの年月が経っているのだろう、十年か二十年あるいはそれ以上、路面が盛り上がって亀裂が入っているから余所見していると躓きそうになる、実際何度も躓きそうになって危険極まりないが、桜だろうか銀杏だろうか、模様とも見紛う幹の罅割れた線の黒々した色とか、車輌の侵入を防ぐためだろう、道の真ん中に突き立っているから右へか左へか回避しなければならない棒とか、いずれにせよそのほとんどは実体性の希薄な、焦点の合っていない、茫漠とした靄のようなものでしかないのだが、波打ちながらつづいているその先に何があるのか、あったのだったか、どれも似たような建物ばかりで迷うというのではないにせよどこへか辿り着くと根拠もなく、分岐の手前で、こちら側で、もちろん何もありはしないのだが、現れては消え現れては消える不確かなものでしかないのだが、不確かながらにあるというかいるというか、背を屈め、目的もなく彷徨っているようにも見える、俯き加減にゆっくりと歩く姿が白く照り映え、くびれの辺り、ゆったりした布地が波打ちながら揺らめいているのを、つかず離れずそのあとをゆきながら狙いを定めて一気に間合いを詰め、一撃で仕留める構えだが、そのことにまったく気づく様子はなく、あるいは気づかないふりをしているだけなのか、もちろん全部知っていて台本通りに演じているだけなのだが、演技の良し悪しは措くとしてあまりにも無防備なその姿を、その背を腰を尻を具に、捲り上げたそこには何も身につけておらず、抗うように身を捩るのを捻じ伏せて押し拡げ、舌を這わせてゆくのを、苦いようなすっぱいような鼻をつく刺激臭が掠めるのを。というのは右手に柵があり、新緑というか若草というか、どちらかと言えば寒色系の淡いグリーンに塗装された、至るところ剝げ落ち錆びついている菱形の網目の向こう、そこから漂い流れてくるのだろう、濃密な草いきれを搔き消すほどではないにせよ、傾斜した地面は草に覆われていて地肌が見えないが、小山のように盛り上がっているのは土手で、その向こう側に見えるのは二階部分だろうか、その土手の下というか脇というか、土手に沿ってつづいている、舗装されてはいるが上下に波打っている道を、所どころ土手には穴が穿たれていて、いや穴というより土手が切れていて、そこに橋が架かっているのを、頑丈な作りでちょっとやそっとの雨風では壊れそうにないその橋を潜って道はこちらからあちらへ、といって道が土手を横切っているのではなく土手が道を跨いでいるのだろう、それとも跨いでいるのは橋だろうか、見上げると軌道があって届きそうなほど近く、もちろん届かないが、その下を通るときに上を通過すると声も聞こえないほどで、尤も声を発していればの話だが、すらすらと、月と一所に女浪(めなみ)のように歩行(ある)かっしゃるというのではないが、壁際をゆきながら握る手は切れ切れの、か細い、少し掠れた、それでいて艶のある声で何か言い、その声を聞こうとして傾げるように上向くと、こちらに向き直り、早口でまた何か言うのだが、口の動きを見ただけでは分からない、それを察したかして少しく前に屈むと耳元に近づけて、触れるか触れないくらいの近さまで、それでも何を言っているのか、反響というか残響というか、真っ直ぐにそこへは向かわずに周縁を行ったり来たり、あちらからこちらへ行ったり来たり、そんなふうに反応を確かめながら這わせてゆくのだが、ぴちゃぴちゃと鳴る音は残っているのにそれよりほかには何も、たしかに耳にしたのに、したはずなのに、どこにも届かないその声はどこへ、今尚どこかを彷徨いつづけているのだろうか、雑踏の只中を、薄暗い路地裏を、不意に耳にすることもあるだろうか、それとも水に溶けてしまったのだろうか、搔き廻すと沈殿していたのが舞い上がって濁るがしばらくするとまた沈殿して濁りがなくなるのを、搔き廻すたびに異なる模様が浮かび上がってくるのを、甘苦い液体の甘苦さが掠めるのを、薄い布地が翻ると壁にあるいは床に描かれた斑模様が蠢いて、堅牢な建物の堅牢性をいくらか揺るがせ、首筋を冷気が掠め、雨は降りつづいているらしくぱちぱち音がしているが、強く打ちつけるたびに肉が波打ち揺らめくのを、黒い小箱を翳すと指を滑らせて目的の突起を押すのだが、聾したように音は戻らず、遠離る車輌の響きに比例して徐々に膨らむというか拡がるというか、押し拡げてゆくのだろう、最初は遠慮がちに、徐々に大胆に、抵抗する素振りにも臆することなく、手順というか段取りというかに従って馴れた手つきで素早く手際よく、肉に食い込んだ指の跡が仄赤く残っているのを、艶やかに光って滴り落ちるのを、丁寧に拭い取るその姿を、つまり布巾が右から左へ行ったり来たり、急須を持ち上げ、湯飲み茶碗を持ち上げ、そこにできた輪状の液体を拭い取りながら、それから縁というか際というか襞に沿って嘗め上げ嘗め下ろすのを、大きく開かれた口に宛い、そのなかにすっぽり収まって、忙しなく出たり入ったりしながら艶やかに光っているのを、雫が滴り落ちるのを、呼吸が乱れるのを。
要するにいつでも開いていて自由に出入りできるのだろう、押し退け搔き分けながら敷居を越えてその向こうへ、外気との温度差ですぐに汗が引いてゆき、さらに体温を奪われてそのうち寒気がしてくるが、ひどく混雑しているそこは通路というか広場というか、開けた空間になっていて、窓はないが明るく照らされていて至るところ硝子張りのその真ん中辺りから斜めに伸びているのだが、天井はなく、いや遥か上のほうにあって、そこまでは届かないらしいそれは階段なのだが階段ではなく、というのは床が迫り上がって階段状になるのだが、地下の暗い一室で鎖に繫がれた屈強な男たちが鞭打たれながら巨大な歯車を軋ませているのだろう、それ自体が動いているから上っていかなくてもいいのであり、それなのに上っていこうとするからだろう、握る手に引き戻されて、その力の強さに後ろへ倒れ掛かって転げ落ちそうになるのを足踏みして立て直すが、そのままじっとしていなければならないからだろう、終始落ち着きなく首を巡らせてはそちらのほうへ身を乗りだし、そのたびに引き戻されるのを、それでも勢いよく流れる流れのほうへ、土砂混じりの水は濁って何も見えず、飛沫が顔に掛かることはないが波は高く下から迫り上がってくるその勢いに圧倒され、身を竦めながら無限に現れてくる板状の床に乗せるのだが、二人乗るのがせいぜいで、注意を喚起するためだろう、四辺が黄色く縁取られているからそこを踏まないように狙いを定め、それでもずっと動いているから乗せると足を持っていかれ、巧く体重移動できずにバランスを崩してしまうのをやはり握る手が引き戻して、皮膚を通して伝わる熱というか圧というか、血の通った、柔らかい、襞の奥、きつく締めつけてくるのを受け流すというかやり過ごすというか、適度に押し返してくるのを押し戻しながら深く、もっと深く、これ以上ないほどに深く沈めるのだが、鈍色のネクタイがこちらを見ているのを、大仰な身振りで何か言うのを、同意を得ようと頻りに訴えているが四囲はざわついてすぐには収まらないのを、それに背を向けて腰を屈め、突きだした尻を高く上げながら、脚を絡め、指の腹で探りながら、その一点を食い入るように見つめて今か今かと待ち構えているが、待つほどに期待は膨らんで、これ以上ないほどに肥大して怺えきれず頭から突っ込んでゆくと言ったら言いすぎか、出入りが激しいのだろう、開いた途端に狭い入口目掛けて群がるのを搔き分け押し退けてなかへ、さらに奧へ、壁にぴったり背をつけているが次々押し寄せてくるから身動きもできず、そうして汗臭い背や腹に囲繞されながらゆっくりと上昇してゆくが下降してゆくようでもあり、舞うというか踊るというか、あるいは浮遊しているのかもしれない、濡れた体にぴったりと貼りついた布を煩そうに払いながら、くっついたり離れたりまたくっついたりしながら滴る雫は表面を伝い流れて像を歪ませ、狂ったように叩きつけるその勢いに気圧されてゆっくりと素早く身を引き離し、二歩三歩と送りだしながら荒い息遣いで肩を震わせ、頽れるように凭れ掛かるのを抱きとめて二言三言囁くと、奥というか手前というか、卓の縁ぎりぎりのところを滑るように、そうしてどこへ運ばれてゆくのか、突き当たりを左に、それとも右だったか、鈍色のネクタイが頻りに何か訴えているが何を言っているのか、それを搔き消すほどの量で響いているのだろう、何処ともなしに、キリリキリリと、軋る轅(ながえ)の車の響(ひびき)というのではないが、車輪の軋みが小刻みな振動とともに干涸らびた四肢に伝わって、四肢の震えがいっそう激しくなると急須も湯飲み茶碗も布巾も小刻みに震えだし、いや震えているのは卓それ自体で、いや卓の置かれている床そのもので、つまり全部が、何もかもが、ひとつの例外もなく、もちろん鈍色のネクタイも、揺れは激しくなるばかりで一向に収まる様子はないが、それでもいつか収まって、横になり縦になり裏返っているのもある散乱した箱はそのままにしておいて突き当たりを右に、それから左に、表情は硬いが平静を装いながら、追っ手は確認できないが何度も振り返るうちに確信めく思いに変じてしまうらしく、荒い息遣いとともに布地の擦れる響きが耳元で、いずれにせよ最初はゆっくりと、徐々に早足になって、最後は駆けるように、縺れそうになるのを立て直しながら、そのすぐ脇を建ち並ぶ家々が物凄い速度で流れてゆくというか流されてゆくというか、背後でくしゃくしゃになっているのを、そうしていつか向こう岸へ、脅(おびや)かされることのない、安全な、そう言ってよければだが。とはいえ雨足が強くなるにつれ嵩が増して流れも速くなり、摺って出るように水を覗く、と風が冷(ひやや)かに面(かお)を打つというのではないが、飛沫が顔に掛かりそうだし土砂混じりの水は濁って何も見えないし、それでも手探りで指を二本いや三本、下から差し入れると軽く曲げた状態で彎曲した面に宛うというか引っ掛けるというか、母指は添える程度で触れていることもあれば離れていることもあるが、撓(たわ)んだ肉の感触を確かめるように曲面に沿って内腿から尻へ尻から腰へ腰から腹へ、持ち上げると彎曲した面が指の腹に食い込んで、汗で滑るからよりいっそう力を込めて、ずっしりと重みのあるその重みを意識してバランスを取りながらゆっくり傾けると先端から熱い液体が流れ落ちてくるが、こぼさないように少しずつ注ぎ込んでもすぐに溢れそうになって、身悶えながら波が収まるのを待つというか待たされるというか、ぐったりと横たわって小刻みに震えているのを、荒い息遣いで波打たせているのを、丁寧に拭い取るのを。