それでも果てしない道のりをほとんど一瞬で踏破してその際に至るとステンレス製の枠に手を掛け、体重を乗せて全身で押すように滑らせ、それから鍵を掛けるのだが、つまり棒状の把手を下から上へ半廻転させるのだが、ちゃんと掛かっているかどうか何度も確かめ、というのは掛けたつもりが掛かっていないということがよくあるからで、次いでゆっくりと後退りながら体の向きを変えるのだがその間際になって踏み留まり、また戻ってゆくと枠に触れ、さらに肩を寄せて凭れ掛かり、空の全部が覆われていて切れ目もない、どこか一箇所くらいあるだろうと巡らせてもどこにもない、一続きの雲の動きを、一見動いていないようだがゆっくりと物凄い速さで移動しているそれを追うように傾けながら筋状の白いものが明滅しているのを、捉えられないその軌跡を、見えたと思った瞬間見失ってしまうのだがそれでも尚見ようとするのを、意志を欠く眼差しというか、見ることなしに見るというか、捉えるべき対象を喪失しても尚彷徨わせながら、つまり放心したような虚脱したような姿が柵に凭れながら、ここにもあそこにも、黒いものがなかば背を覆い隠しているが、それを露わにしようと差し伸ばしても届きそうで届かない、筋状の白は数を増して煙ったように四囲を霞ませて、いくらか嵩を増した流れにそれはいくつも輪を作るがすぐに消えてしまい、消えてもまた次の輪ができて際限もなく、それを眺める姿もまた生じては消え生じては消えるのであるからしてどれがどれなのだか、もちろんどれも同じなのであり、それでいてどれも違うのであり、いずれにせよ満遍なく落ちてきては満遍なく草を揺らし土を湿らせ、窓にも当たって砕け散り、そのとき硝子を鳴り響かせるが、そのひとつひとつは微かなものでほとんど聞こえないにせよ重なり合ってひとつの音のように響くのだろう、途切れることはなく、人声を搔き消すほどではないが今も響いているのを、どこにいても何をしていても何もしていなくても、それを聴くともなく聴きながら尻を浮かしては下ろし、いつか風が流れて一面の雲を吹き流してゆくのを。尚幾許か硝子面に向かいながらその向こう、明滅して已まない矩形の奥というか底というかでくり広げられる事象を、そう言ってよければだが、袖で胸へ緊乎(しっか)と抱いて、ぶるぶると肩を震わした、後毛(おくれげ)がはらりとなるというのではないが、垂れ掛かる黒い房を搔き上げ、搔き上げた腕を下ろすでもなく首の辺りで彷徨わせながら、曲げた肘の作る鋭角の辺りにはいくつも襞ができ、濃い影が放射状に拡がって、ゆっくりと右に傾いてゆくのを、それとも左だろうか、それを白い筋が、数え切れない、無数の矢が貫いて、それでいて少しも濡れることはなく、濡れているのはこちらではなくあちらで、罅割れたような亀裂の走る面に沿って亀裂のなかへも染み込んで、なかまで濡れているらしく、少しずつそれが溢れ出てくるのを掬いとり嘗めとりながら尚も念入りに、滑らかな表面には白い、白っぽい、歪んだ半球状のものが無数に貼りついているが、それまで直線的だったのがそこで崩れて歪んだ線へ、蛇行しながら流れ落ちるそれを一瞥してからその場を離れると、踝と踝が当たりそうな窮屈な歩き方で湿気を多く含んだ重たい空気を搔き分けるように奥へ、いやその前に腰を沈め、卓の下から取りだした、人皇(にんおう)何代の御時(おんとき)かの箱根細工の木地盆というのではないが、丸い盆に急須と湯飲み茶碗と布巾を卓にあったのと同じ配置に、とはいえ互いの距離はずっと縮まって寄り添うように、もちろんそうしないと収まらないからだが、まず湯飲み茶碗を、それから布巾を、最後に急須を、それとも急須次いで湯飲み茶碗最後に布巾だろうか、あるいは最初に布巾次に急須そのあと湯飲み茶碗ということも、もしくは急須と湯飲み茶碗をほとんど同時に、つまり両手を使って、右手で急須を左手で湯飲み茶碗を、あるいはその逆に右手で湯飲み茶碗を左手で急須を、それから布巾を、そうして相似形を維持したまま上昇させると不安定に揺らぎながら水平に、それでいていくらかは右に傾き左に傾き、尤も少しくらい傾いたところで急須も湯飲み茶碗も布巾もそれらが置かれた位置から移動することはなく、それでも等しく移動しているのであり、つまり卓に沿って右廻りに約四分の一廻転し、卓を離れて左へ三歩か四歩、手にした盆の陰になってよく見えないからだろう、腰を捻りながら少しく盆を脇へ逸らして足元を覗き込むとそこにある、あるだろう半円形のふたつの穴へ滑り込ませ、さらに深く差し入れて、なぜといって浅いと脱げてしまうからで、そうならないように奥へ奥へと進んでそれ以上奥へはゆけないところまで突き入れると穴は完全に塞がるが、僅かな隙間と溢れ出る粘液とによって摩擦は抑えられるから抵抗なく出し入れでき、そうして抜き差しすることで刺激を受けるというか与えるというかしながら敷居を越えるのだが、その腰の辺りで一歩ごとに皺が寄り、やはり濃い影ができるのを、丸く膨らんで、それから萎んで、また膨らんで、というように布地は蠢いて已まず、上へ下へあるいは右へ左へ襞を作りながら。
そのとき疲れた眼差しを向けたようにも見えるが一瞬のことで捉え損ね、いやいつだって捉え損ねてしまうのだが、歪められた目元の翳りというか濁りというか、残像のように漂っているのを、とはいえ無理な体勢をしていたからかバランスを崩しそうになって、足を突っ張るように踏ん張って立て直すと再び一歩を踏みだすのだが、あらゆる筋肉が引き締まるのだろう、程よく締めつけられて溢れそうになるのを怺えながら一歩二歩と尚も歩みを進め、そうしてどこまでも進んでゆけそうな気がするのは握る手に握られているからで、実際ここまで来ることができたのは握る手に牽引されてのことにほかならないのだからと握られる手は握る手を、これまで以上に強く、そうしないと、そうしていないとすぐに見失ってしまう、それほどにも微かな、あるかなきかの繫がりなのであり、いや繫がってなどいないのだが、それでもいくらかは繫がっていると言ってよく、その僅かな繋がりによって辛うじて保たれていると根拠もなく、いずれにせよ強く握り締められた掌のなかで汗が吹きだすが拭うつもりはないらしく、それよりくしゃくしゃになったものが背後でどうなっているのか、見てはいけないと思いながら振り返ってしまうのを、そこに何があるのか、あったのだったか、何を見たのか、見てしまったのか、握る手に握られながら、汗を滴らせながら、粘液と混じりながらそれは腿を伝ってゆき、そのあとを這い伝う舌先の動きとともに明るく照らしだされて、押し拡げられたそこへ向けて注ぐというか注がれるというか、受け止め切れずに大半は溢してしまうが一筋の流れとなって落ちてゆくその勢い、跳ね上がる飛沫の熱さに伸ばした手を引っ込めるのを、つまみを調節して踊らない程度に弱めるが、それでも微かに波立っているのを、少しずつ染みだすというか染み込むというか、柔らかくほぐれてゆくのだが、あまり弄くり廻すのもよくないらしく眺めているほかないのを、黒い小箱を翳しながらそこに浮かび上がる輪郭の定まらない像が緩慢に動くのを、開いたり閉じたりするのを、そうしてどこからか伸びてきた腕が撫でるというかまさぐるというか、布地を滑ってゆき、焦らすような勿体振るような緩慢さで少しずつ布をずり上げてゆくのだが、捲り上げたそこには何も身につけておらず、ふさふさした毛並みを晒しながら広げてみせると、濡れているのか艶やかに光っているが、肘を曲げて濡れた部分を翳すようにしながら、といってこれから手術に臨む外科医のようにではなく、つまり指先を上に向け手の甲をこちらへ向けるのではなく、手首から先をだらりと垂らして腹の辺りでゆらゆらさせながら、それでいて幽霊めく素振りでもなく、少しく前屈みの姿勢で敷居を越えてその向こうへ。そしたらまた謎めいた響きがするがどこにも姿はなく、それでもそこにあり、もっとよく捉えようと凝らすうちに虚ろな淡い輪郭が、くっきりとまではいかないがそれなりに薄暗い背景から浮き上がってくるらしく、腰から背中へ掛けて彎曲した線の形作る瓢簞形のフォルムを、それとも洋梨形と言うべきか、ゆったりした布地によって隠されている、上下によりは左右に揺れるその動きを具(つぶさ)に、どれほど近づいても常に一定の距離を保っているその動きに合わせて波打ち曲がりくねっているのだが、明るく白っぽい色と暗く赤っぽい色と交互に異なる色が配されていて、とはいえ混ざり合ってほとんど灰色にしか見えないが、それでも近くに寄ると縞が現れるのであり、太い、いや手前は太いが奥へゆくほど細くなっている、ように見えるのは錯覚だろうか、白、灰色、白、灰色、白、灰色、白、灰色、白と果てもなくつづいているようだが果てはあり、その上を、最初はのんびりと、だんだん速く、最後はほとんど駆けるように、点滅する光と甲高い音とに追い立てられて、そしたら向こうからこちらへも迫ってくるらしく、角張った、黒っぽい大きな鞄が腰の辺りで跳ねているのを、張りだした肘が顔の前に飛びだしてくるのを、避けようとして避けられず、ぶつかりそうでぶつからず、ぎりぎりのところですれ違うのだが、体当たりするような勢いで次々と襲い掛かってくるから一歩ごとに視界は狭まり空間は歪み時間は滞って、ひどく縺れたそれをほどくことは容易ではなく、そうかと言って縺れたままにしておくこともできないらしく、並べるというか並べ直すというか、前後左右上下とあらゆる組み合わせで試みるが、どのように配しても正しい配置というかあるべき場所というか、そうであっただろうところへと至ることはないらしく、それでも尚試みつづけるほかなく、つまり押し寄せてくるその波に圧倒されながら一歩ずつ、そのすぐ傍を掠めてゆくいくつもの巨大な腕が起こす風に頬を嬲られながら二歩三歩と重ねてゆき、白灰色白灰色白と折り重なり積み重なってくしゃくしゃになっているのを背にいつか向こう岸へ、いやその前に何がぶつかったのか分からないが何かがぶつかったらしく、肩に衝撃があって少しく体が開き、そこにべつの何かがぶつかってきて押し戻されるが辛くも踏み留まって、背後に廻り込んで盾にしながら前へ、握る手を放すことはなく、尤も放すつもりもないのだが、どこへ行ってしまったのかそれはそこになく、押し流されて遥か後方へ、そうして全部が一緒くたに混ざり合い溶け合って影も形もなく、いや微かに淡い輪郭が揺らめきながら右廻りに四分の一廻転、左へ転じて二歩か三歩あるいは四歩かもしれないが滑るように、いずれにせよ敷居を越えたその先にそれはあり、腰より少し高い位置まであるだろうか、その上部に裏側からネジで取りつけられているのだろう、細い棒状の、横にふたつ並んだその右側のほうに掛けられているというか、真ん中でふたつに折り曲げられて自身の重みで支えている黄白色の、元はもっと黄色味の強かっただろうことが窺える、毳立ったそれに濡れた手を持ってゆくとそれで掌を包み込むというか揉み拉くというか、その柔らかさを確かめるように密着させながら丁寧に拭い取るその背を、腰を尻を太腿を具に、いや振り返ってなどいないのを、前を、ひたすらに前を向いていたのを、追い越し廻り込んで確かめたいのを怺えながら、黒い小箱を翳しながら。