𠮟るような窘めるような宥めるような諭すようなそれはすぐ耳元で、それでいて遥かな隔たりが、というのは日の暮れ掛かる頃、雨だろうか、雫が滴り落ちてくるのを、それが見る見る音を立てて、空坊主になった梧桐をしたたか濡らし始めたというのではないが、次第に強くなりながら止め処なく落ちてくるのを、もちろん上から、遥か上空から、小雨程度なら濡れてもすぐに乾くが本格的に降りだすと防ぐ手段はないから手早く荷物を纏めて帰途に就くほかになく、といって大したものは所持していないから手間取ることもないが、とにかくそうなる前に、雲行きの怪しくなってきた時点で決断すべきなのだが夢中になって気づかないこともしばしばで、あと少しだけもうちょっとだけとずるずると決断できずにいるうちに小粒な雨が頬に額に腕に手に、もちろん開かれた頁にも、慌てて掌で拭うと滲んで灰色の染みとなって拡がり、それでインクが滲むことはないし乾けば元の白さを取り戻しはするが一度ふやけて波打ったら決して元には戻らないというか、指の腹を滑らせるとそこだけざらざらしているのが分かるほどに繊維がほつれ毳立っているのを、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やむよりは怒りを覚えるがその矛先をどこへ向ければいいのか、背を屈め、さらに丸めたその内側に囲い込むようにしながら腰掛け横たわっていると声が、すぐ耳元で、ほら何してんのもう、というその声に弾かれるようにして駆けだすと緩い勾配の、何度も駆け上がり何度も駆け下りた斜面を一気に駆け上がり、途中二度ほど足を滑らせて転倒こそ免れたものの掌が土塗れに、爪の間にも入り込んだらしく弓なりに湾曲した白い部分が黒くなっているのを、尤もそれはあとになって、棚のなかの所定の位置へ戻し置く段になってその背に添えた指の先の当の黒ずみに気づいたのだが、拭っても拭っても落ちないのを気にして何度も洗面に立つからそのうちかさかさになって、それでも執念く流れのなかで擦り合わせるその滑稽を思いながら尚立たずにはいられないのを、今にも剝がれそうな皮膚を指先で刮(こそ)げるといくらでも落ちてゆき、きらきらと明滅するそれは雪片のようだがすぐ見失ってしまうのはあまりに速すぎて捉えられないからで、尤も殊更追い掛けようともしていないからだが、そうして落ちてくる雨粒を受けながらおよそ平坦ではない凸凹したところを駆けてゆき、その遥か先をゆく姿を追い掛けながら跳ね踊るその背に一歩でも近づくことが新たに与えられた、というか今尚継続中のミッションなのだとその背を、覆い被さり跳ね上がる黒さとともに、差し入れた指の間から艶やかに煌めき翻る様を何度も何度でも、ところが先刻(さっき)まで疎らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて見渡す限(かぎり)の空間を一度に充たして来るというのではないが、その膜に覆い隠されて姿は見えなくなり、声も途切れ途切れになってもう、だからどこへ行けばいいのか、もちろん指示された場所へだが濡れた図面に引かれた発色のいい赤もしくはピンクだった線は滲んで線の体を成しておらず、見える線さえ見えなくなってはもう、とにかくどうやってそこへ至ったのだか謎なのだが、そこでまた呼ばれるまで待たなければならないらしく、狭い通路に設えられたやはり相応な硬さで長居できないような席へ掛けながら幾日も、暮れ、昇り、また沈んでまた出てと際限もなくくり返されるのを、百年の間身を粉(こ)にしても出られないというのは本当だろうか、時折通りすぎる影のほうに、ひとつとして同じものはないが、それでいて全部同じものでもあるそこに焦点が合うとそのまま引き摺られてしまう、引き摺られながらそれでも尚踏み留まって流れてゆくのを見るというか見られるというか、そうして呼ばれたら、呼ばれるに違いないが、大人しくそのあとについてゆき、そこにある大仰な装置の前に立たされて指示された姿勢を取ることに、ただでさえふらついているのに無理な姿勢を求められ、職務に忠実なのか相手を苦しめることに悦びを見出しているのかただ憂さを晴らしているだけなのか、さらに動くなと言われて余計意識してしまうせいかバランスを崩して倒れそうになり、それをどうにか怺えている間に何かを照射されたらしいが一瞬のことで見逃してしまい、不意を突くというか隙を狙うというか、あまりにも姑息なやり方に憤るというのではないがどこか釈然としないのを、尤も事が済めばもう用はないというようにすぐ奥へ引っ込んでしまったから異を唱えるどころではないのだが、そんなわけで送りだされるというよりは追いだされるようにそこをあとにするとまた元の場所へ引き返すことに、なぜといってそう言われているのだから、つまり使い走りに等しいが、ほら、と一喝されると身体のほうが反応してすぐにも起つというか行くというか、勢いよく飛びだしてしまうから何が口にされたのか何を受け止めたのかほとんど飲み込めていないのであり、だから幾度も反芻しながら行ったり来たり、そうして図面の通りに辿っているはずなのに辿り着けないのは意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段(はしごだん)を降りたりするからではなく、図面が変化しているか通路が変化しているかのいずれかだがいずれが変化しているにせよ当の変化の跡を見出すことができなければ彷徨いつづけるほかになく、だから彷徨いつづけているのだがその間に転送されるらしく、電子的データとして瞬時にそれはあちらからこちらへ、常に相手の裏をかくような形で為されることにいくらか戸惑いながら矩形の枠の内側に映しだされているそれを見ると、黒っぽい地に青白く発光している断面図というか透視図というか、もちろん自身のものにほかならないが、それでいて自分のものではないような、というか誰のものでもないような、剝きだしの、生々しい、肉というか骨というか、消え入りそうなほど薄いその形を眺める姿を窺いながらそれが何を意味しているのかを、そこから意味を取りだすのを、それとも生みだすのだろうか、とにかく何かが出てくるのを、その口から、その口を通して。
粘膜の艶やかな肉色が少しく覗く、今にも何かを吐きだしそうに窄めているそこから出されたものを持ち帰りはしてもスペシャリストではないから持て余すことになってほとんど消化できず、というか飲み下すことも難しく、あるいは粉々に嚙み砕けば嚥下もできようがそれはそれで何か別様のものに変じてしまうと危惧されもして、そうとすれば舌の上で転がしながら少しずつ溶けてゆくのを待つよりほかにないが、溶けているのかいないのか俄には分からないし、しっかり閉じていないと溢れて垂れてきそうだし、といくらか持ち重りのするそれを抱えて尚しばらく坐り込んでいるのを見兼ねてか、行くよほら、と声が掛かり、その声に押されて腰を上げるとそのあとに従ってゆくが、いつの間に集まってきたのか狭い通路には長い行列が遥か向こうまでつづいているらしく搔き分けても搔き分けても列の途切れることはなく、よほど人気のアトラクションらしいが握る手は握られる手を引いて列には目もくれないからそれがどんなアトラクションなのかを確かめることはできず、ただその温気に阻まれて、空調は寒いくらいなのに、握る手が握られる手とともに汗ばんでゆくだけで、滴る雫が路面を黒く染めるのを、今はもう跡形もないその跡を辿りながら道なりに、白く眩しい線を踏み越えて一跨ぎにその向こうへ踏みだそうとすると、物凄い轟音と振動を伴って何台もそこを横切ってゆき、右からも左からも川のように流れて止め処もないから踏みだすことが、というのはふたつが交差しているからで、どちらがどちらを横切っているのか分からないが、こちらは狭く湾曲していてあちらは広く真っ直ぐで、そうしてこちらが赤のときにはあちらが青であちらが赤になればこちらは青になり、そしたら流れが止まって横断できると雫を滴らせながら青になるのを、それから向こう岸へと踏みだすが、いつ飛びだしてくるかと気が気ではないから縺れそうになって、だから握る手の支えがなければとても渡り切ることはできないし、細かい石の敷き詰められたような表面は平らなようでいて凸凹しているから途中で蹴躓いてしまうだろう、そしたらそこを目掛けて突進してくるに違いなく、それを逃れる術はないのであるからして呆気なく終わるというか簡単に済んでしまうというか、つまり今まさに物凄い速度で迫ってくるのを目にして握られる手はいっそう強く握る手を、そうとすればもう済んでしまったということになるがそれは本当だろうか、もちろんまだ全部済んだわけではなく、粗方済んだのかそれとも全然、何ひとつ済んでいないのかはっきりしないが、それは向こうの出方次第でもあるからで、尤も向こうは向こうでこちらの出方次第という構えを崩さないらしく、そうして睨み合ったまま互いに一歩も譲らないとなればどこまで行っても交わることはなさそうで、それでも全部が片づくまでは、もちろん片づくとしての話だが、それまではこうして腰掛け横たわりながら指折り数えながら開いたり閉じたりしながら行ったり来たり、廊下を一曲り曲ったら、果してどこへ帰っていいのか解らなくなったというのではないが、濡れて滑りやすくなっているから思うに任せず、それでも右へ曲がり左へ曲がりしながら行くというか帰るというか、狭い通路を指示に従って、誰のかは知らないが、鉤の手に曲がったその先の左側にいくつか並ぶ矩形の手前からふたつめ、閉ざされているその前で当の矩形が開かれるのを、そうしてやはり名を呼ばれるのを、つまり名によって矩形の向こうへ一跨ぎに、段差のない敷居を踏み越えて、それなのにそこでまた通せんぼされて透けるほど薄い布地の半袖が涼しげというより寒そうな姿で華奢な腕を拡げてさらにも狭い通路を遮るように開るのを、そうして金目のものはあるかあるなら出せと丁寧な物言いながら有無を言わせず、その唐突な申し出というか要求に理解が及ばず曖昧に濁していると、飛び跳ねろとやはり有無を言わせぬふうだがその意を汲み取ることもできず、まあ何となく察しはつくものの確信が持てずに尚も黙しているその間にだろうか、身を寄せてきて、とはいえあまりにも接近しすぎているため煙草臭い息が顔に掛かり、ちょっと背けたくらいでは避けられないがあからさまに背けるのもためらわれ、半歩ほど後退して距離を取ると少しく上体を反らしながら左足を軸に素早く反転して勢いよく駆けだすタイミングを推し測るが、後退したその分だけ詰め寄ってくるから常に退路を断たれる恰好になり、表通りから隔たった奥の暗がりのほうへ一歩また一歩と追い詰められて逃げ場を失い背が壁に、というか壁が背を、つまり背と壁がこれ以上ないほどに接近して、そしたら肘のところで曲げた腕を前へ伸ばしてほぼ水平に、つまり上腕部と前腕部とを約九十度の角度にして小さな前倣えのような構えになり、といって片方だけだが、もう一方に大振りのファイルを小脇にしているからだろう、次いで肘部分を基点に下から上へ扇ぐような仕草を、上げるときは速く下ろすときはゆっくり動かしてみせながら、もちろんいくらかなりと風を送って涼を取らせようとのことではなく、尤も問い質して確認したわけではないからその可能性を否定するものではないが、ジャンプだよジャンプと急に横柄になったから何となく察せられ、従わずにいると何度でもくり返すから仕方なくその場で飛び跳ねるとじゃらじゃらと小銭やら何やらの立てる音が漏れ、その音に華やいだ笑みが浮かぶのを、言葉より多くを語っているその笑みが何を言わんとしているかは、ほら、と促されるまでもなくポケットから取りだすとベルトも外すことを要求されてそれがないとずり落ちてくると拒んでも、なぜといって腰回りと合っていないからだが、追跡を困難にするとともに逃走の時間を稼ぐことにもなるからだろう、あるいはマニュアルを絶対視しているのか軽く受け流して笑みを崩さず、だから尻を半分晒したまま指示されたほうへ、裾を引きずりながら踏みつけながら狭い通路を奥へ、そこを抜けるといくらか開けた空間になるが窓はなく、いやひとつだけ隣室との境の壁を刳り抜いて通常より少し高い位置に小さな、そこからこちらの動静を逐一監視するのだろう、横に長く開閉できない覗き窓が、こちらより明るく照明されているようなのによく見えない分厚い硝子の向こうを影が横切った気がするが確かめるまでもなく華奢な腕に遮られ、そこにある台をそれは示しているが横柄な態度は改めたらしく、穏やかに促すその穏やかさにいくらか警戒が薄れ、ほとんど露出している尻を突きだしながら倒れ込むようにそこへ、四角く細長い、やはり眠るためのものではないそこへ、つまり台のほうへ。